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文久2年7月26日(1862年8月21日)
【江】会津藩と越前藩の会盟

■守護職就任へ
【江】文久3年7月26日、越前藩士中根雪江(靱負)を会津藩士秋月悌次郎 らが訪問しました。秋月は、会津藩主松平容保も幕議に参与として参加する事態でもあり、家臣も交誼を結んで懇意にしたいと申し出、両側は会盟(盟約を結ぶ儀式)開催について相談しました。(「再夢紀事」)

<ヒロ>
松平容保と松平春嶽が政務参与に任命されたのは5月のことでしたが、これまで家臣同士の積極的情報交換はなかったようです。

この頃、紛糾している所司代本庄宗秀の後任として容保の名が幕議で取りざたもされ(★)、会津藩は京都政局にまきこまれつつありました。同じ政務参与から政事総裁職に就いた越前藩の動向は自藩の進退を探る上でも重要であり、いよいよ情報収集をする必要性を強く感じたゆえの訪問だったと思います。また、越前藩は所司代後任問題の鍵であり、家臣同士の交流を深めることに異論のあったはずもありません。(逆にいえば、所司代問題が浮上するまで、越前藩にとって、会津は家臣同士の緊密な連携が必要なほど重要な存在ではなかったことになるのかもしれません)。

ところで、江戸における諸藩家臣同士の定期的な情報交換システムとして留守居役組合というものがあったそうです。この留守居役組合は基本的に江戸城での席格ごとに形成されていました。会津藩は溜間詰、越前藩は大廊下間詰であり、親戚関係もなかったので、そういう情報交換の場はありませんでした。ちなみに、溜間詰諸藩には留守居役組合がなかったそうで(決められた日に登城して始終顔を合わせているので)、そもそも会津藩は留守居役組合とは無縁でした。

秋月悌次郎はのちに禁門の政変(8.18政変)の立役者となる会津藩士で、家老横山常徳(主税)や(のちの筆頭公用人。当時留守居役?)野村左兵衛に登用された人物です。このときの訪問も横山や野村の指示があったのか(あるいは承諾のもと行われたのか)・・・秋月と中根の会談は、野村と越前藩士の会談(こちら)、横山と中根の会談(こちら)へとつながっていきます。

中根靱負(雪江)は春嶽の懐刀です。中根については、福井市役所HPの「歴史のみえる町づくり」「福井市歴史人物ガイドブック」がおすすめです^^。

参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.22)
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