1月の「今日」  幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年12月8日(1863.1.27)
【江】幕府、容保に翌春早々の将軍上洛及び将軍直々の京都守衛を伝える
【江】慶喜、水戸藩に藩士10名借用を申し入れ
【江】容堂、幕府に長州藩士による外国人襲撃を警告
【江】幕議、浪士組お抱えを決定

■容保の上京
【江】文久2年12月8日、老中板倉勝静は、前日に上京の暇を与えられた京都守護職松平容保に対し、「注意すべきの書」(翌春早々の将軍上洛及び将軍による京都守護を約束し、上京を促す内容)を渡しました

来春早々(将軍が)御上洛、御警衛遊ばされ候御積に候間、それ迄の間、彼是の儀、之有り候えども、皇国の大事を思い、堪忍び、家来共居合い方、精々心を用い、早々上京致さるべく候」(注:管理人が読みやすく書き直しています。下線は管理人)

このとき、容保は、仮宿舎に指定された千本所司代屋敷が手狭であるので、黒谷の金戒光明寺を仮宿舎に定めたことを幕府に報告しました。

<ヒロ>
●会津藩への全権委任と将軍上洛・直接警衛
京都守護職に任命された容保に対しては、前日(7日)に将軍から(二度目の)上京の暇が与えられていました(こちら)。その容保に対して、老中は、将軍が翌春早々に上洛して直々に京都守衛を行うという言質を与えています(将軍の上洛自体は6月に決まり(こちら)、翌春2月という時期も9月に布告されていました(こちら))。そして、それまで、色々あるだろうが、堪忍ぶようにと諭し、最後に早々の上京を求めています。容保は求めに応じ、翌9日に出立しています。

なぜ、老中はこのような書状を容保に渡したのでしょうか。

実は会津藩は、守護職に任命された閏8月上旬、「斯ル大任」を仰せ付けられたからには、「格別ニ御威権之御沙汰」がなくては勤めは果たせないと考え、赴任の条件として京都守護に関する全権委任を求めていました。具体的には、(1)「兼而御警衛之方々(=所司代以下幕府組織・京都警備担当の9大名)」はもちろん、「中国西国の諸大名」にも非常時には万事会津藩に従うように(「万事御家之節度ニ被随候様」)台命を出すこと、(2)御所の外については全権を委任し、「諸家之野心暴発」のときは速かに「御征伐人数」を出すことを、京都警備担当の9大名家に予め命じること、の2点を幕府に求めており、京都町奉行に任命された永井尚志から「被仰立候通り相成筈」との「御挨拶」受けていました(『会津藩庁記録』一p44)。

ところが、その後、全権委任の正式な沙汰は付与されませんでした。にもかかわらず、会津藩が上京の準備を進めていったのは「将軍上洛し親しく守護し給えると云を以て論ずべきもの之を待て論ぜず」だったからと、会津藩公用局員の広沢安任が記しています(「鞅掌録」『会津藩庁記録』三)。つまり、全権委任という条件と将軍の早期上洛・直接守護という条件が引き換えられたわけですネ。

管理人は、江戸を出立する前に、会津藩がこの条件を書面にすることを催促した結果が、この日の書状なのじゃないか、と想像しています。老中にしても、書面にしたのだから、早く上洛してちょうだいよ、という感じなんじゃないでしょうか(きっと^^)。

将軍の2月上洛と京都直接警衛を信じて上京の途に着く容保ですが、その後、薩摩藩主導の将軍上洛延期運動が起り、状況が怪しくなり、容保は家臣を江戸に送り、改めて将軍の早期上洛を促すはめになります(こちら)。薩摩藩とはとことん相性が悪い様子です^^;。

参考:『会津藩庁記録』一、三・『七年史』一・『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2・『幕末政治と倒幕運動』(2004.1.28)
関連:■テーマ別:「容保の上京遅延」「会津藩VS幕閣・春嶽「会津VS薩摩(薩摩藩の守護職任命運動)」「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の京都会議」■守護職日誌文久2 

■後見職・総裁職の先発上京
【江】文久2年12月8日、幕府は、大目付岡部長常(駿河守)に、将軍に先発しての西上の命を受けた後見職一橋慶喜への随行を命じました

同日夕、慶喜は、実家である水戸藩家老武田耕雲斎を呼び出し、「今度の西上は非常の重任なるに、家来無人の際なれば、相談相手として其方を召連れたし」と申入れ、さらに藩士10名の借用を要請しました。

<ヒロ>
慶喜は、12月4日、摂海防禦のための大坂湾視察を名目とする上坂を命じられ、随行には大番頭松平康正(因幡守)・書院番頭渡辺孝綱(肥後守)・小姓番頭土岐頼徳(大隈守)・講武所剣術師範役男谷信友(下総守)・講武所頭取滝川元似(主殿)に随行が命じられていました(こちら)。この日、さらに大目付岡部長常(長崎奉行時には踏み絵を廃止するなど進歩的な幕臣です)も随行を命じられました。なのに、慶喜は、なぜ実家の水戸藩から藩士を借用するのでしょうか?

実は、御三卿一橋家はいわば将軍の家族であり、家老以下諸職は幕府から派遣されていて、多少の家臣はいても、会津藩や長州藩のようにいわゆる「譜代恩顧」はいないのです。『徳川慶喜公伝』では、「身を挺でて上国に飛躍せんとするに当り、実家の縁によりて水藩に依頼せられしもの、畢竟之が為なるべし」としています。

なお、慶喜が依頼する武田耕雲斎(59歳)は、水戸藩尊攘激派の信望の厚い人物。文久元年6月の水戸藩激派による東禅寺英国仮公使館襲撃事件の責任を負わされ、罷免・謹慎処分を受けていましたが、文久2年11月22日に藩主慶篤の命により、復職したばかりでした。

参考:『徳川慶喜公伝』2(2004.1.28)
関連:■テーマ別:「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の京都会議「安政の大獄関係者の大赦・処罰」幕末水戸藩かけあし事件簿

■長州藩士の英国公使館襲撃事件
【江】文久2年12月8日、前土佐藩主山内容堂は、幕府に対して、長州藩士中に脱藩して外国人を襲撃しようとする者がいるので、アメリカ公使館の置かれている麻布善福寺(hp)と横浜の警備を厳重にするようにと内々に談じました

<ヒロ>
長州藩士による外国人襲撃計画はニ度目になりす。一度目は世子毛利定広の説得で中止しましたが、実は断念していなかったのです。それにしても、幕府が予め襲撃計画を知っていたとは・・・。

参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2(2004.1.28)
関連:◆文久2年11月12日(1.1):薩摩藩高崎猪太郎(高崎五六)、山内容堂に長州藩士横浜襲撃計画を告げる ◆11月13日(1.2):【江】高杉晋作・久坂玄瑞ら長州藩士11名、世子毛利定広の説得で横浜襲撃中止 ◆12月8日(1.27):容堂、幕府に長州藩士による外国人襲撃を警告/ ◆12月12日(1.31):高杉、久坂ら、品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ち

■浪士組
江】文久2年12月8日、幕府は浪士お抱えを決定しました。前土佐藩主山内容堂の発言により、政事総裁職松平春嶽が決めたそうです。

<ヒロ>
その容堂に働きかけたのは間崎哲馬だそうです。この件に関する容堂や間崎の関与は、小山勝一郎著『清河八郎』によるのですが、出所が不明です。随分探しているのですが・・・。(容堂の関与は、『新選組史録』引用の春嶽宛容堂書簡で、幕議決定を喜び、早々に浪士募集を実行するよう促す書簡を春嶽に送っていることから確実のようです。その書簡も全文をみたことがなく、探しているのですが・・・)。

参考:『清河八郎』・『新選組史録』(2004.1.28)
関連:■清河八郎年表文久2年

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