2月の「幕末京都」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ
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■横浜鎖港問題 【江】文久3年12月29日、横浜鎖港談判使節団は、仏国公使館通訳ブルックマンを伴い、仏国軍艦ル・モンジュに乗り神奈川を出航しました <ヒロ> 8月18日の禁門の政変前、京都における攘夷親征説が激しいので、幕府では長崎・箱館・横浜の三港全部の閉鎖は無理だが、せめて横浜一港だけでも閉鎖して違勅を逃れ、そのうえで局面打開を図ろうとしていました。しかし、政変後は、京都の情勢が危ういので何をおいても(鎖港を据え置いても)将軍が上洛し、閉鎖の利害も奏上すべきだという考えが支配的になっていました。 ところが、政変で急進派七卿や長州勢は追放されたものの、孝明天皇が頑固な攘夷主義者であることには変わりませんでした(こちら)。8月23日、後見職一橋慶喜、老中板倉勝静は、<最近の乱のもとは全て外国問題に起因する。鎖港の上にこそ上洛すべきである>と論じ、幕府は横浜鎖港を決定しました(こちら)。9月、幕府は各国公使と鎖港談判を開始したものの、交渉は難航しました。そこで、本国政府と直接交渉させるため、鎖港交渉使節をヨーロッパに向けて出立させることになり、11月28日、外国奉行池田修理らが横浜鎖港談判使節に任命され、12月26日、将軍家茂から委任状を下付されました。(朝廷から、横浜鎖港交渉についてきくためとして上洛を命じられていた家茂は、翌27日、江戸を出立。28日、軍艦翔鶴丸で海路上洛)。 先回りをしますと、使節団は上海で郵船に乗り換え、香港・シンガポール・セイロン・スエズ運河を経てマルセイユに到着。パリには元治1年3月16日に入りました。同24日にナポレオン三世に謁見し、将軍家茂の親書を渡して使命を伝達すると、4月2日から5月17日まで、仏国外相等と協議を7回行います。 使節団の主要目的は江戸に近い横浜の鎖港でしたが、フランス側はこれを拒否し、逆に三港(横浜・長崎・箱館)の自由貿易港化、キンシャン号砲撃賠償、下関通航を主張して譲りませんでした。横浜鎖港が不可能だと知った使節団は、鎖港交渉を打ち切り、他の国を歴訪もとりやめて帰国することになります。一連の協議における合意事項は、5月17日、パリ約定にまとめられました(こちら)。 関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」同文久3年「横浜鎖港問題(1)」同元治1 「横浜鎖港問題(元治1)」 ■開国開城「25:横浜鎖港問題と将軍再上洛」)「26:参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 参考:『維新史料綱要』五、『維新史』三p222-236(2005.2.7) |
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