7月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3  HP内検索  HPトップ

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文久3年5月26日(1863年7月11日)
【京】朔平門外の変:薩摩藩・田中新兵衛自刃。
【京】近衛前関白父子、久光に「暴烈之徒」の「増長」する切迫した情勢を報せ、上京を促す
【越前】挙藩上京計画を内定
【長】長州藩、オランダ船砲撃。

■朔平門外の変
【京】文久3年5月26日、姉小路公知の暗殺犯として捕縛された薩摩の田中新兵衛が自刃しました。(『維新史料綱要』では25日)

田中は、5月20日に御所朔平門外で姉小路が暗殺された現場に遺された刀(こちら)の持ち主だったとして、朝命により前日深夜(この日未明?)捕縛され、町奉行所に引き渡されていました(こちら)

町奉行永井尚志が容保に事件を報せた文書によれば、田中は帯刀していた脇差で自分の腹と首を切ったそうです。役人があわてて医師を呼寄せ、傷口を縫合したものの、深手のため手当てのかいなく絶命しました。町奉行所では上司にあたる京都所司代(長岡藩主:牧野備前守)に報告し、謹慎を申し出ました。

幕府はその不注意を叱責し、永井や係の役人に閉門謹慎等を命じたようです。

犯人とされた田中が自殺したので真相は闇の中となりましたが、当時の風説では田中は真犯人ではなく、刀を祇園で遊興中に盗まれて姉小路暗殺に使われたのだが、田中は刀を盗まれたことが露見したのを羞じ、藩風を重んじて自刃したのだといわれていたのだそうです。

しかし、尊攘急進派には姉小路の暗殺は薩摩藩の責任だとするものが多く、5月29日、朝廷は薩摩藩の御所警備を解き、薩摩人の九門内の往来を禁じることになります(こちら)

関連:■テーマ別「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)
参考:『会津藩庁記録』・『徳川慶喜公伝』・『七年史』(2001.7.11)

■久光召命
【京】文久3年5月26日夜、近衛前関白父子は、島津久光に書を送り、「暴烈之者」の「増長」する切迫した情勢を告げて上京を促しました。また、姉小路公知殺害事件に伴う田中逮捕は、薩摩を嫌い、罪に落とす計略だとの意見を伝えました。

書簡の概容は以下の通り
「天朝真実之御趣意」は「貫徹」せず、「暴烈之者」は「増長」している。方今の形勢は「治乱」の境目にあり、(久光の)御上京を折々申し入れてきた。とても御上京がなくては「暴烈ノ治りかた六ヶ敷」、苦心をしている。
将軍滞京か帰府かをめぐって「大混雑」である。江戸では(生麦事件の)償金を支払ったとのことなので、「決テ攘夷之場」には至るまい。戊午の頃の井伊在職時と同様であり、「姦吏」が計略をめぐらし「一人モ有志」がいない。(攘夷の実効を挙げるために4月22日に退京・東帰した)一橋にもどうしようもなく、(後見職辞職を願い出て)「引篭」ているそうだ。
「姉小路大変一件」は、「甚六ヶ敷」く、薩摩の仕業とされて、捕縛された者もおり(=田中新兵衛こちら)、痛嘆している。これは全て「其許(そこもと)ヲきらひ罪ニおとすへき計策」かと存じられる。
こうなっては、「其許何卒御奮発御上京」でなければ「国家」は「治」まり難く、何分御賢察をお願いしたい。
<別紙>
其許が御上京になるよう、(天皇も)勅書を下され、参内の際にも御沙汰をされる。
昨年勅諚で仰せ出された守護職の件(注2)について、叡慮が貫徹せず、「暴烈之堂上」は「増長」している。(久光が)どうか「御奮発御上京」になるよう、折々申し入れる他ないと、ただただ嘆息する次第である。
中川宮も、国事扶助を仰せつけられているが、その「詮も無」く、同様に嘆息されている。
(管理人は素人なので資料として使わないでね)

注1 4月23日に天皇が中川宮に下した久光の上京周旋の密勅(こちら)かもしれませんが、5月30日には、久光に上京「姦人掃除」の密勅が下りますので、そのことを示唆しているのかもしれません。
注2 参考:会津藩VS薩摩藩(薩摩藩の守護職任命運動)

参考:『玉里島津家史料』二p285-286(2012/4/19)
関連:■テーマ別文久3年:「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)」「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変■薩摩藩日誌文久3

■越前藩挙藩上京計画
【越前】文久3年5月26日、越前藩は、大評議の上、挙藩上京計画を内定しました。外国公使を京都に呼び出し、朝幕諸藩草莽を含めた関係者全員が列席して会議を開き、鎖国か開国かという国是を決めることを、決死の覚悟で言上するためです。

同日付の小楠書簡によれば、その経緯は次のような感じです↓
【状況分析】(5月8日の)「償金一条違乱」(=生麦償金支払いこちら)について、朝廷は、担当の幕吏(=老中格小笠原長行)を誅伐せよと命じられたが、在京幕府は、この一条は江戸で取り計らったことで、こちらでは一切知らないので吟味すると答えた。最近になって、(将軍が)在京では関東の「違乱」を処置できないので、一刻も早く暇をもらい、早々に帰国して、将軍自らが違勅の者の誅伐・攘夷拒絶をら行いたいと申し出たところ(こちら)、なおさら困難な状況になった。

朝廷では、将軍が退京してしまえば、攘夷拒絶も役人誅伐もできないといって、「大権御差上」(=政権・大政返上)したいと、(攘夷拒絶も役人誅罰も)断ってくる計略だと疑い、結論を出せない。幕府はさらに大困窮している。今さら申し出を取り返しもできないので、尾の老公(前尾張藩主徳川慶勝、当時将軍補翼)に頼り、その周旋でまた(将軍)滞京になったが、今後、如何なる決定になるか(注:実際は、朝議は24日に東帰を内定こちら)。

主上(天皇)・関白殿・中川宮は(幕府の事情を)熟知され、実に「大御苦悩」されているが、「国事掛等の暴論家」が幕府の「偽欺を憎」んでいるので、今となっては、外国は先ず差し置き、「公武大不和大争端」が緊急事態である。
【越前藩の対応】これらの状況を受けて、越前藩では一昨日(24日)以来(こちら)、君臣の大評定となり、今日、両君(春嶽・当主茂昭の)とも出京し、これに執政以下藩士ほぼ全員が随従し、「君臣共に必死を誓」って皇国の為に尽力することに決定した。
今回は、朝廷と幕府との間柄をとりもつということでは一切なく、「天下に大義理」を立てていくつもりである。もっとも、越前藩が開国論であることは、列藩へも知れ渡っているので、(上京すれば)両君をはじめ、如何なる「暴発の変難」があるかもしれない。しかし、それらを少しも厭わず、「全君臣必死再び帰国致し申さず」との覚悟である。
既に決定したからには、遅滞してはならぬと、今日、大番頭牧野主殿介一組に出京を命じられ、四五日内に出立の筈である。両君には今一左右御待ちに相成り申し候。明日よりは、高知衆寄合其の外御番組士分以上を、両君の御前に召出し、直に御決心をお話しになる筈である。今回はどのような「大変」が起こるとも計り難いので、家中の若者・農兵の精鋭を撰び、三隊、約四千名の「精兵」を出動させる見込みである。
藩中一人も異議を申すものなく、誰もが「御尤も」と競い立ち、何れも「必死の心底」を顕しているのは心地よいことである。特に、家老の本多飛騨・松平主馬・狛山城等は感激して余すところなく尽力し、その外役人では長谷部甚平・三岡石五郎・村田巳三郎、御番頭御用人にては誰某、とその尽力には誠に感心する。
もちろん、小拙も上京する。今回は「皇国の御為存分の尽力死して止むのみ」(の覚悟を決めている)。万一にも天運があり、生き長らえれば、早々御国(=肥後)に戻り・・・・

○おさらい
春嶽は、3月21日に総裁職辞職届捨てのま退京し(こちら)、小楠のいる福井に帰りました。(同月26日には逼塞)。

京都では、攘夷の議論がますます喧しく、23日、幕府も水戸藩主徳川慶篤に外国処置の委任・東帰を達し(こちら)、24日、参内した慶篤に対して、朝廷は将軍目代として攘夷を成功させるようにとの沙汰を下しました(こちら)。慶篤は25日に出京しました(4月11日に江戸に到着)。

春嶽/越前藩は、鎖港交渉が不調に終わって、万一外国船が摂海侵入した時には、挙藩上京して京都を守衛し、さらにニ・三の大藩と連携しての「皇国萬安の国是」確立の建議を・周旋する方針を固め、4月15日には、近隣の加賀藩・小浜藩に使者を送っていました(こちら)

その後、幕府は攘夷期日を5月10日と約束し(こちら)、慶喜が攘夷実行のために東下するなど(こちら)、いよいよ鎖港交渉開始が免れえぬ事態になりました。

そこで、春嶽は、せめて鎖港交渉を「条理」に基づくものにせんと、中根靭負を京都に派遣しました。5月13日、中根は板倉老中に面会し、春嶽の意見を「演説」しました。その内容は「全世界の道理」に基づく国是検討のための、外国人・朝幕諸侯・草莽の大会議開催を求めるものでした(こちら)

しかし、相前後して、生麦償金支払の報や慶喜の後見職辞表が京都に届き、朝廷と幕府は大騒動となりました(こちら)

これをみた越前藩では、外国船が摂海に侵入するのを待たず、春嶽を先頭に一藩を挙げて上京し、先の建言を「朝廷幕府に必死に言上」する案が浮上し、24日、それを大評議にかけることが決めていました(こちら)。(これより先、17日に春嶽の逼塞・茂昭の御目通り差し控えが解除になりましたので、緊急時でなくても上京できる環境が整ったことも影響していると思われます)

参考:『続再夢紀事』二(2004.7.15)
関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」、「横井小楠」■テーマ別文久3「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

■長州藩の攘夷戦争
【長】文久3年5月26日、長州藩は、関門海峡に入ってきたオランダ軍艦メドューサ号を砲撃しました。

メドューサ号は応戦しましたが、不利とみて海峡を脱しました。長州藩にとっては3度目の勝利でした。

関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別:「長州藩の攘夷戦争
参考:『幕末長州の攘夷戦争』(2001.7.11)

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