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文久3年3月17日(1863年5月4日) 

【京】将軍東帰:幕府、東帰奏請/朝廷、滞京&摂海での攘夷を求める/
【京】春嶽辞任&将軍東帰:山内容堂、春嶽に、将軍の「敵地」脱出までの在職を勧告。春嶽、断る
【京】将軍東帰:松平容保、将軍滞京の意見書を岡部長常に提出。

■生麦事件償金支払問題&将軍東帰
【京】文久3年3月17日、幕府は将軍徳川家茂の東帰を奏請しましたが、朝廷は滞京して摂海に英国艦を迎え、攘夷を実行せよ、と東帰を認めませんでした


この日、後見職一橋慶喜と老中が参内して、将軍東帰を奏請しましたが、朝廷は前議の通り、<幸い将軍上洛中なので、英国艦を摂海に回航させて、直接償金支払い拒絶を告げ、英国が承諾せねば開戦し、時宜によっては鳳輦を進める(天皇も出陣)すべし。到底帰府の暇など与えられない>と、将軍滞京&大坂での攘夷実行を求めたそうです。慶喜らは、英国艦を摂海に迎えることの非を再三主張したそうですが、聞き入れられず、三更後に退出し、そのまま二条城に集ってさらに評議をしました。解散したのは翌18日朝になっていたそうです。

<おさらい>
○無理な攘夷期限と将軍滞京延期運動
将軍上洛前、尊攘急進派の仕切る朝廷から攘夷期限設定を迫られた将軍後見職一橋慶喜/在京幕府は、将軍滞京は10日間で、さらに江戸帰還後20日以内に攘夷談判に着手すると約束し(こちら)、朝廷からもその旨の沙汰が下りました。この沙汰に従うと、3月4日に入京した将軍は3月14日に江戸へ向けて出立することになります。いったん帰府すると20日以内に攘夷の実効を挙げねばなりませんが、それはとうてい無理だというのが慶喜たちの認識でした。

危機的な状況を打開するために、慶喜が考えたことは、今後の公武一和の実現と近々に入京する薩摩藩国父島津久光の周旋に期待した滞京延期(それに伴う攘夷期限の延期)でした。ちょうど、江戸において生麦事件の談判が予断を許さない状況でもあり、3月8日、慶喜は、京都守衛のための将軍滞京と江戸防御のための水戸藩主徳川慶篤の東帰を奏請し(こちら)、11日には朝廷から「公武一和人心帰趨」のための将軍滞京、(慶篤ではなく)慶喜か春嶽の帰府・攘夷防衛戦争の指揮の沙汰を得ました(こちら)。翌12日には朝廷は、慶喜・春嶽一方の両日中(3月14日まで)の退京・帰府を催促し(こちら)、14日には、鎖港交渉のために春嶽の帰府を命じました(こちら)

ところが、春嶽は、公武一和の周旋に限界を感じて、9日に幕府に総裁職辞表を提出して引篭り中で、慶喜らの慰留にもこたえず(こちら)、15日には重臣を通じて朝命を断るよう求め、改めて辞職を再願しました(こちら)

○生麦事件償金交渉と将軍東帰運動への転換
さらに、15日に江戸からの使者が到着し、諸外国公使が、将軍滞京延期により幕府に疑念をもっており、さらに将軍辞任の風説を伝聞して、交渉相手の変更があれば本条約遵守もおぼつかないと不信感を募らせていると告げ、早々の将軍帰府を促しました(こちら)。在京幕府は、これを受けて、将軍の21日京都出立を内決し、使者を江戸に派遣して英国側に伝えさせました。(将軍東帰を決めた理由には、その外、(1)生麦事件の交渉が迫るというので、交渉決裂による戦を怖れて江戸・横浜市中が動揺し、それをきいた将軍随従の旗本・御家人が帰府を望んだ、及び(2)公武合体連合策がはかどらず、総裁職の春嶽が辞表を提出し、また、薩摩藩の島津久光がようやく上京したものの、その建白が容れられず、却って誹謗されて、退京の準備を始めたということもあったようです)。

こういう状況なので、21日以前に帰国の暇を得ねば、英国人の不信をさらに買うことになります。それで、この日、慶喜と老中が参内して、東帰を奏請したのでした。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「生麦事件償金支払&第一次将軍東帰問題
参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2(2004.5.5)

【京】同日、守護職松平容保は、家老横山主税を登城させ、大目付岡部長常に将軍滞京の意見書を提出しました

意見書のポイントは以下の通り
この度、御上洛になり、寛永以後の廃典を復活されたことは恐悦至極である。
余りにも暫時の御滞京を仰せ出されたので、恐れながら「御一和」も覚束なしと恐懼していたが、過日天朝より、御一和が整い、人心が帰趨するまで御滞京せよとの御沙汰があり、恐悦していたところ、横浜表の事情切迫により、御帰府されるようでは、朝命を蒙られてから未だ間もなく、御一和の成功・人心帰趨に至らぬ時期に、強て御東帰遊ばされば、叡慮の程も計り難く、天朝に対して御不都合なのではないかと、深く痛心している。
従って「長々御滞京御警衛」され、叡慮達成の上、御帰府されたい。(横浜の)「夷情切迫」の件については、(朝廷の)御沙汰の通り、御後見・総裁職のどちらかが下向し、「掃攘之功」を立てよう。
私が当職(=守護職)を命じられた際、「来春早々御上洛御警衛」になると聞かされたので、日夜待上げていた。既に御上洛になり、英仏国人等へは摂海へ渡来するよう申し遣したようである。
重き朝廷の恩命が下ったからには、長く御滞京され、「神州無窮治安の基本」が立つよう願いたい。
(参考:『七年史』より口語訳・要約。箇条書きも管理人。素人なので資料として使わないでね)

<ヒロ>
容保と幕閣の意見が齟齬するのはこれが最初ではありませんが、今回の意見書からは、公武合体が成らないうちに、自分たちを残して将軍に東帰されるのは困るという本音も読み取ることができると思います。実は、容保は着任前に京都守護に関する全権委任を付与されておらず、将軍の早期上洛・直接守護という条件があってようやく、上京したようなものでした(こちら)。京都守護に関する長期的戦略も具体的方策も煮詰めないままの上京でした。ところが、尊攘急進派の仕切る朝廷に攘夷期限を迫られた慶喜たちは、2月、将軍滞京10日(&帰府後20日以内の攘夷)を約束、さらに朝廷からも沙汰が下り、会津藩にとってはそれこそ「約束が違う!」という気持ちだったことと思います。その後、

この時点で、将軍滞京と英国船を摂海に呼び寄せての攘夷がセットになっていましたが、それについて容保がどの程度真剣に考えていたのはよくわかりません。ただ、容保はかねてから破約攘夷派であり、浪士を指揮下において攘夷の先鋒とすることを提言し、すでに一部の浪士を支配下に置いていましたので、摂海での開戦に臨む覚悟はあったのではと推測しています。しかし、それは、あくまで滞京する将軍の指揮下にあってということで、将軍不在時に自分が攘夷戦争の指揮をとることは想定外にあったと思います。

この後も、会津藩は、将軍滞京時は滞京延長を願い、逆に将軍が江戸にあるときは上洛を願うというのが基本姿勢となっています。

関連:■テーマ別文久2年:「容保VS幕閣」文久3年「浪士対策
参考:『徳川慶喜公伝』・『京都守護職始末』(2001.5.4,2004.5.5)
■春嶽辞任
【京】文久3年3月17日、前土佐藩主山内容堂は、帰国の挨拶に春嶽を訪ねた際、将軍が「敵地」を脱して東帰するまでの間の総裁職在職を勧告しましたが、春嶽は断りました。


容堂
中川宮から次のような御伝言があった。<天下の形勢はいよいよ不穏で、今後どうなるか杞憂に堪えない。然るに、かねがね希望する公武の一和が漸く整わんとする今日、突然辞職されるのはいかにも不都合である。御家臣共の議論もあるだろうが、今一度考え直し、以前のように出仕・尽力を望む>と。

自分の意見はこうである。止むを得ぬ時勢ゆえ、強いて思いとどまるようにとは申せぬが、目下、「大樹公の孤軍敵地に陥られ」たような様子はいかにも御気の毒である。従って、大樹公がこの「敵地」を脱して御東帰になるまでの間に限って在職され、その後、断然御勇退されてはどうか。御意見が実行されぬ今日、政府の枢機には一切関与せず、一時「木偶人」になる心得で在職すれば敢て難しいことでもないだろう。

春嶽
宮の御内旨といい、貴兄の御懇示といい、黙止すべきではないが、既に辞表を提出したので、今さら出仕はいたしがたい。

生麦償金支払問題に絡み、英国と開戦になる可能性があるので、2月28日、幕府は在京諸侯に帰国して藩地をしっかりおさめるよう、達していました(こちら)

参考:『続再夢紀事』一p425-426(2001.5.2, 2012/4/29)
関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題」「春嶽の総裁職辞任」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年

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