「今日」文久3年6月27日−容保に東下を望まない密勅 −長州藩、幕府の外国船砲撃詰問に返答

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文久3年6月27日(1863.8.11)
【京】容保、東下を望まない密勅を受け取る
【京】因幡藩主池田慶徳入京
【】長州藩、幕府の外国船砲撃詰問に返答

■急進派の容保東下運動
【京】文久3年6月27日、守護職松平容保は、近衛忠煕前関白を通して、先に出た東下を命ずる沙汰は真勅ではなく、東下は望まないとの宸翰(密勅)を受取りました

密勅の概容は以下の通り。
(朝廷が)今日、その方を召し、関東の事情を検知し、(攘夷実行についての)大樹の処置の勘咎を見極めるため、使者として下向申し付けたとのことである。攘夷の次第の尋問は理由があることだが、この時節、守護職のその方が使いとして下向することは朕は好まない。しかし、当節の風として(朝廷の)役人ならびに堂上はその主張を言い張り、愚昧の朕が言い出しても詮無く、彼らの言うとおりになってしまった。(東下の勅は)厳重な沙汰の様だが、実勅ではないので、左様承知し、その方の下向諒承の可否は、その存分に任せて返答するように。決して下向を強いて申し渡す所存ではない。

ただし、(朕が)このようなことを申したと知れば、各々蜂起(=大騒動)するだろうから、適切にはからうように。

六月秘々
(出所:『会津松平家譜』所収の建白書を口語訳はヒロ)

この日、近衛邸を訪ねた藩士小野権之丞を前関白が召し出し、「昨日(ママ)関東下向の御沙汰は真の叡慮にあらず、主上には深く御依頼思召さるゝにより、関東下向無用たるべし」と密勅(宸翰)を下しました。

密勅を受け取った会津藩は「感泣」し、叡慮に従って、東下を固辞し、使者は禁裏附武士か町奉行に命じるよう願い出ました
守護職は重大な職であり、京都を墳墓の地と定めて勤めております。この度、長州が外夷と戦端を開いたからには、外夷が大坂に攻め入るかもしれず、京都守護職にありながら、簾穀を離れることは武門として固くすべきではありません。使者の件は禁裏附武家か町奉行に申しつけ、家臣をそえて関東に下向させ、後見職と老中に上京して説明するよういたしますので、(攘夷をまだ行わないことに関する将軍への譴責は)暫くご猶予ください。攘夷の件は叡慮が貫徹するよう周旋いたしますが、水戸中納言(徳川慶篤)、小笠原図書頭、一橋中納言(慶喜)も叡慮が貫徹するよう務めたはずで、それが功を奏さないのはきっとやむをえぬ事情があるに違いなく、私が下向したとしても、功を奏する見込みはございません。万一、風説どおり、関東下向中に外夷が大坂へ迫ることがあれば、恐懼のいたりですので、京都守護の要である当職が一日も京都を離れるべきでないことはさきほど申上げたとおりです。
(口語訳・要約はヒロ)

●おさらい
容保東下の沙汰は6月25日に下っていました(こちら)。容保は、守護職である自分が京都を離れることはできないと、下向は他の者に命じるよう願いましたが、朝議は動きませんでした。ところが、容保東下の勅命は孝明天皇の意思とは反する一種の「偽勅」で、攘夷親征を推進する急進派公卿の三条実美らが真木和泉ら浪士と謀って、容保に東下を命じ、京都を去らせようとしたものでした(こちら)。容保の東下を望まぬ天皇は、武家伝奏に対して勅書を下して、東下の沙汰は真意ではなく、容保が固辞するなら喜ばしいことなので再命はしなこと、もし再命があれば偽勅なので天皇の真意を容保にも知らせるよう命じていました。しかし、伝奏は、真勅を容保に伝えることにより、偽勅疑惑がこれまでに出た勅にまで及び、人心が混乱することを恐れて、容保への密勅を再考するよう乞いました。伝奏を通して容保に真意を伝える手段を失った天皇は、近衛前関白(公武合体派)に対して、急進派による守護職解任の動きを警戒し、会津の軍事力を頼みとする真意を伝える内書を下すとともに、伝奏が手渡す筈だった容保への密勅を授けていました(こちら)

<ヒロ>
会津対長州(&尊攘急進派浪士)の対立構造はよく知られていますが、実は朝廷内部も、天皇と門閥貴族からなる公武合体派(近衛前関白、中川宮ら少数)、非門閥の急進派(三条実美をはじめとする国事参政・寄人ら)に分かれて権力闘争を行っていました。また、天皇・公武合体派と急進派の対立は、朝政保守派(天皇と関白らを中心とする朝議)と改革派(非門閥の貴族も参加可能な朝議)の対立とも重なっていました。孝明天皇は急進派に左右されて我が意にならない朝廷政治に不満を感じており、これがのちに8.18政変を可能にしたのでした。

*密勅降下は29日(『京都守護職始末』・『会津松平家譜』)説もありますが、容保に代わる使者小栗正寧の東下日が28日であることから、27日以前であると判断しました。『七年史』・『会津藩庁記録』では26日の条に記されていますが、『維新史料綱要』では近衛前関白が天皇の内旨を伝えて東下を止めさせたのが27日とされていることから、ここでは仮に27日の出来事としています。

<管理人の疑問>
天皇の側にいて逆鱗に何度も触れている急進派公卿は、天皇の真意がどこにあるか知っていたはずですが、背後にいた長州や浪士は、なぜ、天皇の真意を知りえなかったんだろうって、いつも疑問に思います。急進派公卿にうまく言いくるめられていたのか、信じたいこと=真実だと思いこんでいたのか、天皇は会津にそそのかされて間違った判断をしていると思い込んでいたのか、実は天皇の真意を知りながら曲げようとしていたのか・・・誰かご教示くださいませ〜。

関連:■テーマ別文久3「守護職会津藩の孤立と職権確立
<参考>『京都守護職始末』・『七年史』一・『徳川慶喜公伝』2、『会津藩庁記録』三p487-489(2001.8.11)

■因幡藩・水戸藩
【京】文久3年6月27日、因幡藩主池田慶徳が入京しました。堀川筋の本国寺を本陣として滞在しました。(『贈従一位池田慶徳公御伝記』一)

同日、水戸藩家老大場一真斎着京。

■長州藩の攘夷戦争
文久3年6月27日、長州藩は外国船砲撃に対する幕府の詰問へ抗弁しました。

長州藩の抗弁の大意は以下のとおりです。
<外国船砲撃に関して叡感斜めからず(=天皇が喜んでいる)と沙汰受け、皇国攘夷に粉骨砕身しているときに、幕府のこのような詰問は朝廷の意思と齟齬し、疑惑を生ぜざるをえない。元来、国辱とは外国から皇国の正気の衰弱を見込まれることであり、勝敗のみで栄辱を分けるべきではない。幕府は全国の人々の正気を振起して、叡慮を遵奉するような処置を命じるべきである>(『徳川慶喜公伝』の『防長回天史』引用部分より意訳)

関連:■開国開城:「長州藩の攘夷戦争■テーマ別文久3年:「長州藩の攘夷戦争
<参考>『徳川慶喜公伝』2(2001.8.11)

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