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文久3年2月26日(1863.4.13)
【京】生麦償金問題:慶喜・慶勝・春嶽・容保・宗城、開戦の覚悟を定めること、
天皇に直接奏上の機会を設けること、江戸守衛のため水戸藩主慶篤に帰府を命じること、
諸侯帰国の暇を出すこと等を鷹司関白に請う
【京】 足利木像梟首事件:守護職、犯人捕縛(強硬策に転換)

■生麦事件償金問題
【京】文久3年2月26日、朝廷に英国との交渉を報告すると議定した在京幕府要職は、関白鷹司輔熙に開戦の覚悟を定めること、江戸守衛のため水戸藩主慶篤に帰府を命じること、諸侯帰国の暇を出すこと等の意見書を提出しました

この日の朝、二条城において、慶喜・慶勝・春嶽・容保・宗城が集まりました(慶喜は先夜中川宮邸にため明け方帰館したため遅刻)。到着した江戸便

生麦事件は、そもそも「日本政府に意ありて」あのような「暴行者」が出来したわけではないことは明白である。英国は深くその事情を察し、償金であれば、「政府に於て最計らひ易」いだろうと、50万両を請求した。
「決答」期限を、最初は15日間と申したが、改めて20日間とする。20日間なら、十分評議をする余地があるだろう。
このように「政府の都合を酌量して」申し出た事なので、この上、20日を経て「決答」がなければ、戦闘に及ぶだろう

衆議の上、この件を速やかに言上することになり、慶喜と春嶽が鷹司輔熙関白・近衛忠煕前関白・中川宮のもとに赴きました。

【京】同日、慶喜・春嶽は、関白鷹司輔熙・近衛前関白・中川宮に面会し、償金を払わぬ際は戦争になり、上下が焦土となる覚悟を定める必要があるとして、天皇への直接奏上と諸侯帰国の暇を出すことを求めました

両者は、英国の主張を説明した上で、<償金を支払わぬ時には開戦となりますが、目下、軍備が未だ整わぬばかりでなく、策略においても必勝の見込みがありません。ゆえに、この上は「皇国を赤土となし一人の生存する者なきに至るの覚悟」を定めざるをえません。さて、この覚悟を定めるには、恐れながら第一に至尊(孝明天皇)がその御覚悟を定められなくては適いませんので、現況を直に奏上できるようお取り計らいください。また、このような状況になった上は、速やかに在京諸侯に御暇を命じてください>(意訳by管理人)と陳述し、参内謁見を求めました

深更になって、関白・前関白から明日参内するようにと指示がありました。

【京】同日、在京幕府は、関白鷹司輔熙に対し、開戦の覚悟を定めること、江戸守衛のため水戸藩主慶篤に帰府を命じること、諸侯帰国の暇を出すこと等の意見書を提出しました(慶喜・春嶽参殿時に提出したと推測されます)

●一通目は後見職一橋慶喜・総裁職松平春嶽・前尾張藩主徳川慶勝の連署。英国の要求を報知し、幕府は英国の要求を拒否する方針なので「戦争に及び候は必然」だと告げ、大坂港の守衛を諸大名に命じ、上京中の水戸藩主徳川慶篤に江戸守衛のための帰府を命じたいとの内容。
●二通目は、慶喜・春嶽・慶勝に守護職松平容保・前土佐藩主山内容堂の連署。いつ兵端が開かれるかわからないので諸大名に藩地の警衛を尽させたく、在京中の沿海国大名に帰国の朝命を出してほしいと求める内容。(「任長朝臣記」『徳川慶喜公伝史料篇』一)

<ヒロ>
慶喜らが在京諸大名の帰国を求めた理由は、『徳川慶喜公伝』では、藩地の守備に名を借りて「長州一派の勢力を遠ざけ、平穏に将軍の上洛を迎」えようとする策であろうとしています。(同感です)。天皇に直接奏上を願い出たのも、同様に、この件を利用して、急進派に遮られずに、天皇の意思を確かめる、あるいは説得する機会を作ろうとしたのだと思います。

また、水戸藩に東帰を求めた理由について、『水戸藩末史料』には江戸からの急便として「此時風説左之通。生麦村へ異人上陸乱暴被致に付、関東為御守衛御引返し被遊候様にとの御模様又外文通を見るに宮宿より被御帰府被仰出候は春嶽候にて島津三郎と打ち合わせ置き、君上御登りと罷り成るは陰謀も顕れ候事と御支え申上候心底に相違無之との由」という大意の書簡があったことが記されています。激派の反応がわかって面白いと思います(主筋にあたる慶喜は批判せず、鉾先を春嶽・久光に向けている点とか)。

関連:■テーマ別:「生麦事件償金問題」「水戸藩」 ■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京
参考:『徳川慶喜公伝』2・『徳川慶喜公伝史料篇』一・『続再夢紀事』一・『水戸藩末史料』(2004.4.12)

■足利木像梟首事件
【京】文久3年2月26日、京都守護職松平容保は、足利将軍木像梟首事件の犯人捕縛させました。

同月22日に起きた梟首事件(こちら)に激怒した容保は、23日、犯人捕縛を決意しました(こちら)。

この日の朝、町奉行の永井尚志が、浪士捕縛に関して容保に面会しました。永井は浪士14〜15名を捕縛することにより、その他200〜300名の浪士が蜂起する可能性を指摘し、後見職一橋慶喜、総裁職松平春嶽と熟議の上でなければ、厳罰に処せられることになろうとも、捕縛の命令には応じられないと言ったそうです。そこで、容保は、慶喜・春嶽の同意を得た上で、町奉行役人と会津藩士を浪士捕縛に向わせました。このとき、与力・同心だけでは心もとないと考えたため、浪士一人に対し、与力一人と会津藩士7人(上士2、下士2、足軽3)を配置しました。また、藩士は京都の地理に疎い為、公用方河原善左衛門、大野英馬、松阪三内、柴秀治、広沢富次郎に先導させました。

捕縛が迫るときいた浪士の一人仙石佐多男は自害しましたが、大庭恭平を含む8名が捕えられました(この夜脱げ遂せた浪士のうち、2名は後に近江で捕えられました)。

浪士捕縛の噂をきいた長州藩久坂玄瑞は、「会津若し捕縛の処置に出るあらば、浪士等皆我藩邸に来るべし、能く庇保せん」と言ったそうですが、その言葉が伝わらないうちに捕縛が始まったといいます。

<ヒロ>
容保は、足利将軍木像梟首事件を機に、それまでの「言路洞開」[攘夷先鋒」という穏健路線の浪士対策から強硬路線に転じました。ただし、「不逞」浪士と「有志」浪士は区別しています(こちら)

また、永井の反応から、守護職の町奉行への指揮権が確立していないこともうかがえるのではないでしょうか。

関連 : ■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別文久3年:「浪士対策」「足利木像梟首事件」■「志士詩歌」足利木像梟首事件 
参考:『七年史』一・『会津藩庁記録』一(2001.4.12、2003.4.20)

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