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文久3年3月26日(1863年5月13日) 
幕府、松平春嶽の総裁職を罷免し、逼塞処分に。
【京】残留浪士近藤勇、「志大略相認書」において、故郷の知人たちに、
朝廷・将軍を守護し「賊奸誅戮」後に東帰する決意を示す
容保から「天下奸物誅戮」内意があり、会津藩と協力・「天誅」をとの意気込みも

■春嶽の総裁職解任
文久3年3月26日、幕府は松平春嶽の総裁職を罷免し、逼塞処分にしました

春嶽は回想録の「逸事史補」において、このときの裏話を以下のように記しています。
「内実の話にては、幕府にても春嶽殿の総裁職辞表差出し帰国は、奇々妙々と内々は感心致し候との事。併(しかし)ながら、朝廷に対し奉り候御義理あるを以て、謹慎仰付けられたり。夫故城外さへ御出これ無く候はば、内々の庭は歩行され候ても宜候。又此の攘夷事件に付き、御所存も候はば、御遠慮なく内々老中まで書付差出され候ても苦しからずとの内意もあり。その内御免になりたり」

参考:『続再夢紀事』ニ・『逸事史補・守護職小史』(2004.5.13)
関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題」「春嶽の総裁職辞任」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年

■公武合体派退京
【京】同日、前土佐藩主山内容堂が帰国のため、退京しました

既に、久光は3月18日(こちら)、春嶽は同21日(こちら)に退京していました。

■残留浪士組の政治的側面
【京】文久3年3月26日、残留浪士組近藤勇は、故郷の知人たちに対し、同志17人と「姦悪」の「斬戮」を目的として残留を願い出たこと、残留願いが聞き届けられたので、朝廷・将軍を守護し、「賊奸誅戮」後に東帰したいとの決意を知らせました。さらに残留浪士組を預かることになった会津藩主松平容保からも「天下奸物誅戮」の内意があったので、今後、会津藩と協力して「天誅」を加えたいとの意気込みを知らせました。

同日付近藤書簡(「志大略相認書」)の概容は以下の通り

<本文>
春暖相募り、いよいよ御勇健とお喜び申し上げます。さて、去る13日浪士一同が京都を出立しましたが、小子は「同意者十七人」で「願之上」残留しました。京地一統には奸人が多人数横行し、「奸人多人数横行」し、実に「天下安危切迫」の時節であるこのときにあたり、我々は彼れ是れ安否を窺い、「願わくハ右姦悪共(を)斬戮」して「寸志御奉公」をしたく、残留の件を「同心一同」で嘆願し(こちら)、もしお聞き届けなければ、京都にてまた「浪体」の身となり、「勤王攘夷(に)基キ捨命」の覚悟でいたところ、、12日夜9つ時にようやく願いの趣旨が聞き届けられ、会津公預かりとなりました(こちら)。この上は、及ばずながら「志以テ天朝并大樹公御守護奉リ右之賊奸誅戮」した上で、東帰したく、それまで留守宅の衆を、相変わらずお願いいたします。いずれ帰宅の上、お目にかかり、厚くお礼申上げます。草々不備。

<追伸部分>
なお、去る16日、会津公のお召しで参ったところ、御自身がお会いになり、「一同之赤心報国之段如何ニも感心」され、以後、「会藩者とも与(=と)力合助救」を願いたいと仰せ下され、「天下奸物誅戮之義」も御内意がありました。もっとも「奸人共(を)表向誅戮」すると「天下錯乱」にもなります。しかしながら「奸人共」は表は「尽忠報国(を)飾」っているが、実は「徳川家権威(を)削」ごうと、かれこれ「奸謀(を)巡」しており、未だ京地は穏かではありません。「姦物とも」は常々「厳重」に準備しており、容易にはいきませんが、「何レも会藩与(=と)心合是非天誅加へ」たい。しかしながら、大諸侯の「後呂見」があるので、我々の命も長くはないかと心配しております。もし、京地に身命を捨てた際には、父のことは何分しかるべく養育をお願いいたします。
一大小 二腰
一鎖着込及び頭巾 二つ
右大小一腰は拙宅にありますが、もう一腰は八王子宿の谷合弥七様よりちょうだいしたい旨をかねてから約束しておりましたので、お取り寄せいただくようお願いいたします。はなはだ恐れ入りますが早々にお送りください。拙者の旅宿の件は、京都壬生村八木源之丞宅におりますので右までお送りくださるようお願いいたします。

一京都に到着して以来今日まで死者は12人です。18日朝四条河原に二人梟首されていましたが、両人とも坊主でした。非常な奸物だったというので梟首されました。

一去る23日の大樹公御出立が発表になりましたが、未だ京地は不穏な時節であり、「奸人共」の計略だと存じます。22日、別書の通り、(建白書を)認め、板倉殿の旅宿に参って御目通りを求め、議論しました。<今般、大樹公が御上洛になったのはどういう次第でありましょうか。恐れながら、大小名との「集義(=集議)」を御英断になったことと、一同喜んでおりましたところ、明23日の御出立となりました上は、予め「勤王攘夷拒絶(=破約・鎖国攘夷)国家大事公武合体之義」と「海岸防御之備向策略」を承りたいと思います>と申し上げたが、御答えにつまられ、その後早々に御登城になった。その夜8ツ半時、朝廷よりまた叡慮が示され、ようやく御滞京となりました(こちら)。既に公武に間隙が生じた上は、「奸物共之二藩」の「謀計」に陥らんと、決死で嘆願したところ、右のように御滞京となり、「一同安心」しました。しかしながら、幕府の役人衆は只々御東帰を望んでおり、滞京していてはとかく不自由なので「国家大事」を捨て置き、御出立を願うとは「八万人中」(=旗本八万旗)男児はないと存じます。自分も滞京中は兎角不自由ですが、「大事忠義」ゆえ、「捨命」はもちろん、不自由は常だと存じます。帰府の上、よくよく御話し申し上げます。

以上

<3月10日、守護職松平容保に提出した残留嘆願書の趣意>
三月十日に差出した嘆願書の趣意

今般、「外夷(が)切迫」して世上が混乱していますので、(我々は)恐れながら上京の上、天朝を御守護いたすことはもちろん、大樹公(将軍)の御警衛をし、「神州之穢レヲ清浄」せんが為、(将軍)御下向後、「勅ニ基キ攘夷」をするのが「同志一統之宿願」でございます。ところが、大樹公の御下向がないのに一統に東帰を命じられております。東帰の上、「直様斬夷」いたすことは、「大悦至極」にございますが、(将軍下向前の)退去の件は、一統も耐えられません。、なにとぞ、大樹公御下向まで御警衛いたしたく、志願いたします。恐れながら、これ迄も密かに御城外の夜警をいたしたく、「寸志之御警衛」をいたしておりました。愚意を御酌取りになり、御下向となるまで、銘々の退去の延引を御許容になれば、ありがたいことでございます。元より毛塵の私供が申上げることも恐入りますが、これ迄の御厚命は心から有がたく存じておりますので、捨命報国の心願をいたします。もし、退去の延引がお聞き届けいただけなければ、また、身を隠して浪々の身となり、「天朝并ニ大樹公之奉御守護攘夷」をいたします。なにとぞ、愚意の趣きを御取次いただくよう、連盟をもってお願いいたします。

浪士
芹澤鴨 近藤勇 新見錦 粕谷新五郎 平山五郎 山南敬介 沖田総司 野口健司 土方歳三 原田佐之介 平間十輔 藤堂平介 井上源三郎 永倉新八 斎藤一 佐伯又三郎 阿比留鋭三郎
右十七人

三月十日会津公へ差し出しました。

<3月22日、老中板倉勝静に提出した将軍滞京直訴の上書>
去る二十二日板倉殿へ差し上げた書付の写しは左の通りです。

恐れながら申し上げます。
叡慮によって大樹公が御上洛の上で、攘夷策略の御英断があることと、一統、大いに悦んでおりましたところ、明23日に大樹公が御東下されると承り、驚き入りました。大樹公が攘夷のため、しばらく洛陽に御滞留されるようにとの御沙汰があり、天下人心が安穏になっておりましたところ、計らずも、明23日に御下向の趣を承り、天下安危はこのときに懸ると、止むを得ず、毛塵の身を顧みず、愚見を申上げます。もし、御下向されれば、天下騒然の時節ですから、虚に乗じて、万一謀計をめぐらす者がいるやもしれません。なにとぞ、今しばらく御滞留され、英夷拒絶の応接(=生麦事件償金支払い拒否の交渉)は大阪においてされるべきだと怖れながら存じます。とはいえ、(意見の)取捨は君公の思召し次第であり、土木の身には及ばぬことですが、「尽忠報国」には(身分の)高下がありませんので、この段、はばかりながら申上げます。 以上
連署の浪士は左の通りで、板倉殿の旅館に参って議論し、ようやく夜八ツに大樹公の滞京が決定し、それから引き上げました。

芹沢鴨 近藤勇 新見錦 根岸友山 平山五 郎 山南敬介 沖田総司 野口健司 永倉新八 土方歳三 井上源三郎 藤堂平助 佐伯又三郎 斉藤一 平間十 輔 遠藤丈庵清水五一 原田佐之助

一当節は諸般と交わり種々周旋いたしており、書状をしたためる暇もありませんが、心底を御賢察くださるよう付してお願いいたします。以上。

一撃剣もことのほか損傷し、刃も引けましたので、前文大小の件は早々に御差上げの程願います。また、ただいまのところは、同士のうち、一人も負傷したものはありません。もっとも今後はどうなるか計りがたく、「昼夜寝食由断仕す罷在候(昼夜寝食問わず油断せずおります?)」。愚意の趣旨をお汲み取りになり、また関東の件も心配しないというのではありませんが、大事を捨て小事を取るわけにはいきませんので、差当り、大事を成す為、彼れ是れ周旋いたします。悪しく思し召されませんようお願いいたします。草々。以上

笑草
丈夫立志出東関 宿願無成不復還 報国尽忠三尺剣 十年磨而在腰間(=丈夫、志を立て東関を出づ。宿願成就なく還ることなし。報国尽忠の三尺の剣。十年磨いて腰にあり)

事あらばわれも都の村人となりてやすめむ皇御心

三月二十六日                近 藤  勇
(参考:文久3年3月23日付近藤勇「志大略認書」『鶴巻孝雄研究室』掲載の翻刻文(http://www006.upp.so-net.ne.jp/tsuru-hp/bakumatsu/bakumatsu-sinnsengumi.htm)より作成)

<ヒロ>
かなり天誅にこだわってます。近藤の「志」って、「志以て天朝并大樹公御守護奉り右之賊奸誅戮」ってことですよね?それがすめば東帰っていってますよね?

では攘夷は??残留嘆願書の方は残留が聞き届けられない場合は、また浪人に戻り、「天朝并ニ大樹公之奉御守護攘夷」といっていて、天皇・将軍の守護と攘夷がセットなのに??このへんは、嘆願書には芹沢ら、水戸「尊攘激派」(本圀寺党)系が署名していることが影響しているんでしょうか。

4月10日頃、井上松五郎が土方らと芹沢の志の違いが問題と感じていますが(こちら)、その違いは、攘夷優先・天誅優先なんでしょうか?

近藤が故郷に送った「志大略相認書」は、上京〜将軍滞京直訴までの、浪士組/近藤の考えの変遷がわかって興味深いので、別途、覚書にまとめたいと思います。

関連:■テーマ別浪士組の政治的側面

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