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文久2年5月3日(1862.5.31)
【江】会津藩主松平容保、幕政参与を命じられる
【江】長州藩、桂小五郎に上京を命ずる

■幕政改革
【江】文久2年5月3日、溜間詰会津藩主松平容保が幕政参与を命じられました。

老中水野忠精(和泉守、出羽藩主)が伝えた台命は「以来御用向申談候間折々登城可致相談旨被仰出候」(『七年史』)というものでした。(『御用部屋入り』ではありません)

さらに、将軍家茂は、容保を居室に召しだし、<容易ならない時節なので万端腹蔵なく年寄共へ意見を言うように>と言い渡したそうです。

また、同日、前越前藩主松平春嶽に対して、近々御目見えが命じられようとの達しがありました。

<ヒロ>
容保が幕政参与に命じられた背景には、同年4月の島津久光の率兵上京及び朝廷への幕政改革の建議があります。幕府は、久光の建議を受けて朝命が下る前に、幕府の意思で幕政改革(主として人材登用)を進めようとしていました。4月25日には安政の大獄で処罰された一橋慶喜や松平春嶽・徳川慶勝・山内容堂ら一橋派諸侯の他人面会文書往復が許され、中川宮(青蓮院宮)・鷹司前関白らの赦免の奏請していました。

こういう流れの中、幕府が容保を登用したのは、容保や会津藩の政治的能力が期待されたのではないことは、その後春嶽が幕政参与に命じられるやいなや、老中・大目付などがひきもきらず会見を求めたのに対し、容保は登城してもさしたる用がない様子だったことから明らかではないかと思います。手持ちぶさたの容保に気遣って、春嶽が老中たちに<わたしに相談があるときは肥後守(容保)も同席させてはいかがか>と申し出たほどでした(こちら)。『徳川慶喜公伝』では容保の幕政参与は、会津藩が藩租保科正之以来幕府の親藩であること、東北の雄藩である会津藩の兵力を利用しようという意図だったと説明しています。

参考:『再夢紀事・丁卯日記』・『七年史』・『徳川慶喜公伝』(2003.5.31)

■テーマ別文久2年「島津久光率兵上京と寺田屋事件」「幕政改革問題」 ■「開国開城」>「安政5〜6:戊午の密勅と安政の大獄」「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上京と寺田屋事件「文2:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」

■長州藩
【江】文久2年5月3日、長州藩は桂小五郎に上京を命じました。

長州藩日誌文久2 

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