6月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:曇天、四ツ時より双天(『幕末維新京都町人日記』より) ■将軍参内 ●庶政委任と朝廷尊奉 【京】元治元年4月29日、将軍徳川家茂が参内し、4月20日の勅書に奉答しました(注1)。また、禁裏守衛総督・摂海防御指揮一橋慶喜、政事総裁職松平直克、老中酒井忠績・水野忠精・稲葉正邦は、朝廷尊奉に関する18か条の指令を奉承しました。(注2) ●東帰の許可と横浜鎖港 また、将軍徳川家茂に東帰の許可が与えられましたが、その際、朝廷からは、必ず鎖港攘夷を成功させ、東帰後は諸事水戸藩主徳川慶篤と協議するようにとの勅諭が下されました。(注3) (注1)庶政委任の勅書(こちら)の請書
(注2)朝廷尊奉18ヶ条伺書に関する朝廷の下札(こちら)への慶喜らの請書。
(注3)元治1年5月2日付水戸藩在京家老書簡より
<ヒロ> ●将軍参内延期と三港閉鎖論 将軍は、もともと、27日に参内の予定でした。しかし、20日に庶政委任の勅がおりたにも関らず、その後、朝廷内に三港閉鎖論が起り、将軍が三港閉鎖を承知せねば東帰を許さないと主張する者まで現れて、朝議が動揺しました。これに反発した慶喜やその側近が軍職返上も辞さぬ激論に及び事態は切迫しました。27日には三港閉鎖か横浜一港鎖港かを討議する朝議が開かれたため、将軍の参内は延期となっていました。朝議の結果、元通り、横浜一港鎖港と決まったため、この日、改めて将軍が参内することになりました。 ●別紙重要事項四項の請書 『続再夢紀事』によれば、庶政委任の勅書と同時に下付された別紙重要事項四項の勅書(こちら)の請書はこの日ではなく、5月2日に出されたようです。『続再夢紀事』の日付が確かであれば、四か条の第1条目は横浜鎖港を改めて命じるものなので、もしかすると、最初、幕府は上の請書でごまかそうとしたんでしょうか??? 参考:『徳川慶喜公伝』史料編ニp96、『続再夢紀事』三p110-111, 130、『水戸藩史料』下p601 (2010/12/13) 関連■テーマ別文久3「政令帰一問題(大政奉還か庶政委任か)■テーマ別元治1「庶政委任再確認」■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■横浜鎖港問題(川越藩・水戸藩の動き) 【京】元治元年4月29日、川越藩家老山田太郎左衛門は、越前藩用人中根雪江に対し、将軍の進退も定まらぬ大難にあたり、親藩の情義からやむを得ず鎖港を引き受けたのだと話しました。 ●川越藩・水戸藩が鎖港を引き受けた経緯 (上の繰り返しになりますが)この日、中川宮を訪ねた越前藩用人中根雪江は、このところ、朝廷に三港閉鎖論が持ち上がっており、将軍が三港閉鎖を承知しなければ東帰を許してはならぬという朝臣までいたことを知ります。また、それに大反発した一橋慶喜及びその側近が、庶政委任の勅に基づいて幕府に一任するか、さもなくば将軍職・総督職を返上すると主張して、「一時は大に切迫の事」になったものの、水戸藩・川越藩(当主が政事総裁職松平直克)より、「横浜の一港すら未た閉鎖の功を全くする事態ハさる今日、更に長崎・函館の二港まても閉鎖すへしとハ、所謂、言ふへくして行うへからさるの説なり。されハ此際両藩に於て引受、先、横浜閉鎖の功を成就すへけれハ、他のニ港ハ御見合ハせある様に」と申し出があり、それでようやく朝議が折り合ったことも知らされました(こちら) ●川越藩が鎖港を引き受けた理由 中根は、この日のうちに川越藩邸に家老山田太郎左衛門を訪ね、鎖港を引き受けた理由を尋ねました。山田は、「前途の定見」があってのことではないが、将軍の進退もかかるような「大難」を目の前にして、「親藩の情義」から「止を得」ずしたことだと説明しました。また、外国も事情を説明すれば鎖港に応じるだろうとの見方を示し、それでも鎖港を承知しなければ「休港」を交渉すればよいと話しました。 そのときのやりとりはこんな感じです。↓
【京】同日、水戸藩家老岡田忠蔵は、関白二条斉敬に藩主徳川慶篤の横浜鎖港断行に関する建白書を提出しました。(こちら) 岡部が「情実委細」に言上したところ、関白は「至極御尤に御聞取」ったそうです。その後、この件が「殿下御腹へハ入候趣」を諸大夫からも聞かされたそうです。(『水戸藩史料』) <ヒロ> 『続再夢紀事』からは、事態を打開するために、政事総裁職も務める親藩として先ず川越藩が手をあげ、ついで水戸藩が手をあげたのか、水戸藩に説得されて川越藩も一緒に手をあげたのか、先ず水戸藩が先ず手をあげ、水戸藩だけに任せるのはマズイと川越藩も引き受けるはめになったのか、そのへんはよくわからないです。ただ、藩内の事情から横浜鎖港断行を急務とする水戸藩にとっては、言い方は悪いけれど、渡りに船のような状況だったはずです。また、江戸の留守老中が鎖港に消極的ですから、政事総裁職である川越藩が共に鎖港を引き受けることになったのは、心強かったのではないでしょうか。 いずれにしても、「水戸藩の見込」を語っている部分や「休港」について言及していることから、当初、幕閣内には、尊攘激派を抱え、天狗党が常野を騒がせている水戸藩が鎖港を担当することに、当然ながら懸念があったものの、水戸藩の入説で、同藩の鎖港担当を受け入れた様子がうかがえると思います。在京幕閣には、留守老中から水戸の策に気をつけるよう何度も注意喚起がされていたにも関らず(こちら)、水戸藩と同調することになったということは、事態が相当切迫していたのではないかと思います。京都の事情を肌で感じていない留守老中にとってみれば、総裁職が自分たちの警告を無視して水戸と手を組み、鎖港を引き受けて帰ってくるとは何事だ!という反応じゃないでしょうか・・・。(先回りすると、帰府した直克は、横浜鎖港問題をめぐって老中らと対立することになり、終には罷免されてしまいます) ところで、中根は正論をいっているわけですが、越前藩は、春嶽が守護職を辞任して当主ともども既に帰国してしまったわけですから、その意見は、ちょっと説得力にかける気がします・・・。中根自身も5月2日には京都を発って帰国の途につきますし。当主が現政事総裁職を務める川越藩家老山田のいう「目前の大難に当り、親藩の情義如何にも其儘看過しかたく」という言は、なんだか、そういう越前藩への皮肉にも聞こえます(春嶽/越前藩には、文久3年に政事総裁職を投げ出して帰国した過去もありますし)。最後、山田が押し黙ってしまったのも、中根の正論にぐうの音も出なかったというより、これ以上何をいっても無駄・・・みたいな気持ちだったのかも・・・。 参考:『維新史料綱要』五、『続再夢紀事』三p130-131、『水戸藩史料』下p601, 603 (2010/12/13) 関連:■テーマ別元治1「横浜鎖港問題(元治1)」「水戸藩/天狗・諸生争乱 その他 【天狗・諸生争乱】幕府、水戸藩に領内鎮撫を命じる (『綱要』五) |
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