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文久3年5月30日(1863.7.15):
【京】朝廷、老中に将軍東帰の暇内定を伝達/
将軍、容保に滞京・京都守護を内命。会津、将軍東帰に反対。/
【京】孝明天皇、薩摩藩国父島津久光に上京・「姦人掃除」の密勅。
【長】真木和泉、藩主敬親に謁し、時務策を進言/
【横】仏艦タンクレード号、長州への報復のために出航。

■将軍東帰問題
【京】文久3年5月30日、 朝廷は、老中に来月3日をもって将軍東帰の暇を与えるとの内定を伝達しました

朝廷は、前29日に将軍東帰を許可することを内定していました。しかし、これは将軍滞留を望む孝明天皇の意に反するものでした(こちら)

参考:『維新史』三(2004.7.15)

■島津久光召命
【京】文久3年5月30日、孝明天皇は薩摩藩国父島津久光に対し、急速上京して、天皇の存意を「中妨」し、「偽勅」を出す「姦人(=三条実美ら)掃除)」をせよとの密勅を下しました

天皇は、前29日、急進派の妨害で将軍滞京の意が通らず、東帰が内定したことに、「予力無らん無らん」と悲嘆して、近衛前関白に宸翰を下して将軍滞京周旋を依頼するとともに、<何分薩人も禁制になり、甚だ難しい状況になった。こうなれば三郎に「一奮発を期」するしかない>との決意を示していました(こちら)

密勅の概容は以下の通り(箇条書きは管理人)
「攘夷之存意ハ聊」も通らず、今まさに「天下治乱之堺」に移ろうとしている。
このたびの「大樹帰府之儀」についても、「不許」を主張したが、「朕存意ハ少」しも「貫徹」せず、既に帰府が決定した。(こちら)
朝廷においても「存分更ニ不貫徹」である。全く「下威盛ニ中途之執計已ニ而、偽勅之申出(=下の者が増長して、自分の存意を途中で妨害し、偽勅を出す)」ので、「有名無実之在位」となり、「朝威」が立たず、至極悲嘆している。
表面は「誠忠」を唱えるが内心は「姦計」を抱く、「天下之乱ヲ好候輩」ばかりである。
三郎(=久光)は「急速上京」して尾張前亜相(=前尾張藩主徳川慶勝。守護職松平容保の実兄。当時将軍輔翼の任にあった)と協力して、「中妨(=中途の妨害)」を排し、「皇国」のために尽力し、まず内治を整えよ。昨年(久光が)上京時の「言上筋」が「一廉」も実現せぬのは、全く「姦人之策」である。ここで「姦人掃除」をせねば「不治」と存じる。「早々上京」して「始終朕ト申合真実合体ニテ」、(自分の存意と)寸分違うことなく周旋せよ。
上京後の周旋については、依頼したい事もあるので、速やかに承知・周旋することを前もって頼み置く

同日付近衛前関白の書簡の概容は以下の通り(箇条書きは管理人)
時勢は段々切迫し、「天下治乱之堺」となり、非常に「苦心」している。朝廷も実に恐入る形勢、幕も「以之外之次第」で、どうなるかと痛心の至りである。
(天皇も)段々叡慮を悩まされ、中川宮・忠煕へ勅書を内々に賜った。このまま御伝えして(遵奉を)申し入れるようとの御沙汰もあり、中川宮より御伝えになるので、御拝見の上、「急速御上京」をされ、叡慮を安んじられたい。委細は本田弥右衛門(=薩摩藩留守居・本田親雄)に言い含めて下向させるので、御聞取りいただきたい。

同日付中川宮の書簡の概容は以下の通り
「御内勅書」を本田弥右衛門に渡した。この御趣意を速やかに遵奉されるよう、自分からも分けて申し入れる。

(以上、『玉里島津家史料』二p293-294より作成。素人なので資料として使わないでね)

<ヒロ>
薩摩藩への風当たりが強まる中での勅書でした。

5月25日には姉小路公知暗殺犯として田中新兵衛が逮捕され(こちら)、翌26日には自刃しました(こちら)。この頃、急進派は「増長」して、天皇の「真実之御趣意」は「不貫徹」という状況にあり、近衛前関白父子は、26日、久光に書を送り、事件は薩摩を嫌い、貶めたい者の仕業だとの認識を伝えるとともに、上京を促しました(こちらこちら)このような状況下、薩摩藩留守居本田弥右衛門(親雄)らが近衛前関白や中川宮に働きかけて奏下したものだといいます。(なお、近衛前関白父子は、26日、27日に相次いで久光に書を送り、事件は薩摩を嫌い、貶めたい者の仕業だとの認識を伝えるとともに、上京を促していますこちらこちら)。

文中の「姦人」とは、長州藩と結んだ朝廷内の急進派、三条実美らのことを指しています。孝明天皇は、門閥の低い公卿が過激な言動を繰り返し、自分の意思が「貫徹」せず、「偽勅」まで出る現状にかなりストレスを感じており、薩摩藩などの武力をたのんだ朝廷クーデターにより急進派を一掃しようと考えていたようです。

実は孝明天皇は4月にも中川宮に久光を上京させよとの密勅を下していました(「血気の堂上、このままにては万事我が意に募りて、朕も関白も共に権を失ふべし。この上は宮の智謀により薩州を召し、一致して暴論の堂上を開眼せしめたし、この改革成らずんば国乱の基とならん。このへん篤と密計ありたし」)。このとき、中川宮は現在(朝議を左右する)三条実美らになにをいっても無益なので、時節をみるべきで、島津久光の召還については熟考しようと答えたそうです。⇒こちら

孝明天皇は時節をみているうちに、急進派がますます力をのばし、姉小路暗殺事件でいよいよ薩摩藩が窮地にたち、・このままでは朝廷改革どころではないと危機感をいだいたのではないでしょうか。意と反して将軍東帰が内定したことも、心細さに拍車をかけたかもしれません。

密勅を託された本田は、6月9日に鹿児島に到着します。しかし、このとき、生麦事件償金支払を薩摩に迫るため、英国艦隊が鹿児島に来航する可能性が高まっており、久光は動くことができませんでした・・・・・・。

参考:『徳川慶喜公伝』2・『七年史』一・『京都守護職始末』(2000.7.14) 『玉里島津家史料』二(2012/4/19)
関連:■テーマ別文久3年:「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)」「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変■薩摩藩日誌文久3

【京】同日、老中水野忠精は、将軍東帰内定にともない、守護職松平容保に滞京・京都守護の内命を伝えました。

会津藩家老横山主税らは、改めて将軍東帰に反対しました

今度、将軍様の御東下に伴う、肥後守への滞京・(朝廷)守護の御沙汰につき、愚考したところ、止むを得ぬ事とはいいながら、将軍様の御東下には天下の興廃がかかっているので、深く御勘考なさらねばならぬ儀だと存じる。
攘夷の儀は勅書にも書かれており、将軍様も親しく天前でお伺いになったときく。しかし、攘夷期限は追々延引され、水戸中納言様(=徳川)御下向、次いで一橋中納言様(=慶喜)が「全権御委任」で御下りになったというのに「不行届」では、朝廷に対して申し訳ないことである。それなのに違勅という御沙汰がないのは、必竟、「御年若の将軍様」が滞京され、(天皇に)「御親接」されているので、将軍様の御胸中は御明白、「御不行届」の責任は御役人方に帰すからだと存じる。
もし、将軍様が離京されれば、「万事隔絶」し、東西の事情が通じず、互いに疑惑を生じ、風説区々なる中に、讒妄の徒が入り込むことは自然の勢いである。そこに万一関東に於て、攘夷が「御不行届」になれば、「東西隔絶」して、御逆鱗の上、違勅の詔を下されることにもなろう。そうなれば、どのように対処されるのか。肥後守が幾程微力を尽し、(将軍の)御為を謀っても、進退が行き当ることは目に見えている。必竟、(将軍の)御在京を、毎々申し上げるのもそういう訳なのである、
もし、止むを得ず御東下になり、攘夷の件を「断然御処置」されるなら「宜敷候」が、現在、御東下と御滞京との理非を諭し、き下の御方々を御鎮め遊ばされ候事も、行き届かぬようでは、「断然拒絶之御取計」は、憚りながら覚束ないと存じる。もし、そうであれば、違勅の御沙汰が下されるのは目に見えている。
因て此節最早第一と存じ候義は、御滞京に御座候。若し不日に東下遊ばされ候はば、断然拒絶に御座候。此の二ヶ條にて御英断御座無く候はば、畏れながら徳川御家の御武運は、是までと思し召さるべく候。源濁りて流れ清く候事は之無き理にて、肥後守のみ滞京にて、職掌相立て候訳は万々之無く候。
此節関東表の模様共、危急切迫の由に候へ共、朝廷に対され、将軍様に於て御職掌立つと立たずとに預かり候。其の軽重の段、如何に之有るべき哉。其の得失至厚に御勘考遊ばされ候様仕りたき御義に御座候、且つ肥後守に於ても、只今迄御上洛在らせられ候御時すら、行き及ばざる儀共、恐懼罷り在り候儀に御座候へば、御東下の後不肖の主人、ここ元に罷り在り、何分公辺の御主意を奉じ、皇国の御為如何様尽力仕り候とも、百里外懸け隔て候場所と申し、行届きべき見込み必至と御座無く、御詫び申し上げ候段にも相至るべく、容易ならざる儀に御座候間、予め申し上げ奉り候。以上



」(『七年史』より。仮読み下し、改行、句読点by管理人。旧字は適宜当用漢字に直しています)

<ヒロ>
コメントは時間ぎれです・・・。

参考:『七年史』一(2004.7.15)
関連:■開国開城:「将軍東帰と京都守護職会津藩の孤立」■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京

■長州藩の攘夷戦争
【横浜】同日、 仏艦タンクレード号が、長州への報復のために横浜を出航しました。

関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別:「長州藩の攘夷戦争

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