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元治1年4月16日(1864年5月21日)
【京】慶喜・幕閣連署して、朝廷尊奉18か条を奏聞
【江】老中牧野忠恭・板倉勝静ら、新任仏国公使ロッシュを引見。
横浜鎖港のやむを得ぬ事情を説明

☆京都のお天気:晴(久光の日記より)
■庶政委任
【京】元治元年4月16日、禁裏守衛総督一橋慶喜、政事総裁職松平直克、老中水野忠精・稲葉正邦は、連署して、朝廷に対し、庶政委任・九門警備を含む朝廷尊奉に関する18か条の伺書を提出しました。

これら奏聞18か条に対し、同月20日、朝廷は「伺書」に「附札/下札」(=コメント)を加えた沙汰書を下しました。

幕府の伺書(番号は仮)及び朝廷の附けた下札の概要は以下の通り(赤字byヒロ)。
(1) 当年より、神官に対する御供料を二千俵増加仕る事。
下札 格別な事なので二千石増加の事。
(2) 闕字・平出等は、令条のように守り、海内に布告する事。
(3) 孝明天皇の誕生日である6月14日には仕置きをせぬ事。
(4) 仁孝天皇(=孝明天皇父)の忌日である6日、新朔平門院(=孝明天皇母)の忌日の13日については、毎月、心得るよう海内に布告する事。
下札 幕府精進日の通り心得る事
(5) 将軍交替時には、将軍宣下の御礼として、上洛する事。(以下略)
下札 書面の通り。
(6) 三家始め万石以上の者は、家督相続・官位昇進後に、御礼として上洛する事。(以下略)
(7) 西国大名の関東へ往来の際の天機伺いは随意とする事。但、滞京は10日以内。
下札 諸大名が山城地方を往来の際は、天機を伺う事。滞京は10日に限らぬ事。
(8) 国務はこれまで通り総て幕府へ御委任の事(「国務是迄之通、惣而御委任之事」)。もっとも、国家の大事については、叡慮を伺って取り計らう事(「尤、国家之大事件は伺 叡慮取計之事)。
下札 昨年の御沙汰があった通り、委任の件は今更仰せ出されるまでもない(「昨年御沙汰有之候通り、御委任之義今更被仰出候迄も無之候」)。但し、君臣上下の名義を但し、末々まで恭順の意を貫き、文書の類は瑣末なことまでも心得違いのないようさせる事。
(9) 朝廷の忌日には、重罪はもちろん軽罪の者も仕置きを申し付けぬ事。
(10) 九門の警衛は、万石以下三千石以上の者に申し付ける事
下札 万石以上の者へ申し付ける事。
(11) 諸社の行幸は、山城国内の遠くない場所に、春秋両度ぐらいとし、諸人が難儀せぬよう簡易に願う事。
下札 追って仰せ出される事。
(12) 諸大名は、特産品の一両品を、年々献上する事。但し、諸侯疲弊の際なので、申し合わせて5ヵ年目に手軽の産物を所司代を経て献上する事。
下札 書面の通り。但し、所司代から伝奏に日限を聞き、伝奏より指図の上、奏者所へ提出する事。
(13) 親王・丞相の死去時、朝廷に功のあった場合は、海内の鳴物を停止する。
下札 書面の通り。(以下略)
(14) 御所宣秋門の辺りの宮地を拡張するよう仕る事。(以下略)
(15) 御所内の築地の東北を拡張し、御花畑・仙洞院を修繕仕る事。
(16) 泉涌寺の清掃・修理を入念にする事。
(17) 禁中御賄向の改革を、入念にするよう申し付ける事。
(18) 皇子・皇女はなるべく法体になされぬように仕りたい事。(以下略)
下札 下札のない項目は書面通り行う事。
(↑管理人は素人なので、絶対に資料として利用しないでね。必ず原文にあたってください)

注:日付
奏聞書の提出日は『徳川慶喜公伝』によりました。同書によれば、提出日は不詳だそうですが、「岩倉公実紀」に16日とあるので仮に16日としたとしています。朝廷の下札による回答(沙汰)の日付は、『続再夢紀事』によりました。

<ヒロ>
●庶政委任
後日の「今日」でまとめて・・・(こちら)

●九門警備(おさらい)
文久3年5月以降、九門は諸大名が警衛していましたが、元治1年3月21日に禁裏守衛総督に就任した慶喜は、諸大名の代わりに、交替寄合(老中支配の旗本)に警衛させたいと申し入れたようです(こちら)。この時には、既に「疎暴の論を主張する」藩は、警衛から外れていたようですので(『続再夢紀事』p72)、長州シンパだけではなく、諸藩一般を九門警衛から締め出したかったのではないか、と思います。しかし、4月9日に出された朝命は、表1のように、諸藩に担当させるというものでした。

慶喜/幕府はあきらめきれなかった様子です。

今回の奏聞書(10)で、幕府は九門警備を「万石以下三千石以上の者」に担当させたいと願い出ていますが、「万石以下は三千石以上」は旗本です。裏を返せば、諸大名(万石以上)の九門警備から除外されることになります。

このところ、議奏が横浜急速鎖港や長州藩主父子の上京など、「暴論」(『伊達宗城在京日記』)を主張していましたし(こちら)、今回の要請には、九門警備を幕府親衛隊である旗本で固めたいという軍事的意図だけではなく、御所内に諸藩関係者(長州藩士やシンパだけではなく)が入り込み、公卿と接近して、朝議に影響力を及ぼすことを防ぎたいというの政治的意図もあるのではないかと思います。 (その他、慶喜/幕府が疑惑の目をむけている薩摩とか、薩摩とか、薩摩とか・・・笑)

さて、奏聞に対する朝廷の沙汰は「万石以上」、つまり、旗本ではなく(従来通り)諸大名にせよということで、幕府の要請は明確に否定されています。やはり、外部/諸藩関係者との接触が制限される可能性に、抵抗感や不安・恐怖があったのではないでしょうか。(朝廷は、この日、禁門往来の際には深笠をとることを命じていますから、不審者への警戒は高めていたようです)。

なお、文久3年5月20日に朔平門外の変(姉公路公望暗殺)直後に、会津藩(当時守護職)も、九門全門警備を願い出たことがあります(こちら)。一連の慶喜/幕府の要請といい、御所外講九門の警備が、幕府側勢力にとって、いかに重要視されていたかが、わかると思います。

表1:御所外講九門警備担当藩(元治1年4月16日時点)
門の名称 位置 元治1年4月9日
の朝命
今出川門 北側 久留米
乾門 西 薩摩
中立売門 西 筑前
蛤門 西 会津(守護職)
下立売門 西 仙台
堺町門 越前
寺町門 肥後
清和院門 土佐
石薬師門 阿波
(黄色は、九門の中でも重要な西側の門)

参考:『徳川慶喜公伝』史料編ニp89-92、『続再夢紀事』三p112-117、『幕末政治と薩摩藩』、『幕末政治と倒幕運動』(2010/10/18)
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【京】朝廷、禁門往来の際には深笠をとることを命じる。
【長州】三条実美、書を鳥取藩主池田慶徳に寄せ、苦衷を訴えて、国事への尽力を求める。 
【江】老中牧野忠恭・板倉勝静井上正直、若年寄諏訪忠誠・立花種恭、忠恭邸にて、前任仏国全権公使ドゥ・ベルクール・新任全権公使ロッシュを引見し、横浜鎖港がやむを得ぬ事情を説明。21日、忠恭・勝静・正直、連署して書をドゥ・ベルクールに致し、帰国後の横浜鎖港に関する斡旋を望む。 

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