6月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
◆5/17へ ◆5/19へ
■横浜鎖港問題&天狗・諸生争乱 【坂】元治元年5月18日、禁裏守衛総督一橋慶喜の内命により、幕府に鎖港決行を促すため、在京水戸家老鈴木重義、藩士山口徳之進らが東下しました。 お馴染み原市之進の5月18日付書簡によると・・・
市之進は、追伸でも老中に「無油断」、周旋するよう念を押しています。(.水戸藩vs老中) ●おさらい:水戸藩による将軍帰府前の鎖港断行入説 水戸藩は、天狗党の筑波挙兵(こちら)という事態を受けて、藩議として「迅速に鎖港を実行して内乱の機を外に転ぜんことを努め」ており、朝幕への鎖港断行の周旋のため、4月11日には藩士野村彜之介(こちら)、19日には、家老岡部忠蔵を上京させました(こちら)。しかし、争乱の激化につれて、江戸の情勢も「幕府の水戸に対する感情は頗る険悪にして禍機殆ど旦夕に迫れり」と悪化したため、5月4日、幕府に鎖港断行の上書を提出すると同時に、京都に急報して切迫した情勢を知らせ、勅命による鎖港の速断の周旋を求めました(こちら)。江戸から切迫した情勢を告げる書簡を受け取った在京水戸藩は、5月9日、将軍に随行して摂海巡視をするために下坂した慶喜のもとに藩士岩間金平を遣わし、将軍の滞坂・鎖港成功の目途がついた上での帰府を入説させました。しかし「公武の事情は未だ意の如くならざるものあり、慶喜の地位を以て」も「未だ之を速決」できませんでした。慶喜は、さらに鎖港の断行には老中板倉勝静の排除が急務だと告げました(こちら)。水戸藩邸は野村彝之介(のむら・つねのすけ)を東帰させると、在京家老鈴木重義、山口徳之進(正定)等を下坂させて、鎖港の速断を幕府に請わせましたが、将軍は16日に出港し、海路江戸に向かいました。 <ヒロ> はたして慶喜は本気で水戸藩主張の将軍滞坂・鎖港断行を応援していたでしょうか・・・。慶喜にしてみれば、将軍が滞坂中の鎖港断行という事態になれば、実質的責任は自分にふりかかってくるわけです。しかし、将軍が東帰しちゃえば、鎖港の責任は江戸の将軍(&老中)に移り、禁裏守衛と摂海防御指揮の責任者である自分は、江戸に実行を促してますよというポーズですむわけです。慶喜は翌19日に京都に戻りますが、京都に戻れば在京水戸藩(実家)「尊攘激派」と朝廷の鎖港攘夷実行圧力に日々接するわけで、その直前に、鈴木らを江戸に遣わしたのも、朝廷・在京水戸藩向けのポーズかと勘繰ってしまいます^^:。ちなみに、山口徳之進は京都に潜伏している長州藩士とつながっており、3月には久坂玄瑞と一緒に長州に下っているほどの長州シンパです。(清河八郎や芹沢鴨とも知り合いでした) 水戸藩の在京勢はすっかり慶喜を依頼している様子ですが、西郷吉之助(隆盛)の大久保一蔵(利通)宛5月12日付書簡((こちら)にある「水人抔ハ篭絡いたされ候姿にて、(慶喜は)決テ攘夷之腹ニ無之、別ニ一物有之候半」という評判があたらずとも遠からずのような気がします。「一物」が前宇和島藩主伊達宗城が危惧していたような、「(禁裏守衛総督・摂海防御指揮に就くことにより)其身政府を遁れ、且、禁闕に潜み、安心故、水始之入説にて厳敷関東へ懸合、終ニ人心之帰し候様、密策、不臣之謀計」(元治1年3月18日付『伊達宗城在京日記』)(こちらやこちら))、乃ち将軍職への野望かどうか、またそれが真実かどうかは別として・・・。 関連:■テーマ別元治1 「横浜鎖港問題(元治1)」 「水戸藩/天狗・諸生争乱」■水戸藩かけあし事件簿 ■開国開城「25:横浜鎖港問題と将軍再上洛」、「26:参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 参考:『水戸藩史料』下p612-613(2012/4/10) *** 管理人より: 元治1年5月の「今日の幕末」は飛び飛びです。日々の動きを簡単に知りたい方は、こちら |
|