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文久3年7月14日(1863.8.27):
【京】攘夷親征:因幡藩主池田慶徳、攘夷親征布告の見送り
&中国・西国の要港への監察使派遣を建白
【京】久光召命:水戸藩士原市之進・梅沢孫太郎、二条斉敬右大臣に召命中止を求める

■攘夷親征
(1)池田慶徳、親征布告の見送りを建白

【京】文久3年7月14日、因幡藩主池田慶徳は、朝廷に対し、時機を得ぬ攘夷親征布告は人心を失いかねぬので見送り、代って監察使を中国・西国の要港に送るべきだと建白しました

建白書の概容は以下の通り(箇条書き&要約by管理人)
頃日参内の節、公卿方の会議中、親征の叡慮につき、どのように考えるか「参謀之命」があり、身に余る次第である。
「当節形勢切迫」とはいえ、「有公卿、有幕府、有列藩」、もし「夷賊」が近畿に進み、「辺境」を伺うことがあれば、幕府が「拒戦之術を尽す」は「勿論」である。そうでなければ、「公卿英武之諸藩」の「将略」有る者に「詔」を下して「塵戦之術」を尽くさせ、それでもなお、敗勢であれば、そのときは親王方が将となり、その上で親征となる手積りだと考える。
親征の評議は、その論は勇壮だが、未だその機会ではない。綸言汗の如し、一度布告すれば反すことはできず、「御見留」もなく「仮初」に出された詔勅が信を失えば、下々の人心は上を疑い、皇威を損なうだろう。 「匹夫之言」を用いるのは「唐虞=(中国の陶唐氏(尭)と有虞氏(舜))」のような時代のみであり、「下之言」を軽々しく用いて「国道」(=国家の政道)を誤る例も少なくはない。「何事も慎重に御処置」いただきたい。「名実」両方が立ち、「皇権」が重いときは、「天下之億兆」の誰も「王室」に従わぬものはあろうか。親征はこの上なく有難い事だが、機会を得ぬ実行は、却って「皇威」を損なうのみ。もし、此事が天下に流布し、「其実」(=親征の実)がないとなれば、「天下之億兆」の人心を失われることになろうと存じる。
親征をというほどの叡念は終始蓄えておかれ、たとえ「夷賊」が大挙乱入して騒擾となり、遷都・退京(の論?)が起ろうとも、そのときこそ鳳輦を進めて寸尺も退かれぬよう願いたい。
大樹は既に帰府し、関東において攘夷の計策は追々定まり、小栗長門守が(即今攘夷の)勅諚伝達に下向したので、必ず御請するだろう。関東の件は、まずそのまま差し置き、中国西国の緊要の諸港へ監察使を遣わして速やかに賞罪を糾せば、すなわち親征同様であり、朝威をさらに輝かすことになろう。この監察使派遣を諸藩に対して布告願いたい。
(出所:『贈従一位池田慶徳候御伝記』ニの建白書より作成)

慶徳(6月27日着京)は、7月3日の参内時に、「国事御諮詢」を仰せつかり、下問の際は腹蔵ない存意を言上せよとの沙汰を受け取っていました。次いで7月7日に参内した折、親征布告について下問を受けましたが、その際、書面で返答すると回答していました。

●おさらい:攘夷親征布告問題
文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)。尊攘急進派は障害となる容保/会津藩を京都から追い出そうとし、6月25日には容保東下の勅命が降りました(こちら)。しかし、裏面の事情を察した天皇が容保に東下を望まぬ旨の密勅を下し(こちら)、天皇の真意を知った会津藩が東下をあくまで固辞したことから(こちら)、容保の東下は沙汰やみとなりました。

公武一和による攘夷を望む孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも親征には反対でした(こちら)。 7月5日には、近衛前関白らは、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しましたが(こちら) 翌6日には急進派公卿が連署して、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言しました(こちら)。親征布告は朝議の重要課題となり、7日には、因幡藩主池田慶徳を召して攘夷親征布告等を下問し(こちら)、次いで9日には真木和泉を召し出して攘夷親征について下問しました(こちら)。 11日には、急進派公卿の後ろ盾である長州藩の家老が入京し(こちら)、親征派はさらに勢いづきました。孝明天皇や近衛前関白らは、12日、薩摩藩国父島津久光に対して召命の沙汰(表向きは親征「御用」)を出して、久光に急進派を掣肘させようとしました(こちら)。また、親征に慎重な慶徳は、異母弟の後見職一橋慶喜らに親征論が起ったことを知らせて幕府の攘夷断行を促すとともに、14日には、朝廷の下問に対し、幕府・大名が職掌を尽さぬうちの親征は時機尚早だと断じ、布告の見送りを建白しました(こちら)。相前後して、親征反対&久光召命派公卿に「天誅」等の脅迫が続きました。

●おさらい:攘夷監察使派遣
文久3年5月10日(攘夷期日)、長州藩が外国船を砲撃すると、6月1日、朝廷は攘夷期限通りに攘夷を実行したことを称揚する沙汰を下し、 次いで11日、正親町公菫を攘夷監察使に任命して、長州に派遣し、勅旨を伝えさせました(7月8日に伝達)。攘夷親征論の高まる中、急進派の建議により、朝廷は、7月11日にはさらに東園中條・四条侍従に対し、それぞれ播磨・紀伊の監察を命じました。これに対し、慶徳は、留守居の上申により、13日、監察使に勅使としての威儀を保たせるべきだと建白していました。

●因幡藩内の親征推進派
慶徳は水戸7代藩主徳川斉昭の五男で父親譲りの破約攘夷派ですが、建言にみられるように、親征には反対でした。しかし、在京家老和田那之助・留守居安達清一郎ら周旋方は尊攘急進派に近く、親征による朝威回復を望んでいました。13日、建言の草案ができ、慶徳の裁可の上、留守居山部隼太が伝奏に提出する手はずになっていましたが、これを知った周旋方は、和田に報せ、和田は山部の提出を一時差し止めたほどでした。

<ヒロ>
これより先、7月5日、慶徳は、親兵の統括責任者・三条実美の相談を受けて、御所内に親兵・有志のための武学寮創建することを建白していましたが(こちら)、この日の建言をみると、下士/浪士の政治的発言を「匹夫の言」・「下之言」と退けていて、親兵にしても、あくまでも朝廷の手足となる兵力としてとらえているようです。(御所内で寄宿して交われば、政治的行動につながることは自明だと思うのですが・・・)。攘夷親征等について自分が下問された翌日に、「匹夫」である真木和泉が下問されており、そのことに対する不快感もあったのかもしれませんね?

関連:■テーマ別「攘夷親征/大和行幸と禁門の政変」「親兵設置&御所九門・六門警備」 「因幡藩文久3後半」■開国開城「攘夷親征/大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」
参考:『贈従一位池田慶徳候御伝記』二p395, 407-409(2012.12.23)
■久光召命問題
(2)召命撤回運動
【京】文久3年7月14日、水戸藩士原市之進・梅沢孫太郎が右大臣二条斉敬邸を訪ね、久光召命を中止するよう求めました
二条右大臣は、すでに勅命が下りて2日もたっており、勅命を軽々しく撤回すべきではないと言い聞かせたそうです。

原・梅沢 島津三郎上京の件を周旋されているとのこと。如何様の次第でしょうか。三郎が上京致せば、「諸藩群議沸騰致し、忽ち内乱も」生じん形勢です。(と「大に突懸」る)
二条 薩州の事情切迫の次第もあり(=薩英戦争)、一列(=近衛前関白父子・徳大寺内大臣)で相談し、関白へ申入れたまでである。その採用の可否については殿下(=鷹司関白)へ申し入れよ。
原・梅沢 疾に申上げましたが、御殿(=二条)に申し上げよとの御沙汰があり、参殿仕りました。何卒、御沙汰止になるようお取り計らいください。
二条 既に勅命が下り、最早二日も立った。今さら致し方はない。(いったん召命とした勅命を翻すと)「余り勅命軽々敷」なる。

両名は拠無く、帰っていったそうです。

<ヒロ>
鷹司関白、たらい回しにしています・・・。

参考:『七年史』一p388(2004.9.23)

【京】同日、水戸藩梶清次衛門、肥後藩宮部鼎蔵・轟木武兵衛、因幡藩中野治平・佐善修蔵、姫路藩河合惣兵衛・伊丹源三郎、阿波藩大津伊之助・柏木半平が、連署して、(1)姉小路公知暗殺犯糾弾及び(2)薩摩藩宮門出入り解禁&久光召命の中止を上言しました。(『綱要』五p497)

薩摩藩士は6月11日に九門内往来を解禁されていました(こちら)

関連:■テーマ別「久光召命」 ■薩摩藩「事件簿文久3」日誌文久3

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