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元治1年4月28日(1864年6月2日)
水戸藩主徳川慶篤の使者・家老岡部忠蔵、
禁裏守衛総督一橋慶喜に横浜鎖港断行を説く

☆京都のお天気:曇天折々雨降(『幕末維新京都町人日記』より)
■横浜鎖港問題
【京】元治元年4月28日、前日に着京した水戸藩主徳川慶篤の使者・同藩家老岡部忠蔵は、禁裏守衛総督一橋慶喜に面会して横浜鎖港断行を説きました。

元治1年5月2日付武田耕雲斎(江戸家老)宛岡田書簡によれば、岡部は27日に入京してまず原市之進らに京都の事情をきき、翌28日に一橋邸に赴いて、慶篤(慶喜の実兄)から「被仰含件々」(注1)を言上しました。慶喜の反応は「至極御尤之御次第に有之候得と勘考致候て御請可被成」とのことでした。

なお、このとき、岡部は慶喜から、留守老中板倉勝静らが「ニ日切」で送った書状(注2)を見せられたそうで、「奸書甚以可悪不届千万」「甚残念至極」と感想を述べた上で、「其御地(=江戸)において岡田(=家老岡田徳至)・三木(?)、殊の外周防(=板倉)に欺れ候事に御座候」と注意を喚起し、4月11日に江戸を出立して京都に入っていた奥祐筆頭取野村彜之介が一両日中に江戸に下るので(京の事情を)、いろいろ聞取るよう記しています。

注1 慶篤は、4月17日に、慶喜に書を認め、鎖港交渉使節の帰国までは鎖港断行が困難であれば、せめて横浜休港(交易停止)を幕議で決定するよう求めていますが、その書簡の最後に、「家老岡部忠蔵愚存申含為差登候間、委細御聞取被下、御宣様御賢考之上、台慮をも御伺、早速御決議御座候様仕度奉存候」と記しています。(こちら
注2 4月17日に水戸藩家老岡部忠蔵の上京計画を知った留守老中たちは、水戸藩が「厳重攘夷」の朝命を出させようとしていると疑い、京都に急報して、前年の長州藩の時のように「無謀之攘夷」にならぬようにと、水戸藩の「策略」に備えさせました。その書状をさすと思われます。(こちら

<ヒロ>
慶喜もホンネは開港論(のはず)なのですが、2月には自らの主導で横浜鎖港を請けているし(こちら)、4月念押しの勅書(別紙)も出ているし(こちら)、その上、慶喜が激論して反対した朝廷の三港閉鎖論は、水戸藩が川越藩とともに横浜鎖港を引き受けることで横浜一港鎖港で収まったところだし(こちら)、もう、これは「至極御尤」というしかないですよね。

留守老中(井上正直・板倉勝静)が「二日切」で送った書状は、在京幕閣4名(政事総裁職松平直克・老中酒井忠績・同水野忠積・同稲葉正邦)宛なので、かなり密書度が高い内容だと思うのすが、誰かが慶喜に見せたんでしょうか・・・。だとしたら、「水戸藩からこういう使者がくるから、気をつけてくださいね」という意味で見せたんだと思うんですけど、それを当の岡田に見せるってことは、水戸藩に「板倉には気をつけろよ」って言ってるも同然ですよね。岡田にしてみれば、本気で鎖港断行を応援してくれてるようにみえますよね。真意はどうなんでしょうか・・・。

なんだか、慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮に反対していた伊達宗城の「其身政府を遁れ、且、禁闕に潜み、安心故、水始之入説にて厳敷関東へ懸合、終ニ人心之帰し候様、密策、不臣之謀計」(元治1年3月18日付『伊達宗城在京日記』)という懸念を思い出してしまいます・・・(こちらこちら)

参考:『水戸藩史料』下p603-604(2010/12/13)
関連:■水戸藩かけあし事件簿■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」水戸藩・天狗争乱(元治1)」■おすすめサイト:「水戸学・水戸幕末争乱(天狗党の乱)

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