8月の「今日」 幕末日誌文久3 事件:開国〜開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年7月2日(1863.8.15) 
【江】老中、容保に慶喜の意見書・辞表を朝廷が許可せぬよう周旋依頼
【京】薩藩吉井幸輔・奈良原孝五郎、越藩村田巳三郎(氏寿)に
急進派を退けるべきと主張

【鹿】薩英戦争
【江】壬生浪士、石塚岩雄を梟首

■慶喜の後見職辞任問題
【江】文久3年7月2日、老中酒井忠績・松平信義・水野忠精・井上正直は連署の書を、京都守護職松平容保に送り、薩長に関する外交情勢を伝えて、一橋慶喜の辞表を朝廷が許可せぬよう周旋を依頼しました。

(大意)
  • 長州:長州の外国船砲撃は無謀であり、仏との戦争は国辱。四国艦隊が長州に向かって交渉する話もでているが、仏国は、まず政府(幕府)にまかせ、幕府の処置が因循となれば、そのとき四国艦隊が直接長州と交渉し、長州の対応次第では戦端を開くと主張。幕府としても評議が一定せず、心痛。
  • 薩摩:英国は薩摩と生麦事件償金支払いを直接交渉するつもりで、幕府の役人の英国船同乗を要求してきた。幕府は役人の同乗拒絶もちろん、直接交渉もやめさせようと説得したが、英国艦は無理に出帆した。戦争になれば皇国にも島津家のためにもならない。一橋殿は、薩摩藩江戸家老の喜入摂津に言い含めて帰国させたので、穏便な解決ができるよう祈っている。
  • 一橋殿は長州には相当の処置をし、命令に違背すれば「手を下され候(征討?)」との決意だったが、幕府は長州支族岩国藩主吉川監物と長州家老を江戸に召喚することにした。
  • 一橋殿が京都に差し出した辞表について、将軍はじめ幕府一同心配している。朝廷が裁可しないよう周旋願う。
<ヒロ>
慶喜は6月24日に3度目の辞表を提出していました。今回は薩長処分に関して自分の意見が容れられないことが理由でした。慶喜は薩長と外国の直接交渉に反対でしたが、幕府これを容れずに英国が薩摩に直接交渉に向かうことを了解したことが、後見職とは名ばかりで実がないと、辞表を提出しとしています(こちら)。一方、老中は、容保への書簡で、幕府は軍艦まで出して英国艦を止めようとしたが無理に出帆したとしており、話は食い違っています。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「慶喜辞任問題
参考:『七年史』一、『徳川慶喜公伝』2(2001.8.15)

■越前藩の挙藩上京計画
【京】文久3年7月2日、薩摩藩士吉井幸輔・奈良原繁(幸五郎)は、越前藩村田氏寿(巳三郎)に対し、越前・会津・加賀藩で密かに進める急進派「退治」への協力を申し出ました

<最近密かに聞くところによると、貴藩は加賀藩・会津藩にご相談あって、「暴論過激の徒を退治」しようと計画されているとか。薩摩藩の兵士は目下在京の者が約100人。いよいよ計画実行の際は、必ず決死で応じましょう>

吉井・奈良原はこの話を伏見あたりで聞いたとのことでしたが、村田は「未たさる企なし」と告げました。

両名は、さらに、近衛前関白らが天皇に攘夷親征(大和行幸)反対を上申する計画があり、同意見の天皇も賛成するだろうこと、それでもなお天皇の決定に反対する「暴激之徒」は朝敵として直ちに討伐すべきだと主張しました。

<近衛前関白殿・二条殿・徳大寺殿・近衛左大将殿には、攘夷親征としての大和行幸を痛く非とされています。今日、お集まりになって決議の上、一応鷹司殿に相談し、鷹司殿が同意なら一同に加え、不同意なら四公だけで叡慮を伺われるそうです。叡慮は近衛前公らの御意見と御同様だそうですので、お伺いとなれば御嘉納になること必然ですが、「暴激の徒」はあるいは承服しないでしょう。しかし、叡慮がすでに確定した上で尚強いて事を遂げようするならば、(暴激の徒は)即ち朝敵です。よって「直にこれを討伐し少かも猶豫すへきにはあらす」。尹宮(=中川宮)は過日先鋒を願われたので、今回は加わらず、四公で主張されることになったそうです>

吉井・奈良原は、また、守護職会津藩主松平容保の東下中止には、近衛前関白を通した孝明天皇の働きかけがあったことを明かしました。
<過日、会候の東下を止められることになったのは、主上が近衛前公を通して内々の宸翰を賜り、何とかして会津から御断り申し上げるようにと命じられたからだと聞きました(こちらこちら

<ヒロ>
越前・加賀・会津連合による政変計画の噂の出所の大本は、越前藩が挙藩上京で、薩摩藩とともに連携しようとしている肥後藩ではないかと思います(真木和泉の日記の6月26日の条に「宮鼎之儀により、三条公に謁し、越前出兵之事を議」とあり、7月2日の条には「三条往。久坂、轟、宮に会し越を拒之策を献ず」(三条=三条実美、宮鼎・宮=肥後藩士宮部鼎蔵、久坂=長州藩士久坂玄瑞、轟=肥後藩士轟武兵衛)と記されている)。越前藩の挙藩上京は、(1)外国公使を交えた朝幕要人の京都会議による「至当条理」に帰する開国鎖国の国是決定、(2)朝廷の裁断の権・賢明諸侯の大政参加・幕臣以外に列藩からの諸有司選抜、を目的とするもので、急進派追放は視野に入っていませんが、噂が広まる段階で尾ひれがついたようです。また、加賀藩については、越前藩は、4月に、鎖港交渉が不調に終わって、万一外国船が摂海侵入した時には、挙藩上京して京都を守衛し、さらにニ・三の大藩と連携して「皇国萬安の国是」確立の建議を・周旋する方針を固めた際に、近隣の加賀藩・小浜藩に使者を送ったことがありました(こちら)。そのへんの話が漏れたのかもしれません。会津藩については、越前藩が連携をもちかけたことはありませんが、急進派の敵視・警戒の対象なので、結びつけられたのでしょうか。

村田が、去る6月12日に、高崎左太郎・吉井に挙藩上京の藩論を入説した際には、両者は時機を待つように助言しました。しかし、越前藩が加賀藩・会津藩と組んで政変を起こすとの噂をききつ、薩摩藩が見限られたのかと焦り、久光の許可を得ることなく、村田に協力を申し出たのではないかと思います。村田が政変について「未たさる企なし」と答えているあたりは、今後の含みをもたせているようにも思えます。その後、奈良原・吉井が、急進派が親征不可の叡慮を無視して、親征を強行する際には、直ぐに朝敵として討伐すべきだといっているところも興味深いと思います。場合によっては、久光の上京どころか久光の許可なしでも、越前藩と組んで政変を実行したいといっているようなものだからです。そして、実際、攘夷親征が強行されようとする中、奈良原らは、久光の上京を待たずに、8.18の政変を起こします。ただし、その連合相手は越前藩ではなく会津藩でしたが・・・。

奈良原・吉井は、また、村田に対し、容保の東下中止には孝明天皇の働きかけがあったという裏面の事情を知らせていますが、これはその仲介役となった近衛前関白から直接聞いたのだと思います。奈良原らが、予め、容保が孝明天皇から頼りにされていることを知っていたことは、会津藩を連合相手として選んだ大きな理由の一つだと思います。

●おさらい
○越前側の事情
越前藩では、6月1日に、「身を捨て家を捨て国を捨る」覚悟で挙藩上京して(1)各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること、(2)朝廷が裁断の権を主宰し、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めることを決めましたが(こちら)、4日には慎重論を説く中根雪江の意見を容れたかたちで、京都に藩士を送り、その報告をもとに進発日を決めることにしました(こちら)

○薩摩側の事情
一方、久光退京後の薩摩藩は、5月20日の朔平門外の変(姉小路公知殺害事件こちら)で疑惑をもたれ、厳しい立場に立たされていました。25日には姉小路暗殺犯として田中新兵衛が逮捕され(こちら)、翌26日には自刃しました(こちら)。尊攘急進派は薩摩藩の責任だと主張し、薩摩藩は御所警備を罷免され、九門内往来を禁じられました(こちら)。この頃、急進派は「増長」して、天皇の「真実之御趣意」は「不貫徹」という状況にあり、近衛前関白父子は、26日、久光に書を送り、事件は薩摩を嫌い、貶めたい者の仕業だとの認識を伝えるとともに、上京を促しました(こちらこちら)。このような状況下、5月30日、孝明天皇は久光に対し、「急速上京」して、天皇の存意を「中妨」し、「偽勅」を出す「姦人(=三条実美ら)掃除)」をせよとの密勅を、中川宮・近衛前関白を介して下しました(こちら)。密勅を渡された留守居本田弥右衛門(親雄)は、京を発ち、鹿児島に向かいました(6月9日到着。しかし、この頃、生麦事件償金支払を薩摩に迫るため、英国艦隊が鹿児島に来航する可能性が高まっており、久光は動くことができませんでした。英国艦隊は、6月末、鹿児島に到着し、7月2日には薩英戦争が勃発しました。

○越前&薩摩の提携
6月6日、越前藩監察村田氏寿ら挙藩上京派が入京し、12日薩摩藩士高崎左太郎(正風)・吉井幸輔に藩論を説きました。高崎・吉井は同意したものの、時機を待つよう助言しました(こちら)。翌13日には、肥後藩沼田勘解由に越前藩の計画を伝え、藩主細川慶訓の弟・長岡良之助(護美)の上京を促しました。沼田は個人としては同意しましたが、藩として動くには、春嶽が藩主に直書を送って説得することが必要だとの認識をしめしました(こちら)。越前藩は薩摩・肥後に使者を送って同時上京を促す方針を固め、21日、村田は在京薩摩・肥後両藩に使者の領内支障がないよう協力を依頼しました(こちら)

○京都の事情
この間、京都では尊攘急進派がますます勢力を伸ばしました。6月9日には、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂(こちら)し、13日に大坂を出港(こちら)したため、在京の幕府要人は、守護職(会津藩)・所司代(桑名藩)・老中(淀藩)だけとなりました。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征は一気に具体化しました(こちら)。

参考:『続再夢紀事』ニp65-66、『真木和泉遺文』p599(2004.9.20, 2013.1.31)
関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別:「大和行幸と禁門の政変」「越前藩の挙藩上京(クーデター)計画」「島津久光召命」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

■薩英戦争
【鹿】文久3年7月2日、薩英戦争が勃発しました

英国は前年の生麦事件の下手人引渡しと償金支払いを幕府と薩摩に求めていました。5月、幕府は、老中格小笠原長行の決断で償金を支払いましたが、英国は、次に薩摩と直接交渉するため、6月28日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させました。交渉が行き詰まる中、7月2日、英国艦が薩摩藩船を拿捕したのがきっかけとなって薩摩藩が砲撃を開始し、戦端が開かれました。損傷を受けた英国艦隊は、同月4日に鹿児島湾を去りました。その後の薩英間の交渉で、11月1日、薩摩藩は償金を支払いましたが、英国からは軍艦の購入を果たしました。

関連:■開国開城:「薩英戦争」■テーマ別: ■薩摩藩日誌文久3
参考:『七年史』一、『徳川慶喜公伝』2(2001.8.15)

【坂】文久3年7月2日、壬生浪士を偽称する浪人、石塚岩雄が大阪の天神橋において梟首されました

斬奸状の内容は次のとおりです。(口語訳・要約はヒロ)

この者は尽忠報国の浪士という義名をもちいて攘夷のために諸国の有志に軍用金がいると偽りを言い、金持ちに金策を申しこんで市中を動揺させ、その金で酒興や女遊びにうつつをぬかした罪は許されないので、天下義士が梟首するものである。(「官武通紀」)

これについては、石塚という浪人が道頓堀の升市という旅館に宿泊していたところ、佐々木という大阪在住の壬生浪士が2〜3人やってきて石塚を捕縛し、八軒屋(壬生浪士の定宿)に連れ帰って(殺害し)、梟首したという話も残っています。(『見聞書』)

<ヒロ>
壬生浪士を自称する浪人のおしがきいたということは、壬生浪士も同じように豪商からの金策・酒興や女遊びをやって、すでに大阪市中でいやがられていたということの証明だと思います。(これを芹沢一派のせいにする人もいますが、新選組は芹沢の死後も押し借りを続けています)。また新選組も尊攘派過激浪士同様、自分たちの邪魔ものを天誅していたことがよくわかるのではないでしょうか。

また、山南敬介ら3名が岩木升屋に乱入した浪士を討ちとって刀が折れたので会津侯から報奨金を8両もらったという時期不明の話があり(「異聞録」)、升市と升屋が似ていることから、この事件ではないかと推測する人もいます。この時期のNO2の山南が偽浪士天誅にわざわざ京都から出向いたのだとしたら、たいしたものだと思うし、山南ではなく佐々木という隊士の名前が記録されているというのも不思議な気はしますが、升市=升屋でなかったともいいきれないと思います。

参考:『官武通紀・桜田騒動記』、『新選組余話』、『新選組日誌上』(2001.8.15)

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