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文久3年4月22日(1863年6月8日)
後見職一橋慶喜、攘夷のため江戸へむけて出立/

■慶喜東帰
【京】文久3年4月22日、将軍後見職一橋慶喜は「鎖港攘夷の実効」をあげることを名目として京都を出発し、東帰の途につきました。

<ヒロ>
幕府は4月20日、攘夷期限を5月10日と布告することとひきかえに将軍退京及び慶喜東帰の許可を得ていました(こちら)。21日、将軍は下坂し、慶喜は帰国の暇を与えられて(こちら)、この日の出発となりました。慶喜には大目付岡部長常・水戸藩執政武田耕雲斎らが随従していました。

慶喜が江戸に到着するのは攘夷期限の2日前の5月8日夜でした。出発から16日というゆっくりした旅程です。実は、慶喜は、後年、償金支払はやむをえぬと覚悟しており、在京中に鷹司関白・中川宮にも内諾を得ていたの談話を残しています(『昔夢会筆記』)。このことから、『徳川慶喜公伝』では、この遅れは帰府前に生麦事件の償金支払いを完了させようとの意図からだと解説しています。とはいえ、破約攘夷を掲げて東下する慶喜の到着後に償金を支払うわけにもいかず、わざとゆっくりとした旅にしたというのです。

実際、老中格小笠原長行は、5月8日、江戸に入る慶喜と入れ違うように神奈川に赴き、独断で償金を交付します。9日に登城した慶喜は鎖港攘夷を主張しますが、幕閣に聞き入れられず、14日には将軍後見職の辞表を関白に提出します・・・。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 ■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題

■久光召命
【京】同日、孝明天皇は中川宮に、「暴論」の公卿を「開眼」させるため、薩摩藩を上京させよとの密勅を下しました。(『玉里島津家史料』ニによれば23日。←時間のあるときに検討・適宜修正します2011/1/19)

孝明天皇は中川宮に「血気の堂上、このままにては万事我が意に募りて、朕も関白も共に権を失ふべし。この上は宮の智謀により薩州を召し、一致して暴論の堂上を開眼せしめたし、この改革成らずんば国乱の基とならん。このへん篤と密計ありたし」と言ったそうです。

これに対し、中川宮は現在(朝議を左右する)三条実美らになにをいっても無益なので、時節をみるべきで、島津久光の召還については熟考しようと答えたそうです。

<ヒロ>
孝明天皇は保守的な人物で、身分が低く過激な尊攘急進派公卿を嫌っていました。孝明天皇は、朝議が三条実美ら急進派公卿の思うままとなり、自分たちの権威が落ちることに危機感をもっていたようです。そんな天皇が頼りにしたのは、薩摩藩の島津久光。文久2年の寺田屋事件で過急進派による京都挙兵を抑えたことがよほどの好印象だったのではないでしょうか。(孝明天皇が徳川慶喜や松平容保に依頼したことは結構、知られていると思うのですが、久光もかなり頼りにされていました。斉彬も宸翰と御製を与えられています。←しかも、会津藩主松平容保が与えられた御製と語句がかなり似ています^^;)

関連:開国開城「島津久光の率兵上京と寺田屋事件」■テーマ別文久3年:「島津久光召命■薩摩藩日誌文久3
<参考>『徳川慶喜公伝』2・『昔夢会筆記』(2001.6.8)

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