8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ
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■急進派の容保東下運動 【京】文久3年6月27日、守護職松平容保は、近衛忠煕前関白を通して、先に出た東下を命ずる沙汰は真勅ではなく、東下は望まないとの宸翰(密勅)を受取りました。 密勅の概容は以下の通り。
この日、近衛邸を訪ねた藩士小野権之丞を前関白が召し出し、「昨日(ママ)関東下向の御沙汰は真の叡慮にあらず、主上には深く御依頼思召さるゝにより、関東下向無用たるべし」と密勅(宸翰)を下しました。 密勅を受け取った会津藩は「感泣」し、叡慮に従って、東下を固辞し、使者は禁裏附武士か町奉行に命じるよう願い出ました。
●おさらい 容保東下の沙汰は6月25日に下っていました(こちら)。容保は、守護職である自分が京都を離れることはできないと、下向は他の者に命じるよう願いましたが、朝議は動きませんでした。ところが、容保東下の勅命は孝明天皇の意思とは反する一種の「偽勅」で、攘夷親征を推進する急進派公卿の三条実美らが真木和泉ら浪士と謀って、容保に東下を命じ、京都を去らせようとしたものでした(こちら)。容保の東下を望まぬ天皇は、武家伝奏に対して勅書を下して、東下の沙汰は真意ではなく、容保が固辞するなら喜ばしいことなので再命はしなこと、もし再命があれば偽勅なので天皇の真意を容保にも知らせるよう命じていました。しかし、伝奏は、真勅を容保に伝えることにより、偽勅疑惑がこれまでに出た勅にまで及び、人心が混乱することを恐れて、容保への密勅を再考するよう乞いました。伝奏を通して容保に真意を伝える手段を失った天皇は、近衛前関白(公武合体派)に対して、急進派による守護職解任の動きを警戒し、会津の軍事力を頼みとする真意を伝える内書を下すとともに、伝奏が手渡す筈だった容保への密勅を授けていました(こちら)。 <ヒロ> 会津対長州(&尊攘急進派浪士)の対立構造はよく知られていますが、実は朝廷内部も、天皇と門閥貴族からなる公武合体派(近衛前関白、中川宮ら少数)、非門閥の急進派(三条実美をはじめとする国事参政・寄人ら)に分かれて権力闘争を行っていました。また、天皇・公武合体派と急進派の対立は、朝政保守派(天皇と関白らを中心とする朝議)と改革派(非門閥の貴族も参加可能な朝議)の対立とも重なっていました。孝明天皇は急進派に左右されて我が意にならない朝廷政治に不満を感じており、これがのちに8.18政変を可能にしたのでした。 *密勅降下は29日(『京都守護職始末』・『会津松平家譜』)説もありますが、容保に代わる使者小栗正寧の東下日が28日であることから、27日以前であると判断しました。『七年史』・『会津藩庁記録』では26日の条に記されていますが、『維新史料綱要』では近衛前関白が天皇の内旨を伝えて東下を止めさせたのが27日とされていることから、ここでは仮に27日の出来事としています。 <管理人の疑問> 天皇の側にいて逆鱗に何度も触れている急進派公卿は、天皇の真意がどこにあるか知っていたはずですが、背後にいた長州や浪士は、なぜ、天皇の真意を知りえなかったんだろうって、いつも疑問に思います。急進派公卿にうまく言いくるめられていたのか、信じたいこと=真実だと思いこんでいたのか、天皇は会津にそそのかされて間違った判断をしていると思い込んでいたのか、実は天皇の真意を知りながら曲げようとしていたのか・・・誰かご教示くださいませ〜。 関連:■テーマ別文久3「守護職会津藩の孤立と職権確立」 <参考>『京都守護職始末』・『七年史』一・『徳川慶喜公伝』2、『会津藩庁記録』三p487-489(2001.8.11) ■因幡藩・水戸藩 【京】文久3年6月27日、因幡藩主池田慶徳が入京しました。堀川筋の本国寺を本陣として滞在しました。(『贈従一位池田慶徳公御伝記』一) 同日、水戸藩家老大場一真斎着京。 ■長州藩の攘夷戦争 文久3年6月27日、長州藩は外国船砲撃に対する幕府の詰問へ抗弁しました。 長州藩の抗弁の大意は以下のとおりです。 <外国船砲撃に関して叡感斜めからず(=天皇が喜んでいる)と沙汰受け、皇国攘夷に粉骨砕身しているときに、幕府のこのような詰問は朝廷の意思と齟齬し、疑惑を生ぜざるをえない。元来、国辱とは外国から皇国の正気の衰弱を見込まれることであり、勝敗のみで栄辱を分けるべきではない。幕府は全国の人々の正気を振起して、叡慮を遵奉するような処置を命じるべきである>(『徳川慶喜公伝』の『防長回天史』引用部分より意訳) 関連:■開国開城:「長州藩の攘夷戦争■テーマ別文久3年:「長州藩の攘夷戦争」 <参考>『徳川慶喜公伝』2(2001.8.11) |
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