8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年7月1日(1863.8.14):
【京】前関白近衛忠熙・忠房、久光召命密勅の返答を督促・上京を促す
【京】前関白父子、久光召命を建白
【江】幕府、大坂城代に小笠原長行らの江戸送還を命じる

■久光召命
京】文久3年7月1日、攘夷親征論の高まりに危機感を感じる近衛前関白父子は、久光に召命密勅(5月30日)への返答を督促し、上京を促しました

同日付、久光宛近衛前関白父子書簡の概容は以下の通り(箇条書きは管理人)
本多弥右衛門の下国後(注:薩摩藩留守居。5月30日の久光召命密勅こちらを携えて退京。6月9日帰国)、未だなんの返答も承らず、不安である。どのような様子か?御登京の件、近頃にいたっては「是非々々」お待ちするばかりである。誠に切迫した容易ならぬ形勢で痛心の限りである。
別紙の通り、久留米水天宮神主牧和泉守(=真木和泉)とか申す者が(攘夷親征の)建白をし、「議奏・参政」らは「専心推」している。主上が「御承引」されぬ御様子なので、(議奏・参政らは)「弥(いよいよ)強情」になり、「叡慮ヲ押」え、突然実行する「計略」につき、心配致している。
三条ら参政は、毎度毎度、二条右府公・徳大時内府公・下官(=忠房)等へ「責付」け、(攘夷親征)が実行されるよう取り計らえと、日々入来して「責付」ける。忠煕・中川宮等は「薩へ洩し候とて大に忌」む様子だが、無視しては却って都合が悪いと、全く無視することもない。
そもそも親征は「不存寄大変」で、それも、「列国一和」して親征となればともかく、方今の形勢では、天子自ら親征されても成功はなく、「実ニ不容易大変」ことだと、右府公・忠煕・中川宮・内府公・下官等は存じる。それゆえ、かれこれ申したが、三条ら参政はなかなか採用せず、「何レ押付親征」になる運びかと、痛心無涯だ。まず最初は石清水、それから大坂城へ還幸するとのこと、「大変至極之事」である。
「天下之安危此時ニ差迫」り、其許の御上京の件は、分けて分けてまお待ちしている。

【京】文久3年7月1日、近衛前関白父子は、島津久光召命を建白しました。(近衛前関白父子が久光に建白について知らせるのは7月9日)

建白の概容は以下の通り(箇条書きは管理人)
島津三郎は、当春上京しましたが、自国海岸の武備を急務として俄かに帰国し、未だ、再上京しておりません。方今、時勢が段々と切迫していますので、自国の警備は修理大夫(=藩主島津茂久)に任せ置き、三郎は「速ニ上京」し、在京「誠忠之諸藩」と協力して宸襟を安んぜよと御沙汰あらせられますよう願い奉ります。
近頃、「薩藩御不審之事状」もありますところ、この願いは深く恐れ入りますが、「方今切迫之時勢」ですので、何分、三郎に「急速上京」し、「輦下励勤」するよう御沙汰あらせられますよう、伏して願い奉ります。
本文には、当春上京の続きで三郎と認めましたが、修理大夫・三郎のうち、どちらかを召されますよう願い奉ります。三郎を召されれば、「尚更」と存じ奉ります。

<ヒロ>
6月28日、鹿児島には英国艦隊が来航しており、7月2日には薩英戦争が勃発。久光はますます動くに動けない状況です。。。

参考:『玉里島津家史料』ニp354(2012/4/19)

■老中格小笠原長行の率兵上京
【江】文久3年7月1日、幕府は大坂城代松平伊豆守に小笠原長行ら謹慎者の江戸送還を命じました
(小笠原らの出港は7月10日)

参考:『続再夢紀事』二(2003.7.24)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 「将軍東帰と京都守護職会津藩の孤立」■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京
その他
【京】三条実美、真木和泉に親兵番所等を相談。(『遺文』p599)


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