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文久2年5月16日(1862.6.13)
【江】京都から勅使東下の沙汰が届く
【江】松平春嶽、将軍上洛の上の陳謝・慶喜登用などを説く

■久光の率兵上京と勅使東下
【江】文久2年5月16日、京都所司代酒井忠義より幕府に書簡が届き、(1)勅使大原重徳が下向すること、(2)この下向は老中久世広周の上京の遅延により島津久光が建議したものなのか久光が同行すること、が伝えられました。

■将軍上洛問題&一橋慶喜登用問題
【江】同日、幕政参与松平春嶽は老中らに対し、幕政改革(「徳川之私政」御改良)、将軍上洛の上の朝廷への謝罪、諸侯と協力・「叡慮」遵奉、開国通商、軍備増強を主張し、さらに勅命が下る前の慶喜登用を求めました。

5月7日、幕政参与に任命された春嶽は、翌8日、家茂に謁し、老中久世広周を同席させた上で、国是の決定、開国創業の決意・慶喜の幕政参与を説きました。また、幕府からの上京・公武一和周旋の要請については、国是が定まらぬうちは将軍の命令であろうと上京しないと明言しました(こちら)。9日、登城して大目付駒井朝温(山城守)、大久保一翁(当時忠寛)、浅野氏祐(伊賀守)、続いて久世広周ら老中と会見し、「我是」を捨てて国是を確立するよう求めました。また上京・開国上奏を要請されましたが、国是確立が先だと断りました(こちら)。13日には、朝命が下る前の幕府による一橋慶喜の後見職就任を改めて主張しましたが、老中久世広周は慶喜は「権謀智術」家であり幕府の為にならないと反対しました(こちら)。老中たちは、春嶽の意見は一向に聞かぬのに、春嶽に対しては上京を迫り続けました。

この日も、老中らは、春嶽の主張に敬服したと言いつつも、現在の「事務上」では将軍上洛決定も慶喜登用も、勅使東下より前には処置できないと述べたそうです。

「再夢紀事」によれば、春嶽の主張は以下の通り。
「三公の官位にのぼり、傲然として諸侯に臣事の礼を執らしめ、祖先の余光を仰ひて二百数十年来天下の富貴を私有し、太平の安楽に飽たる事、是皆朝恩の忝(かたじけな)きに出すということなし。然るを治安の極驕奢に長し、職任を忘れ、武備に外威の兵威に屈して国体を汚辱し、剰(あまつさ)へ宰臣幕府の威権を弄(ろう)して数々叡慮に悖(もと)って勅命を奉ぜず、無道の私政を行ふて、忠良を残害し、人心の  を生す。天下の義勇違勅の鼓を鳴らし、正名の旗を挙け、勤王討幕を公言する今日に立到れり。幕府にあって朝廷は勿論天下へ対せられ、何を以て此御罪責を謝せられ、何を以て此御醜名を雪(そそ)かるへきや。速に徳川氏の私政を御改良あって、両敬の特典を奉辞し給ひ、早々御上洛にて、是迄の御失体を御陳謝被為在(あらせられ)、臣事の名分を天下に明示せられ、諸侯と輦下に盟(ちか)ふて叡慮を奉し、外国の交を親密にし、威信を厳明にし、大に武備を更張して皇国を維持し、外侮を不被受様の大策を被建候より外(ほか)有之間敷。閣老衆御初如何(いかが)御心得候哉。就而(ついて)も英才にして名望ある一橋殿を京都より御沙汰有之已然(いぜん)に、御改革の御相談に加へられ候様有之度」(句読点は任意。適宜当用漢字・平かなを使用)

関連:■開国開城:「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上京と寺田屋事件「文2:勅使大原重徳東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「将軍徳川家茂上洛問題」「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」「幕政改革問題」■越前藩日誌文久2
参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2003.6.13)

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