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文久2年7月9日(1862年8月4日)
【江】松平春嶽、政事総裁職就任
勅使との会見(1)慶喜・春嶽に会見を求める

■春嶽の総裁職就任
【江】文久3年7月9日、前越前藩主松平春嶽は政事総裁職に就任しました

大老ではなく政事総裁職に
6月10日に伝宣された勅諚は春嶽を「大老」にというものでしたが(こちら)、この日の早朝、越前藩士中根雪江は大目付岡部長常を訪問し、「大老」は譜代の役職であり、大老職としての登用は家柄に合わないこと、もし譜代と同様に扱われれば家中が惑乱することを述べ、大老という職名を避けるようにと申入れていました。越前藩では、この申し入れが受け入れられたため、総裁職就任を受諾したのでした。

○おさらい
これより前、7月1日、将軍は、勅使大原重徳(五度目の登城)を白書院の上段に迎え、一橋慶喜を後見職に、松平春嶽を総裁職に任命し、政事向きのことを万端相談する旨を回答しました(おさらい:慶喜・春嶽登用の勅諚奉承問題)。6日には、慶喜は一橋家を再相続し、直命により、将軍後見職に就任しました(こちら)

翌7日、慶喜が、6月18日から登城を停止している春嶽に総裁職就任を促しました。 越前藩では、前日に江戸に到着したばかりの横井小楠(こちら)に家老らを加えて進退問題を評議しました。小楠の助言は<これほどまで切迫しているのであれば、かねての評議のとおり登城して、「幕府の私を捨てられ、是までの御非政を改められ候様、御十分に仰せ立てられ」、その結果をみて進退を決めてはどうか>というものでした。これを容れて、越前藩では翌々日(9日)からの春嶽の登城を決めていました。

関連■テーマ別文久2「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」■「開国開城」「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革

■勅使との会見
江】文久3年7月9日、勅使大原重徳は、山科兵部(薩摩藩士吉井幸輔)を越前藩邸に遣わして、勅使旅館(御馳走所=旧伝奏屋敷)における松平春嶽・一橋慶喜との会見を申し込みました。慶喜らは招請に応じることにし、会見は同月17日と決まりました。

<ヒロ>
勅使は、この後、会見に老中の不参加・島津久光の陪席を求めました。これは幕府にとってはとんでもないことで、会見は延び延びになり、23日にようやく実現することになります。⇒こちら

関連:■テーマ別「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」「勅使との会見-11か条の要求」■「開国開城」「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革
<参考>『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.20)

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