8月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

前へ   次へ

文久2年7月6日(1862年8月1日)
【江戸】慶喜、一橋家再相続。
将軍より、将軍後見職就任の直命
【京都】長州藩、藩論を攘夷に転換

■慶喜の後見職就任へ
【江】文久2年7月6日、幕府は一橋慶喜に一橋家再相続(10万石)を命じました。慶喜が登城して将軍に謁し、礼を言うと、将軍は、天皇の思し召しにより後見を勤めるようにとの直命を下しました

「此度、以叡慮被仰下候に付、後見相勤候様に」という言葉だったそうです。

薩摩藩士大久保一蔵(利通)は、日記に「多年苦心焦思せし事、今更夢のやうなる心地、皇国の大慶言語に尽しがたき次第なり」と記しています。

<ヒロ>
これより前、7月1日、将軍は、勅使大原重徳(五度目の登城)を白書院の上段に迎え、一橋慶喜を後見職に、松平春嶽を総裁職に任命し、政事向きのことを万端相談する旨、回答していました(おさらい:慶喜・春嶽登用の勅諚奉承問題

関連■「開国開城」「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■テーマ別「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原東下
参考:『大久保利通日記』一、『徳川慶喜公伝』2(2002.8.1)

■春嶽の政事総裁職就任へ(&横井小楠)
【江文久2年7月6日、越前藩の四度目の招請を受けた肥後藩士横井小楠が江戸藩邸に到着しました

小楠は、これまで、安政5年(1858)、安政6年(1859)、万延元年〜文久元年(1860〜1861)の三度、越前藩に政治顧問として招聘されていました。越前藩は肥後藩に続聘を申し入れ、小楠は文久2年6月に熊本を発ちました。小楠は、当初、福井に向いましたが、敦賀の手前の疋田駅で、江戸に来るようにとの春嶽からの使者に会い、旅程を変更して、江戸に急行しました。

春嶽が、急遽、小楠を江戸に呼び寄せたのは、幕政参与となるについて彼の補佐を必要としたからでした。ところが、小楠が越前藩邸に入ると、春嶽は6月18日以来登城をとりやめており、23日には幕政参与辞任を内願していました。この日の夕刻に藩邸に入った小楠は、病床の春嶽と面会。翌7日、家老らとともに春嶽の進退を協議することになります・・・。

○おさらい
この年の6月7日、薩摩藩の「国父」島津久光(藩主の父)が、勅使大原重徳を擁し、大兵を率いて江戸に入りました。軍事力と朝廷の威力を背景に幕政改革の断行を迫るためで、勅使大原が、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老に登用せよとの沙汰を伝えたのが6月10日です(こちら)。実は、これより前、朝廷や外様である薩摩藩に幕政介入をされたくない幕府は、先手を打って、5月7日に春嶽に幕政参与を命じ(こちら)、同月9日に将軍後見職田安慶頼を免じています(こちら)(後者は、将軍にもはや後見はいらないというポーズです))。しかし、これらは功を奏しませんでした。勅使の度重なる要求によって、6月18日、老中たちは春嶽を大老相当の職につけることを承諾します(こちら)。慶喜を後見職にすることはしぶり続けましたが、薩摩藩士らの示威もあり、同月29日に登用を決めました(こちら)。将軍家茂は、7月1日、慶喜の・春嶽の登用を奉答しました。

春嶽は、この間、慶喜の登用に消極的な老中に不満をもち、6月18日から登城を停止。同月23日には病を理由に幕政参与の辞任を内願し(こちら)、慶喜の後見職登用が決まった後も、引きこもっていました。この春嶽の引きこもりの理由について、松浦玲氏は、「一つには小楠に助けて貰わないと、どう動いていいかわからないのであった」(『横井小楠<増補版>』と解説しています)。

関連■「開国開城」「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■テーマ別「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」「横井小楠」」■越前藩日誌文久2 参考:『再夢紀事・丁卯日記』、『横井小楠<増補版>』(2005.7.5)

■長州藩
【京】文久2年7月6日、長州藩は議論の結果、藩論を航海遠略策から破約攘夷に転換しました

<背景>
長州藩は従来、長井雅楽の公武合体的開国論である航海遠略策を藩論として朝幕間を周旋していました。しかし、長井の建白書の一部に朝廷を誹謗した箇所があるとの指摘(謗詞事件)が起り、弁明の必要を感じた藩主毛利敬親は、江戸を出立して京都へ向いました。

途中、敬親は京都から浦靱負・桂小五郎などを召して情勢を聴取し、公武合体・航海遠略策は時宜にあわないとの説明を受けました。(といっても、公武合体・航海遠略の批判の中心にはほかでもない藩論の一転を画策する長州藩の尊攘激派がいたのですが^^;)。また、京都には島津久光とともに勅使を輔佐するようにとの勅命を受けながら、勅使を避けて上京した敬親に疑念を抱く尊攘派もいました。

7月2日、いわば、逆風の中、敬親は入京しました。病と称してすぐには参内せず、まず根回しをすることにしました。

敬親は、さらに世子定広や在京重臣を集めて藩是に関する会議を開きました。中村九郎・宍戸左馬介・桂小五郎ら激派は、天皇の攘夷の意思が不動である以上、即刻航海遠略策を破棄して攘夷に尽力すべきだと主張しました。これに対し、山田宇右衛門らの漸進派は破約攘夷の実行は極めて困難であり、これを強行すれば争乱を招くとし、天皇の意思を重ねて確認し、審議熟考した上で行動すべきだと主張したそうです。結局、「君臣共に楠公湊川の挙に倣い、利害得失の如きは之を度外に措くべきである」(『維新史』)という意見が通り、破約攘夷で藩論がまとまったのだとか・・・。(逡巡していては薩摩藩に哄笑されるという意見もあったとか・・・)

関連:■テーマ別「長井雅楽」■開国開城「文1:長州の国政進出:航海遠略策」 「開国開城-文2:長州藩論一転・破約攘夷へ」
参考:『徳川慶喜公伝』2、『維新史』三(2002.8.1)

前へ   次へ

8月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ