8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ
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■長州藩の攘夷戦争 (1)長州訊問使中根一之丞 【江】文久3年7月15日、幕府は、長州藩の外国船攻撃及び小倉藩侵攻を詰問するため、使番中根一之丞を派遣しました。 中根はこの日、幕艦朝陽丸に搭乗して下関に向かいました。 関連:■開国開城「加茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別:「長州藩の攘夷戦争」 ■長州藩日誌文久3 参考:『修訂防長回天史』(三下)(2004.9.20) ■攘夷督促 (2)攘夷督促の勅諚伝達 【江】文久3年7月15日、禁裏附小栗正寧は、攘夷督促の勅諚を伝達しました ●おさらい 当初、東下は守護職の松平に容保下っていました(こちら)。容保は、守護職である自分が京都を離れることはできないと、下向は他の者に命じるよう願いましたが、朝議は動きませんでした。ところが、容保東下の勅命は孝明天皇の意思とは反する一種の「偽勅」で、攘夷親征を推進する急進派公卿の三条実美らが真木和泉ら浪士と謀って、容保に東下を命じ、京都を去らせようとしたものでした(こちら)。容保の東下を望まぬ天皇は、武家伝奏に対して勅書を下して、東下の沙汰は真意ではなく、容保が固辞するなら喜ばしいことなので再命はしなこと、もし再命があれば偽勅なので天皇の真意を容保にも知らせるよう命じていました。しかし、伝奏は、真勅を容保に伝えることにより、偽勅疑惑がこれまでに出た勅にまで及び、人心が混乱することを恐れて、容保への密勅を再考するよう乞いました。伝奏を通して容保に真意を伝える手段を失った天皇は、近衛前関白(公武合体派)に対して、急進派による守護職解任の動きを警戒し、会津の軍事力を頼みとする真意を伝える内書を下すとともに、伝奏が手渡す筈だった容保への密勅を授けました(こちら)。これを受け取った容保/会津藩は、東下を断固固辞し、また天皇も東下の再命を拒否したことから、容保に代わって、小栗に東下が命じられました。(小栗は6月28日出京) 【京】阿波藩世子蜂須賀茂韶着京。因幡藩主池田慶徳を訪問。 |
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