5月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:晴(久光の日記より) ■庶政委任 【京】元治元年4月16日、禁裏守衛総督一橋慶喜、政事総裁職松平直克、老中水野忠精・稲葉正邦は、連署して、朝廷に対し、庶政委任・九門警備を含む朝廷尊奉に関する18か条の伺書を提出しました。 これら奏聞18か条に対し、同月20日、朝廷は「伺書」に「附札/下札」(=コメント)を加えた沙汰書を下しました。 幕府の伺書(番号は仮)及び朝廷の附けた下札の概要は以下の通り(赤字byヒロ)。
注:日付 奏聞書の提出日は『徳川慶喜公伝』によりました。同書によれば、提出日は不詳だそうですが、「岩倉公実紀」に16日とあるので仮に16日としたとしています。朝廷の下札による回答(沙汰)の日付は、『続再夢紀事』によりました。 <ヒロ> ●庶政委任 後日の「今日」でまとめて・・・(こちら)。 ●九門警備(おさらい) 文久3年5月以降、九門は諸大名が警衛していましたが、元治1年3月21日に禁裏守衛総督に就任した慶喜は、諸大名の代わりに、交替寄合(老中支配の旗本)に警衛させたいと申し入れたようです(こちら)。この時には、既に「疎暴の論を主張する」藩は、警衛から外れていたようですので(『続再夢紀事』p72)、長州シンパだけではなく、諸藩一般を九門警衛から締め出したかったのではないか、と思います。しかし、4月9日に出された朝命は、表1のように、諸藩に担当させるというものでした。 慶喜/幕府はあきらめきれなかった様子です。 今回の奏聞書(10)で、幕府は九門警備を「万石以下三千石以上の者」に担当させたいと願い出ていますが、「万石以下は三千石以上」は旗本です。裏を返せば、諸大名(万石以上)の九門警備から除外されることになります。 このところ、議奏が横浜急速鎖港や長州藩主父子の上京など、「暴論」(『伊達宗城在京日記』)を主張していましたし(こちら)、今回の要請には、九門警備を幕府親衛隊である旗本で固めたいという軍事的意図だけではなく、御所内に諸藩関係者(長州藩士やシンパだけではなく)が入り込み、公卿と接近して、朝議に影響力を及ぼすことを防ぎたいというの政治的意図もあるのではないかと思います。 (その他、慶喜/幕府が疑惑の目をむけている薩摩とか、薩摩とか、薩摩とか・・・笑) さて、奏聞に対する朝廷の沙汰は「万石以上」、つまり、旗本ではなく(従来通り)諸大名にせよということで、幕府の要請は明確に否定されています。やはり、外部/諸藩関係者との接触が制限される可能性に、抵抗感や不安・恐怖があったのではないでしょうか。(朝廷は、この日、禁門往来の際には深笠をとることを命じていますから、不審者への警戒は高めていたようです)。 なお、文久3年5月20日に朔平門外の変(姉公路公望暗殺)直後に、会津藩(当時守護職)も、九門全門警備を願い出たことがあります(こちら)。一連の慶喜/幕府の要請といい、御所外講九門の警備が、幕府側勢力にとって、いかに重要視されていたかが、わかると思います。 表1:御所外講九門警備担当藩(元治1年4月16日時点)
参考:『徳川慶喜公伝』史料編ニp89-92、『続再夢紀事』三p112-117、『幕末政治と薩摩藩』、『幕末政治と倒幕運動』(2010/10/18) 関連■テーマ別文久3「政令帰一問題(大政奉還か庶政委任か)■テーマ別元治1「御所九門・六門警備」「庶政委任再確認」 【京】朝廷、禁門往来の際には深笠をとることを命じる。 【長州】三条実美、書を鳥取藩主池田慶徳に寄せ、苦衷を訴えて、国事への尽力を求める。 【江】老中牧野忠恭・板倉勝静井上正直、若年寄諏訪忠誠・立花種恭、忠恭邸にて、前任仏国全権公使ドゥ・ベルクール・新任全権公使ロッシュを引見し、横浜鎖港がやむを得ぬ事情を説明。21日、忠恭・勝静・正直、連署して書をドゥ・ベルクールに致し、帰国後の横浜鎖港に関する斡旋を望む。 |
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