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文久3年5月25日(1863年7月10日)
【京】会津藩、姉小路公知暗殺犯として
薩摩藩田中新兵衛を逮捕
【京】壬生浪士35名連名の将軍東帰反対の上書を提出。

■朔平門外の変
【京】文久3年5月25日夜、会津藩は、朝命により、姉小路公知(あねこうじ・きんとも)の暗殺犯として薩摩の田中新兵衛を捕縛しました

この日の深夜、武家伝奏坊城は会津藩公用人(外島機兵衛)を呼び出し、姉小路暗殺犯は薩摩人田中雄平(新兵衛)であるので早急に捕縛するよう命じました。外島が証拠を尋ねたところ、現場に遺された刀の持ち主は田中であり、そのことは多くの長州・土佐藩士が知っていると答えたそうです。さらに、三条実美からも田中捕縛の命令が下りました。外島が帰館して容保に告げると、容保は物頭安藤九左衛門に兵を率いさせ、公用局からは外島、松阪左内、広沢安任を同行させました

田中の旅宿に向かった会津藩士らは、名刺を渡して中に入り、朝命を伝えて田中を説得し、共に坊城家に向かいました。坊城は田中を会津藩に預けようとしましたが、外島は、「守護職の任にあらざるのみか、館中に置くべきの地なし」と断りました。坊城は強制できず、町奉行に田中を引き渡すことにしましたが、与力・同心は畏怖して会津藩士に同行を求めたので、田中を奉行所まで送り届けたそうです。日付は26日になっていました。

田中の旅宿は薩摩藩邸からわずか一町(約100メートル)に位置しており、騒ぎをききつけた薩摩藩士は田中の宿に集まりました。そこで、会津藩士が連行したときき激怒し、内田仲之助・伊勢勘兵衛の2人が黒谷の会津藩邸に向かい、猛烈に抗議しました。応対した外島は、「天朝の特命は捕縛にあり。されど相互武士道を重んずるが為めに、朝命を宣べて、同行せしに過ぎず。想ふに貴藩、もし此命を奉ぜらるえば、又此の如きの他ならん」と答えたそうです。

関連:■テーマ別「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)
参考:『徳川慶喜公伝2』・『七年史一』・『京都守護職始末』・『幕末政治と倒幕運動』

■将軍東帰問題
【京】文久3年5月25日夜、壬生浪士は35名連名の将軍東帰反対の上書を守護職松平容保と老中板倉勝静に提出しました。

残念ながら上書自体は残っていないようですが、同年6月初め(推定)に近藤勇が萩原多賀次郎ら18名に宛てた書簡に上書の提出経緯が記されています。

「関東の大小名御旗本衆は国家安危を顧ず、唯々(将軍の)御下向のみ差急いでいます。過日は水戸公が攘夷の為に将軍目代として下向されましたが、(攘夷実行に関する)何の沙汰もありません。また、一橋公も攘夷期限・拒絶の談判を承り、朝命によって東帰されましたが、いまだに拒絶が決まらず、漸次延引するとの趣旨をお届けになり、朝廷からは拒絶の交渉はどうなっているかとご質問があるほどです。然るに、今般、大樹公が醜夷を関東で討つために御下向になる件を、尾州前侯より御願出になったところ、叡慮に叶わなかったとのことです。未だに攘夷が決まらないのに下向になれば、君臣は自然と離隔という姿にもなるでしょう。大樹公が下向され、攘夷を談判されるといいますが、前に水戸公・一橋両公が東帰になったのに攘夷が決まらないのに、万一大樹公が御発駕になっても拒絶が延引になれば、終に違勅という事態に陥り、その罪は逃れがたいものです。その虚に乗じて内奸が輳り、万一攘夷の勅を薩長土が落手すれば、速やかに勤王の挙兵が起こるのは間違いありません。そうなれば(日本は)東西に分裂し、違勅の罪の糾明になれば、たちまち国乱となり、終に醜虚策に陥るだろうと存じます。そのときに至って後悔しても遅いので、去る25日、同志一同決死の覚悟で、朝廷学習院・老中板倉殿・守護職松平肥後守殿へ右三通を別紙の通り提出し、最近の切迫した形勢を論じ、その結果、大樹公の50日間の滞京が決まりました。・・・(後略)」( 『鶴巻孝夫研究室』翻刻文より意訳by管理人。素人の訳なので著作物作成には利用しないでね)

<ヒロ>
●将軍の50日滞京
近藤は、自分たちの行動の結果、将軍の50日の滞京が決まったとしていますが、実はこの前日(24日)には将軍東帰が内定していました(こちら)。越えて5月30日には将軍東帰の暇を与えるとの内沙汰が降りており、将軍の50日滞京が決まったとはとても思えないのですが・・・。まして、浪士連署の上書で、このような重要事項が決まるとはとてもとても・・・。また、近藤らが誰と形勢を論じたのかも不明です。書簡からは公卿・容保・老中と直接談じたようにも受け取れますが、これもどんなものでしょうか・・・(裏づけ資料はみたことがありません)。近藤はどうも自分たちを誇大評価しているように思えます。(近藤が自分たちのことを飾り立てて故郷に報せた例はほかにもありますし^^;。同時代書簡だからといって100%信用しちゃいけないよい例だと思います)。

近藤の書簡からみられる政治思想については、時間のあるときに覚書にまとめたいと思います。(近藤自身のものなのか、芹沢に影響を受けたものなのかは、よくわかりませんけれど)

おまけ:管理人意訳部分は『新選組史料集コンパクト版』にも『新選組日誌』でも、紹介されていませんでしたので、上掲サイト様に出会ったときはとても嬉しかったです。(時候の挨拶部分をのぞいて仮口語訳しました。⇒「私的資料集」「【浪】6月初:近藤勇(3)(将軍東帰反対の上書提出経緯)」)大河で近藤勇がフィーチャーされるのを機会に、近藤書簡の出版でもされればよいのですけれど・・・。(沖田と土方は全書簡集があるのに、肝心の近藤がないんですよね^^;)。


関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 「将軍東帰と京都守護職会津藩の孤立」■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」(2004.7.13)

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