8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 事件:開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年7月16日(1863.8.29)
【京】御前会議にて久光召命猶予が決定。天皇激怒。
【京】守護職松平容保、慶喜上京による攘夷委任の奏請を建議

■久光召命
(1)召命猶予の決定
【京】文久3年7月16日、御前会議において、薩摩藩国父島津久光の召命猶予が決定しました。


久光召命は7月12日に出ていましたが(こちら)、朝野の急進派はこれを非としていました。この日、御前議が開かれ、徹夜になったそうです。近衛忠煕前関白・近衛忠房権大将父子、二条斉敬右大臣、徳大寺公純内大臣以外は、久光召命に反対し、衆議によって久光召命中止が決まりました。二条右大臣が21日に会津藩公用人に語ったところによれば、関白・議奏は、久光上京の件をこのままにしておいては「群議沸騰致し、有志500人屯致居候間、右の者、如何成暴発致し、道路に血を流し候様の儀、今にも難測」と、暗に二条らに危害が及ぶことを示唆したそうです。御前会議には因幡藩主池田慶徳も出席しており、勅命に反覆があるのは朝威を損なうと進言しましたが用いられませんでした。

(2)孝明天皇の激怒
久光召命を願っていた孝明天皇は召命中止を強く迫った三条実美らに激怒し、彼らを不届者と呼び、今回限りは言うに任せるが、次に同様のことがあれば関白とともに辞職を覚悟せよとの勅諚を下したほどでした。
「毎々朕が申出候議を、押返候義、必竟綸言如汗と申て、一度出て容易に不可返者なるを、右等毎度返却に及び候と申は、其方其不行届と申者也、以之外なる義に候、若此以後たやすく勅を返すに於ては、朕に於ても位をすべる間、関白並其方共も、辞職辞表致候覚可有之候、其段承知歎、左有ば此度申旨に可任候」
(出所:『七年史』二p384-385)

*『七年史』では17日に総参内の御前会議が開かれたとされているが、御前会議に参加した慶徳の伝記及び『続再夢紀事』の日付を採用。

参考:『続再夢紀事』ニp86、『七年史』二p384-385、388(2004.9.21)、『贈従一位池田慶徳公御伝記』ニp409-410(2012.12.23)

■攘夷期限委任要請
(3)容保、幕府に慶喜上京による攘夷委任の直接上奏を建議

【京】文久3年7月16日、京都守護職松平容保は、幕府から関白に提出するようと託された攘夷期限委任奏請書について、このようなやり方は逆効果であり、後見職一橋慶喜を将軍名代・老中の一人を副として上京させ、直接上奏するよう幕府に建議しました

●おさらい
将軍家茂は、6月3日、鎖港攘夷の実行を名目に東帰を勅許されて(こちら)、同月9日に退京(こちら)、19日、約4ヶ月ぶりに江戸入城しました。しかし、26日には、<内政を整え人心一致してから攘夷を行うべきであり、攘夷期限は委任してほしい>と攘夷期限の委任を奏請するために、急使を京都に発しました(こちら)。容保が奏請書を受け取ったのは7月8日(あるいは12日)ですが、京都の事情に鑑み、奏請書提出を留めていました。

●将軍退京後の京都
京都では、孝明天皇の破約(鎖港)攘夷の意思は変わらず、また、将軍と入れ替わるように入京した真木和泉と長州藩を中心に、急速に攘夷親征論(=幕府への攘夷委任不可)が高まっており(こちら)、6月25日には将軍に対して攘夷督促の沙汰書が下されて(こちら)、急進派の工作により、その使者として危うく守護職である容保が東下させられるところでした(こちら)。28日には、容保に代って禁裏附武士小野政寧が出京。7月4日には、即時攘夷を困難だとする慶喜の後見職辞表を却下して即時攘夷を改めて求める沙汰を出しました(こちら)。さらに、7月6日には、急進派公卿(国事寄人)が連署して、幕府への攘夷委任不可及び攘夷親征の布告による人心一致を建言し(こちら)、翌7日には因幡藩主池田慶徳に布告の可否等を諮問(慶徳は書面による回答を願い出)。次いで9日、朝廷は、真木和泉を召して攘夷親征について質しました。11日には、長州藩家老益田右衛門介・根来上総が入京し(こちら)、攘夷親征の建白を行おうとしていました(18日に建白書提出)。

参考>『京都守護職始末』・『七年史』一(2001.8.29)
関連:■「守護職/会津」「事件簿文久3年

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