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文久3年3月19日(1863年5月6日) 

将軍東帰:滞京の布告/摂海攘夷戦争指揮は偽勅

■将軍東帰&攘夷親征
【京】文久3年3月19日、将軍徳川家茂は孝明天皇から直接滞京を求められ、これを請けました。このとき、摂海攘夷指揮の件について天皇に確認したところ、こちらは偽勅だと判明したそうです。

◆天皇、将軍を優遇。
この日将軍は、後見職一橋慶喜、守護職松平容保、老中らとともに参内しました。伊達宗城が慶喜の密話として記すところによると、東帰の暇を願う予定だった家茂は、孝明天皇が、将軍がいないと心細いので滞京するようにと求めたのに感激し、東帰をやめたようです(「実に御隔意なく、何分大樹公御滞京之無くては御心細く思召され候旨、御懇篤の御沙汰故、最前大樹公是非御暇御願と御存込候えども、感銘堪えられず、御請仰せ挙上げられ候」)。なお、『七年史』では、このとき、天皇は「関東の攘夷、時期切迫にして、若し合戦に至らば、大樹留守中の事なれば、必ず困難なるべけれど、又爰元も大樹居らざれば、必死と困難を覚ゆれば、何卒此地いあらむ事を依頼す、滞留して諸侯を指揮する事、大樹の意の如くにして疑うなかれ、諸侯には又、大樹の指揮に違うなからしめよ。此の如くにして、尚ほ安堵の道なくば、大に憂うべし」との勅諚を下したとされています。

これを受けて、伝奏から諸藩に以下のような書付が達されました。
「今日大樹御直に御熟談別紙ヶ条大樹御請申上げられ候。就いては大樹公より申し渡しの儀も是あるべし。心得の為に申し達すべき旨、関白殿命ぜられ候事
   別紙
大樹帰府の事段々勅諭を以て召しとめられ候事。先日御沙汰あらせられ候通り、将軍職万事是迄の通り御委任に候、就いては諸大名以下守衛万端指揮致されなば御安心に候事。事に寄り候はば、御親征も遊ばされたき程の思召に候事」
(↑『続再夢紀事』所収の達文)

◆孝明天皇の真意は無謀の攘夷を好まず
また、この日、天皇は「無謀の攘夷の如きは、決して朕の好む所にあらざれば、宜しく其意を体すべし」(『徳川慶喜公伝』2)と命じ、関白鷹司輔熙も<生麦事件の償金交渉についてはすべて委任しているので、速やかに関東に使者を送り、戦端を開かぬよう宜しく取り計らうように>と述べたそうです。そこで、将軍が<過日の勅命では、英国人を大坂に回して交渉させよ(さらに、戦争が起れば、臣みずから指揮せよ)とのことでしたが(こちら)、叡慮はそのとおりなのでしょうか>と確認したところ、天皇は驚き、<そのような勅は知らない>と述べたそうです。(『七年史』)

これが、(急進派公卿に牛耳られた)伝奏から伝わる勅命と、天皇の真意が違うことがあることを、幕府側が直接確認した最初となりました

◆辞職を決意していた松平容保
ところで、滞京派だった容保は、この日、将軍東帰が決まれば守護職を辞す決意で、家老横山主税を老中格小笠原長行のもとに遣わして、意見書を提出していました。要約すると、とにかく、一和のために、天皇の考え通り滞京せよということです。では、江戸の混乱はどうするかというと、重職の誰かを派遣して、将軍の考え通り交渉に当らせれば収束するだろうし、償金支払いについては別途朝廷に願い出ることにせよと言っています(まったく楽観的です〜^^;)。で、やはり、最後に、幕府と会津藩の間には、将軍が上洛して京都を直接守護するという約束(こちら)があったことを持ち出し、このことも考慮するよう迫っています(「兼て於江戸、御上洛御直衛可遊旨被仰聞候義、家来共一統服*罷在候間、既に此間も、駿河守(=岡部長常)へ面会の上、申述候義(こちら)、何分不居合に候間、此段も御推察被下度、奉存候」)。

意見書を見た小笠原は「理に於て真に然り」なので、自分たち老中も滞京となるよう勉めよう、もし強いて東帰となれば三人とも退職するつもりなので、守護職に知らせよ、と言ったそうで、それを聞いた容保は、喜んで、すぐに参内したとか。(小笠原は、その後、率兵上京して将軍を東帰させる人物なので・・・、これはリップサービスだったのかも・・・と思いますが)。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京■テーマ別文久3年:「将軍東帰問題」「生麦事件賠償問題」■テーマ別文久2年:「容保VS幕閣
参考:『徳川慶喜公伝』2・『七年史』一・『続再夢紀事』一・『伊達宗城在京日記』2001.5.6, 2004.5.7

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