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文久3(1863)

開国開城21:将軍東帰と京都守護職会津藩の孤立
(文久3年6/7月)

<要約>

文久3年3月の入京以来、京都に足止めをくらっていた将軍は、6月にはいって、破約攘夷の決行を名目にようやく、東下を勅許された。将軍は老中格小笠原長行処分を名目に下坂したが、小笠原の処分はせず、急遽大坂を出発して海路江戸に向かい、約40日ぶりに江戸に入城した。(A.将軍東帰

将軍は東帰の際、京都守護職松平容保に残事務を委任していった。会津藩は、京都において孤立し、唯一の幕府側有力大名として尊攘急進派と正面から対峙していくことになった。(B.京都守護職の孤立)。

生麦償金交付と小笠原の率兵上洛戻る
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薩英戦争


A. 将軍東帰
(文久3年6月)

幕府/
京都
将軍:家茂 将軍補翼:徳川慶勝(尾) 守護職:松平容保
首席老中:水野忠精 老中:板倉勝静
幕府/
江戸
将軍目代:
徳川慶篤(水戸)
後見職:一橋慶喜
老中:松平信義 老中:井上正直 老中格:小笠原長行

朝廷 天皇:孝明孝明天皇 関白:鷹司輔熙 国事扶助:中川宮 参政・寄人:三条実美ら

◆将軍東帰と孝明天皇の反対

○無理な攘夷期限と将軍滞京延期運動
幕府は、将軍上洛前の2月11日、攘夷期限設定を迫る朝廷に対して、将軍滞京は10日間で、さらに江戸帰還後20日以内に攘夷談判に着手すると約束し(こちら)、さらに期限は4月中旬だと奏していた(こちら)。つまり、3月4日に入京した将軍は14日に江戸へ向けて出立して攘夷の実効を挙げねばならないわけだが、それはとうてい無理だというのが慶喜たちの認識だった。

危機的状況を打開するために、慶喜が考えたことは、今後の公武一和の実現と近々に入京する薩摩藩国父島津久光の尽力に期待した滞京延期(それに伴う攘夷期限の延期)だった。ちょうど、江戸においては生麦事件の談判が予断を許さない状況でもあり、英国が戦端を開く可能性や、摂海まで英国艦が押し寄せる可能性も危惧されたことから、3月8日、慶喜は、京都守衛のための将軍滞京と江戸防御のための水戸藩主徳川慶篤の東帰を奏請し(こちら)、11日には朝廷から「公武一和人心帰趨」のための将軍滞京、攘夷防衛戦争の指揮のための(慶篤ではなく)慶喜か春嶽の帰府を命じた(こちら)。朝廷は、翌12日には慶喜・春嶽一方の両日中(3月14日まで)の退京・帰府を催促し(こちら)、14日には、鎖港交渉のために春嶽の帰府を命じた(こちら)

ところが、総裁職の春嶽は、公武一和の周旋に限界を感じて、3月9日に幕府に総裁職辞表を提出して引篭り中で、慶喜らの慰留にもこたえず(こちら)、15日には重臣を通じて朝命を断るよう求め、改めて辞職を再願した(こちら)

○生麦事件償金交渉と将軍東帰運動への転換
そこへ、生麦事件償金問題に揺れる江戸からの使者が到着し、早々の将軍帰府を促した。諸外国公使が、将軍滞京延期により幕府に疑念をもっており、さらに将軍辞任の風説を伝聞して、交渉相手の変更があれば本条約遵守もおぼつかないと不信感を募らせているからであった(こちら)。在京幕府は、これを受けて、将軍の3月21日京都出立を内決し、使者を江戸に派遣して、その旨英国側に伝えさせた。

○将軍滞留、三度の勅と東帰中止
慶喜と老中は、3月17日、参内して将軍東帰を奏請したが、朝廷は、滞京して摂海に英国艦を迎えて攘夷を実行せよ、と東帰を認めず(こちら)、翌18日には(1)将軍滞京による京都・近海守衛、(2)大坂における生麦事件償金拒絶交渉実施、(3)将軍による摂海攘夷戦争の指揮、の勅旨を伝えた(こちら)

それではと、3月19日、将軍が慶喜らと参内し、孝明天皇に直接東帰を請願したが、天皇から直接滞京を求められ、感激して東帰中止を回答してしまった(こちら)。(この際、戦争は好まないとの直諭があり、摂海攘夷指揮は偽勅だということが判明した)。

しかし、幕府は将軍東帰をあきらめなかった。3月21日、慶喜は老中板倉勝静・水野忠精とともに、関白鷹司輔熙に面会し、<江戸では必ず外国との戦争になるだろうから将軍が直接指揮をしなくてはならない>と論じて東帰を再願をした。関白はもっともだと東帰を了承したものの、伝奏・議奏・国事掛にも諮った後で確答するから、とりあえず、東帰の準備を進めるように述べた。そこで、幕府は明後23日出立と決め、東帰の準備を始めた(こちら)。ところが、3月22日夜、三度めの滞京の勅命を下されて、ついに東帰をとりやめた。代りに上京中の水戸藩主徳川慶篤が、3月25日、将軍目代として出京、東帰した(4月11日着府)。

○将軍下坂・慶喜東帰と引き換えの攘夷期限(5月10日)の約束
将軍上洛前、慶喜は、当初、実行困難だと知りながら、攘夷期限を4月中旬と回答したが(こちら)、その後、さらに具体的に4月23日と約束していた。期限が迫る4月18日、幕府は、とりあえず将軍家茂が京都を去るしかないと考え、その口実として、将軍の大坂湾巡視及び鎖港攘夷のための慶喜東帰を願い出た。 これに対して、朝廷は、慶喜東下による攘夷期日を明らかにすること及び将軍が帰京して報告することを迫ったので、幕府は、4月20日、攘夷期日を5月10日と回答し、列藩に布告することを約束した(こちら)。 4月22日、慶喜は、「攘夷の実効」をあげることを名目に、水戸藩家老武田耕雲斎を伴って出京・東下した(こちら)。他方、江慶喜も、内心償金支払もやむをえぬと覚悟しており、在京中に鷹司関白・中川宮にも支払いについて内諾を得ていたという(『昔夢会筆記』)。なお、慶喜の東帰に伴い、上京中の前尾張藩主徳川慶勝に将軍輔佐が命じられた。

○生麦償金支払と第2次将軍東帰運動
慶喜は、道中、破約攘夷や償金拒絶を老中に指示しながら、16日間というゆっくりした旅程を取り、5月8日に江戸に到着したが、留守老中・諸有司たちは、4月下旬の段階で開国・償金支払で意見がまとまっていた。同じ日、老中格小笠原長行が横浜に赴き、独断で償金を支払った(こちら)。9日、慶喜は将軍目代の慶篤と登城して、横浜鎖港攘夷の勅旨を伝えて鎖港交渉開始を指示したが、開国をよしとする老中以下の猛反発にあった。慶喜は、14日、攘夷の叡慮貫徹はとても果たせないと、朝廷に後見職辞表を提出した(こちら)。次いで19日、慶篤も将軍目代の辞表を提出した。

償金支払の報が京都に届くと、幕府に対する非難がまきおこった(こちら)。5月20日、守護職松平容保は老中らと参内し、将軍自身による攘夷実行・償金を支払った幕吏の誅戮を理由に将軍東帰を請願した(こちら)

○将軍東帰決定と天皇の反対
5月29日、朝廷は、将軍家茂に攘夷を決行させるため、ついに東帰を内定した。

これまで幕府は将軍東帰を再三申し出ていたが、尊攘急進派及び将軍滞京による公武一和を望む孝明天皇の意思により、頓挫してきた。29日の決定も、急進派の主導する朝議によるものだった。ここにいたり、急進派が将軍東帰を認めた理由は、幕府を京都から遠ざけて王政復古の素地をなし、攘夷を実行しないときは親征の口実にするつもりだったといわれる(こちら)

孝明天皇は自分の意思が通らない状況を憂慮し、近衛忠煕前関白(薩摩と縁戚にあり公武合体派)に宸翰を渡して、将軍滞京・公武一和による攘夷を模索するよう命じた。忠煕から宸翰を示された将軍輔佐の前尾張藩主徳川慶勝(容保の実兄)は、容保と計って将軍滞京(あるいは滞坂)を説いたが、老中以下幕府の役人は聞き入れなかった。彼らは京都を危地とみなし、将軍を脱出させるために東帰を望んでいたからである。

6月3日、将軍は参内し、攘夷決行のための東下を勅許された(こちら)

◆将軍、東帰

一方、関東では、在京幕府の窮状を老中格小笠原の率兵上京(京都武力制圧計画)の噂が京都に届いて朝廷はパニックになっていた(こちら)。将軍は大坂に上陸していた小笠原を訊問・処罰することを理由に、6月8日(9日説あり)、退京して大坂に向った。その後再び上京して顛末を報告した上で東帰の途につくことになっていたが、13日、関東の事情が穏やかならぬという理由から、急遽大坂を出て海路江戸に向った(こちら)。将軍が江戸に着いたのは3日後の6月16日。2月13日の出発以来、約4ヶ月ぶりの帰府だった。

攘夷の決行を名目に東帰を勅許された将軍だが、6月26日には、内治を整えて人心一致したうえでの攘夷が望ましいとして、攘夷期限を将軍に委任するよう奏請書を提出した(こちら)。(但し、老中から残事務を委任された守護職松平容保は奏請書を留め、慶喜上京による攘夷委任の奏請を老中に建議こちら

一方、尊攘急進派が主導する朝廷からは 6月25日、将軍譴責の勅諚が下され(こちら)、勅諚伝達の使者として、 禁裏附武士小栗正寧が派遣された。

孝明天皇は公武一和思想の持ち主で保守的だった。門閥の低い公卿が過激な言動を繰り返し、自分の意思が通らないどころか曲がって伝わっていくことをとめられない現状にかなりストレスを感じており、将軍滞京を望んだほか、薩摩藩国父島津久光に対して上京して「姦人(=長州藩と結んだ三条実美ら過激派公卿)を掃除」せよとの勅書を下している。薩摩藩などの武力をたのんだ朝廷クーデターにより過激派を一掃しようと考えていたようだ。(こちら
関連■テーマ別文久3「第2次将軍東帰問題&小笠原長行の率兵上京」「慶喜の後見職辞任問題

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B.京都守護職会津藩の孤立
(文久3年6月)

幕府/
京都
守護職:松平容保 所司代:牧野忠恭
→稲葉
幕府/
江戸
将軍:家茂 後見職:一橋慶喜 老中:
水野忠精
老中:板倉勝静

朝廷 天皇:孝明孝明天皇 関白:鷹司輔熙 国事扶助:中川宮 参政・寄人:三条実美ら

◆京都守護職の孤立

6月9日に将軍家茂が退京・下坂するとき、老中板倉勝静は京都守護職松平容保に残事務を委任していったこちら)。将軍輔翼にあった実兄の前尾張藩主徳川慶勝も、藩内の事情があるとして、大坂守護の要請を断って21日に帰国し(こちら)、在京の幕府重職は京都守護職のみという状況になった。旧会津藩士の編述した『京都守護職始末』では、「公武の間に立って、双方の議の表裏をとりはからって一和を図るのは、ただひとりわが公(注:容保)あるのみ。しかも、一旦大事件が起っても、相談にのる有力な人がなく、守護職はまったく孤立の勢となった」と慨嘆している)。会津藩は、22日、幕府に非常時の全権等を要請し(こちら)、7月21日、所司代・近畿諸藩は守護職の指図に従うようにとの幕命が下った(こちら)。

◆尊攘急進派と京都守護職の対立−急進派の容保東下運動

容保は、守護職着任当初は尊攘急進派にも一定の信頼をもたれ、対浪士問題にも「言路洞開」という穏健策をとったが、足利木像梟首事件を機に強硬策に出て、浪士を始めとする急進派と対立することになった。

この対立の一環として、将軍東帰後まもない6月25日、容保に東下の勅命が降りたこちら)。表向きは将軍帰府後の情勢視察と攘夷実現の督促のためだが、実は浪士真木和泉が急進派公卿三条実美と謀って出させた勅命で、容保を退京させることが目的だった。容保退京後、勅して守護職を解任させようとの計画があったともいう。

しかし、容保が公武一和を損なうとして東下を固辞したこと、また急進派の主張で勅諚を裁可した孝明天皇が、裏面の事情を察して容保の東下をのぞまない内勅を出し(こちら)、その意思が強固なことから、容保の東下は沙汰やみとなった。代って禁裏附の小栗が勅諚を奉じて東下することになった。

◆尊攘急進派と京都守護職の対立−急進派の容保東下運動
容保東下の沙汰は同月25日に下っていました(こちら)。容保は、守護職である自分が京都を離れることはできないと、下向は他の者に命じるよう願いましたが、朝議は動きませんでした。ところが、実は、孝明天皇も容保の東下を望んでおらず、武家伝奏に対して勅書を下して、東下の沙汰は真意ではなく、容保が固辞するなら喜ばしいことなので再命はしなこと、もし再命があれば偽勅なので天皇の真意を容保にも知らせるよう命じていました。しかし、伝奏は、真勅を容保に伝えることにより、偽勅疑惑がこれまでに出た勅にまで及び、人心が混乱することを恐れて、容保への密勅を再考するよう乞いました。伝奏を通して容保に真意を伝える手段を失った天皇は、近衛前関白(公武合体派)に対して、急進派による守護職解任の動きを警戒し、会津を頼みとする真意を伝える宸翰を下すとともに、伝奏が手渡す筈だった容保への密勅を授けていました

関連:■テーマ別文久3「守護職会津藩の孤立と職権確立」「御所九門・六門警備(1)

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(2001/8/12)

<主な参考文献>
『官武通紀』・『大久保利通日記』・『昔夢会筆記』
『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』

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