7月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3  HP内検索  HPトップ

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文久3年5月24日(1863年7月9日)
【京】朝議、将軍東帰を内定。
【越】横井小楠、故郷の門人に対し、越前藩では、
挙藩上京(「道理」に基づく国是議定のための外国代表を含む京都会議言上)
近々大評議にかける予定であり、薩摩・肥後等の協力があれば成算ありと知らせる
【小倉】太田・野村、小倉藩代表者を難詰

■将軍東帰問題
【京】文久3年5月24日、朝廷は、将軍東帰を内定しました

将軍輔翼の前尾張藩主徳川慶勝(守護職松平容保の実兄)は、将軍が東帰すれば公武が離間し不測の事態も起りかねないと東帰には反対でした。また、孝明天皇も東帰を喜ばず、中川宮ら公武合体派公卿に周旋をさせたそうです。

<ヒロ>
同月19日夜、生麦事件の償金交付の公式報告?が京都届き(こちら)、20日、容保らは参内して将軍の東帰を奏請していました。将軍が「奸吏」を罰し、攘夷責任者として帰府した後見職一橋慶喜と将軍目代徳川慶篤(水戸藩主)に関東の状況を糺したうえで速やかに攘夷を行うためです(こちら)。21日の朝議では、滞京を望む公武合体派と東帰を主張する尊攘急進派(三条実美ら)とに分かれていました(こちら)

この日の内定は急進派の意向を受けたものとなります。これまで将軍を引き止めていた急進派が、その東帰を支持したのは、これを機会に将軍と会津藩を京都から遠ざけて王政復古を容易にしようとしたからだとも、幕府が攘夷を実行しない場合はこれを親征の口実にすることができるからだともいいます。ちなみに、急進派公卿に意見を求められた岩国藩主吉川監物が、長州藩士と協議の結果、将軍の東帰を許して攘夷の実効を上げさせるべきとの上書を提出していました(こちら)

参考:『徳川慶喜公伝』・『七年史』(2001.7.9, 2004.7.13)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 「将軍東帰と京都守護職会津藩の孤立」■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京
■越前藩の挙藩上京計画
【京】文久3年5月24日、越前藩は、挙藩上京し、朝幕に対して、外国人も交えた会議を開いた上での「道理」に基づく国是決定を決死で言上する計画について、近日「大評議」を行う方針を固めました。

5月24日付小楠書簡によれば、越前藩では、攘夷拒絶を不服とする外国船が摂海に乗り入れる可能性があるとみて、そのときは緊急上京することを決めていました。その後、(幕府が5月10日を期限と約束した攘夷を実行しないことで)朝幕間がどうにもならなくなったため、「近日一大議論を発し」、外国船が摂海に侵入するのを待たず、春嶽を先頭に一藩を挙げて上京し、「朝廷幕府に必死に言上」する方針を固めました。(春嶽の逼塞・茂昭の御目通り差し控えが、5月17日に解除になりましたので、緊急時でなくても上京できる環境が整ったともいえます)。

その言上内容は、 攘夷拒絶の件は、既に天下に布告になっているので今さら争わないが、在留外国人(公使)を京都に呼び寄せ、将軍・関白始めとする要路が列席して談判して、外国人の主意を聞き取り、その上で明らかとなる「道理」に基づいて、鎖国・開国・和戦とも決議すれば、「彼是共に安心の地」に至るだろうというものでした。外国拒絶という日本の国是は叡慮で決定しているが、国内だけでなく「全世界の道理」においても是となるかどうか、「地球上の全論」にかけて決定せねばならないというわけです。(この内容は、すでに5月13日に中根靱負が老中に春嶽の意見書として提出していますこちら)。

これには「一藩君臣再び国に帰らざる覚悟を極め」るべきだとの議論が起こり、既に、執政ニ三人には内談し、近日中に大評議が開かれることが決まりました。

小楠は、もし、藩議が決定すれば、隣国の加賀、肥後藩、薩摩藩等へ使者を派遣し、なるだけ三、四藩の同意を得た上で、いっせいに上京して言上すれば、必ず目的を達することができるだろうとみていました。

小楠書簡の概容は以下の通り
ただ今となっては、公武ともに実にどうにもならぬ様子で、誠に言語を絶する次第だ。この光景を見聞きして、こちらでは、「近日一大議論を発」し、「夷人」(=外国船)が摂海に侵入するのを待たず、春嶽公を先頭に一藩を挙げて上京し、「朝廷幕府に必死に言上」したいと考えている。
その言上内容は、「攘夷拒絶」の件は、既に天下に布告になったので今さら争わないが、「在留の夷人」(=外国公使)を京都に呼び寄せ、将軍様・関白殿下始めとするお歴々が列座で談判して、彼らの主意を聞き取り、「何れ道理可有之道理」に基づいて、「鎖とも開とも和とも戦とも」決議すれば、「共に安心の地」に至るだろう、というものである
これは、先日、中根靭負が上京して、幕府に提出した別紙(=13日に板倉老中に提出した春嶽の意見書こちら)の通りであるが、右の次第を是非(朝廷・幕府が)御聞取りになるよう嘆願し、「一藩君臣再ふ圀に帰り去らさる覚悟を極め」るべきだとの議論が起った。既に執政二、三人には内談したので、「近日に大評議」になるだろう。
今回の件は、「一ト通り之覚悟」ではなく、「身を捨家ヲ捨圀を捨るの(覚悟を)決定」をせねばならない。第一、春岳公・当公にその御覚悟の決心がなければ、とても実現はせぬ「大難事」なのである。
もっとも、この件が決定すれば、隣国の加賀、御圀(肥後藩)、薩州等へ使者を派遣して説得し、なるだけ三、四藩の同意を得た上で、「一同に御上京の上」言上すれば、必ず「治平」に至ることができるだろう。
しかしながら、この一挙は「圀家身をも捨候覚悟」がなくては実現せぬ事ゆえ、当地の御両君や執政がどう御決定になるか。さらに、中根靭負が近日京から帰るので(注、5月30日帰国)、彼地の事情も篤と熟知の上での評議がどのように落ち着くだろうか。未だ決定というわけではないのだ。
この計画を実行せぬ場合でも、「夷人」が摂海に侵入すれば、「全国(=全藩)上洛」をすることは既に決定している(こちら)
(参考:『続再夢紀事』二p42-44抜粋の小楠書簡より作成)

○おさらい
春嶽は、3月21日に総裁職辞職届捨てのま退京し(こちら)、小楠のいる福井に帰りました。(同月26日には逼塞)。

京都では、攘夷の議論がますます喧しく、23日、幕府も水戸藩主徳川慶篤に外国処置の委任・東帰を達し(こちら)、24日、参内した慶篤に対して、朝廷は将軍目代として攘夷を成功させるようにとの沙汰を下しました(こちら)。慶篤は25日に出京しました(4月11日に江戸に到着)。

春嶽/越前藩は、鎖港交渉が不調に終わって、万一外国船が摂海侵入した時には、挙藩上京して京都を守衛し、さらにニ・三の大藩と連携しての「皇国萬安の国是」確立の建議を・周旋する方針を固め、4月15日には、近隣の加賀藩・小浜藩に使者を送っていました(こちら)

その後、幕府は攘夷期日を5月10日と約束し(こちら)、4月22日には後見職一橋慶喜が攘夷実行のために東下していき(こちら)、近日中の鎖港交渉開始は免れえぬ状況になりました。春嶽は、せめて、その鎖港交渉を「条理」に基づくものにせんと、中根靭負を京都に派遣し、板倉老中に春嶽の意見を「演説」させました。その内容は「全世界の道理」に基づく国是検討のための、外国人・朝幕諸侯・草莽の大会議開催を求めるものでした(こちら)。5月13日のことです。

相前後して、生麦償金支払の報や慶喜の後見職辞表が京都に届き、朝廷と幕府の間には齟齬が生じてしまいました。もとより攘夷が実行できるわけもなかったのです。ところが、幕府は、将軍東帰の暇乞いをする際にも「奸吏誅戮・攘夷実行」など、容易に実行できぬことを理由としていました。

越前藩は、幕府のこの調子では、対外的にはさておき、国内的に公武の不和を生じ、諸侯も不服を申し立てるのは明らかであり、外国船が摂海に侵入するのを待って上京するという手ぬるい事では時機を逃してしまうと考えたのです・・・。

参考:『続再夢紀事』二p42-44、p40-41
関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」、「横井小楠」■テーマ別文久3「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」(2012/4/25)

■長州VS小倉
【江】文久3年5月24日、長州藩士野村和作・太田市之進が小倉藩代表に面会し、詰問しました。

両名は、攘夷期限の5月10日に、長州藩が海峡を通過する米国船を砲撃したとき(こちら)、対岸の小倉藩が呼応しなかったことについて説明を求めました。

これに対して、小倉藩は、(1)幕府からはかねてから無謀過激の行為を慎むようにとの命令があり(こちら)、(2)朝廷が幕府に大政を委任したからには(こちら)、幕命は即ち天皇の意思であるとして、長州藩の難詰を一蹴したそうです。


参考:『修訂防長回天史』(2004.7.9)
関連:■開国開城:「文久2:第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題「文久3:将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」「文久3:賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別「長州藩の攘夷戦争

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