9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ

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文久3年7月24日(1863年9月6日)

【京】馬揃:備前藩主池田茂政、「幕臣会津」に備えた天覧所警護を提案
【京】馬揃:朝廷、会津藩に同月28日の天覧馬揃を命じる
【京】朝廷、因幡・備前・阿波藩に折々参内・朝議参列を命じる
【京】朝廷、因幡・備前・阿波・米沢藩に対し、紀州・播州への監察使派遣布告の諸藩伝達を命じる
【京】親征:中山忠能、野宮定功に中川宮の「暴烈」な親征主張の噂の真偽を確かめる
【長】長州訊問使中根一之丞、下関到着

■天覧馬揃え
(1)備前藩主池田茂政、「幕臣会津」に備えた天覧所警護を提案
【京】文久3年7月24日、会津藩の馬揃について因幡藩主池田慶徳から知らされた備前藩主池田茂政は、伝奏に異存ない旨を伝えるとともに、慶徳及び阿波藩世子蜂須賀茂韶に書を送り、「幕臣会津」の万一の「心得違」に備えるための天覧所警護を提案しました。


茂政の書簡の概容は以下の通り
会津中将による馬揃の際は、武臣が武装して六門内を通行することになるので、京都守衛のため上京した因幡中将と自分が、天覧処の警護にあたってはどうか。何もないとは存じるが、「幕臣会津之事故、万々一家来共心得違之無共不被申」ぬので、前文通りにしてはどうか。
なお、昨日の調練の儀(=親兵ではなく守護職に馬揃えを命じる件こちら)は、一同御異存がない様子なので、今朝、伝奏へ「願書(ママ。「請書」か)」を差し出した。
親兵調練は「何等差支之儀」があるのか、自分は「甚不審」である。調練ができぬと申すなら、非常時に親兵は出兵しなくてもよいのか。諸藩も親兵差出しの入費がかかる中、非常時に間に合わぬず、御用に立たぬようでは「何之益」にもならぬので、以後、(親兵差出を)中止すべきだ。
自分は体調不良で参内できぬので、今日の朝議は「両朝臣」で伺ってほしい。
(参考:『贈従一位池田慶徳御伝記』所収の7月24日付茂政書簡より作成)

<ヒロ>
結局、親兵の馬揃えがなぜ支障があるのかは明確にならなかったそうですが、管理人は、孝明天皇の強い意志だったと想像しています(こちら)。まさか、天皇が親兵の馬揃えに反対だとは、親兵を差し出している因幡藩等にはいえず、「差支」という曖昧な表現になったのではないでしょうか。

それにしても、備前藩主池田茂政(水戸9代藩主徳川斉昭九男)にとって、親会津は「幕臣」で、「心得違」の警戒対象なんですねえ(親藩なのに・・・)。こういうところは、かなり尊攘急進派に近いですね。会津も同じ鎖港攘夷派で攘夷親征には反対と、備前藩の主張とは似てるんですけどねえ。実兄の因幡藩主池田慶徳の方は、最初、大兵を要する会津藩を含めた諸藩の馬揃えを進言していたほどなので、さほど会津に警戒感はなかったように思えますが・・・。

なお、この頃の会津の兵力は約800名。因幡・備前・阿波の兵力は、禁門の政変出動時の人数と同じとして、合計約1,500名になり、全藩兵が出た場合は、人数的に会津を圧倒することになります。

●おさらい:馬揃え
7月19日、鷹司関白邸にて在京諸侯に攘夷親征布告の可否が諮問された際、攘夷親征に慎重な因幡藩主池田慶徳は<天皇・公卿が、大兵を擁する会津や在京諸藩の武備を見て砲撃に慣れてから、親征の可否を議するべき>だと、天覧馬揃(天皇の前での軍事調練)を進言しました(こちら)。関白が天皇に奏上したところ、天皇は因幡・備前・会津のうち二藩による馬揃の開催を命じました(こちら)。関白から内示を受けた慶徳は、21日、二藩による調練は大人数となり「混雑」するとの理由で、諸藩親兵の調練を建議しました(こちら)が、23日、伝奏は親兵の調練は「差支」があるという理由で会津一藩の馬揃を内定したことを慶徳に達しました(こちら)。慶徳は、即日、異存ない旨を返答するとともに、ともに朝廷の諮問に預かる備前藩主池田茂政(慶徳の実弟)・阿波藩世子蜂須賀茂韶(妻は慶徳の異母兄水戸藩主徳川慶篤の娘)にも異存がなければ伝奏に達するよう報せました。

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p416-417(2012.12.30)

(2)会津藩に天覧馬揃の朝命
【京】文久3年7月24日、朝廷は、伝奏を通して、会津藩主松平容保に対し、同月28日に御所建春院門前において天覧馬揃え(天皇の前での小規模軍事調練)を行うよう命じました。ただし、中小銃の空発と大砲の弾薬装備は禁じられました。

                   会津中将
来る二十八日、御祖建春院門前において、馬揃の叡覧・雨天順延の旨を仰せ出される。

馬揃が何ななのかわからなかった会津藩は使者を派遣して武家伝奏飛鳥井雅典に尋ねたところ、甲冑・武器をつけて隊列を組み、号令で隊形を変化させる小規模な軍事調練だとの回答を得ました。容保は、「人心不安」なこの時期御所の近接地において重武装で調練をすることはに好ましくないと考え、野村左兵衛を派遣して軽装による調練を願い出ましたが、天皇が非常に楽しみにしているとのことで許されませんでした。そこで調練のプログラムを作成し、伝奏の承諾をえようとしたところ、中小銃の空発と大砲の弾薬装備は禁じられました。会津藩士松坂三内が豊岡随賓(大蔵卿)を訪ねてその理由を問うと「会津の士強悍、或は勢に乗じて、実弾を発せんことを恐るるなり」とのことでした。これを聞いた者は、これでよく親征を主張するものだと笑ったそうです。

<ヒロ>
前23日〜24日朝にかけて、因幡藩・備前藩・阿波藩から同意を得られたのを受けて、朝命が下りたのだと思われます。会津側資料をみると、青天の霹靂だったようです。因幡藩等との距離感が感じられます・・・。

参考:『京都守護職始末』・『七年史』一p362-367(2001.9.6, 2004.9.27)
関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別:「大和行幸と禁門の政変」「因幡藩文久3後半」■守護職/会津「事件簿文久3

在京有力諸侯(因幡・備前・阿波)の朝議参加
【京】文久3年7月24日、朝廷は、召しによって参内した因幡藩主池田慶徳・阿波藩世子蜂須賀茂韶に対し、広幡忠礼大納言を通じて、「国事加談人体着京」までの間、折々参内して朝議に列するよう申し渡しました。二人は、将来への定見もなく、濫りに大政に参加するのは当を過ぎると、辞退しました。(この日、備前藩主池田茂政は体調不良で参内せず)

また、この際、慶徳らは、容保に馬揃えが命じられた事情を訊ね、備前藩とともに当日の警護を務めたいと願い出ました。広橋大納言は当日の警護については同意しました。親兵の調練に「差支」がある件についても議論しましたが、事情は明らかにならなかったそうです。

<ヒロ>
今後着京する「国事加(可?)談人体」は、上京予定の後見職一橋慶喜を指すと思われます。慶喜は、7月17日、後見職辞表を留める勅書に対して請書を認め、上京の上、委しく叡慮を伺い、御沙汰次第では捨身の微衷を尽くす意向を示していました(こちら)。この請書は、22日に京都に届き、同夜、所司代稲葉正邦により、鷹司関白に提出されていました。それにしても・・・この時点で在京の幕府最高責任者である守護職会津藩は、国事を談じるの対象ではないのですね^^;。

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p418-420(2012.12.30)
関連:■テーマ別 「大和行幸と禁門の政変」「因幡藩文久3後半

■攘夷監察使(紀州・播州)
【京】文久3年7月24日、朝廷は、因幡・備前・阿波・米沢藩に対し沙汰書を下し、紀州・播州への監察使派遣及び傍観の諸藩の官位召上げの朝旨を諸藩に漏れなく伝達せよと命じました。

両伝奏署名の沙汰書&別紙のポイントは以下の通り。(箇条書き&要約by管理人)
別紙の通り、仰せ出される。「在国御一列」に洩らさず早々に伝達せよ。
(別紙)
「海岸防御」について度々御沙汰があったが、「往々不備之聞」えがあるので、今度、紀州加田浦・播州明石浦等へ監察使を派遣された。
(攘夷を)「傍観畏縮」の諸藩があれば、今後、きっと御沙汰があり、官位を召上げられるだろう。列藩は心得るべし。
(参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』所収の沙汰書)

●おさらい
朝廷は、 6月14日、正親町公菫を攘夷監察使に任命し、長州に派遣しましたが、7月11日にはさらに東園中條・四条侍従に対し、それぞれ播磨・紀伊の監察を命じました。因幡藩主池田慶徳は、13日、留守居の上申により、監察使に勅使としての威儀を保たせるべきだと建白しいました。東園・四条は、17日、水戸藩士に随従・護衛されながら、京都を出立しました。前23日には、朝廷は、京都守護職松平容保に対し、紀州・播州への監察使派遣及び傍観の諸藩の官位召上げの朝旨を幕府に通達し、これを親藩に伝達させよと命じました。

<ヒロ>
同じ内容を、親藩へは会津→幕府経由で、その他諸藩へは因幡・備前・阿波・米沢経由で・・・と分けて伝達させています。『京都守護職始末』では「漸次に公武の疎隔をなさしめようとはかった、過激堂上の謀略」だとしていますが、会津藩vs因幡・備前・阿波(&米沢)を煽る目的もあったのではないかと思います。

参考:『京都守護職始末』1p172、『贈従一位池田慶徳公御伝記』一p409(2012.12.25)

■攘夷親征/大和行幸
【京】文久3年7月24日、中山忠能は伝奏野宮定功に中川宮が親征論を「暴烈」に主張しているという噂の真偽を尋ねました。


この日、中山忠能は伝奏野宮定功に親征論の高まりについて尋ねる書状を送っていますが、その中で「中川宮此頃ハ暴烈御親征御申立之由真実其御趣意ニ候哉」と確認しており、中川宮が親征論を激しく主張しているという噂の真偽を尋ねています(忠能卿記)

■長州糾問使中根一之丞暗殺
【長】文久3年7月24日、幕府が長州藩の外国船襲撃及び小倉藩侵攻糾問のために派遣した使番中根一之丞の乗艦する朝陽丸が下関に到着しました

ところが長州藩の砲台は、朝陽丸を幕府軍艦と知りながら、砲撃を加えました。さらに、吉田稔麿・滝弥太郎らは下関埠頭に繋泊した朝陽丸に刀を提げて乗り込み、来意を問うと同時に小倉藩士の有無を質しました。幕吏は来意を説明する一方、同船の小倉藩士2名を水夫に変装させて火薬庫に潜ませたそうです。中根に随行してきた中縫・鈴木は上陸して番所に向かい、長州側は波多野金吾・宮城彦輔・入江九一・赤根武人らが応接しました。中縫は、中根が将軍の親書を携えてやってくることは、既に江戸藩邸に報知ずみだと説明し、まだ藩邸から知らせが届いていないなら、これから藩主に報せてほしいと依頼しました。金吾らはそのことを知らずに砲撃したことを謝罪し、中縫らは予め入港を告げなかったことを謝罪しました。金吾らは藩庁のある山口に書簡を遣わして、報知するとともにその指揮を乞いました。

・・・以上は『修訂防長回天史』によります。穏やかに事態が進んだように思えますが、『維新史』によれば、朝陽丸に乗り込んだ長州藩士は、幕府が自分では攘夷を実行せず、攘夷を行った長州藩を糾問しようとしていることに激怒し、護衛と称して船に留まり、実質、船を占拠したそうです。かなり殺気立っていたようです。

参考:『修訂防長回天史』三下p464(2004.9.26)
関連:■テーマ別「長州藩の攘夷戦争」■「幕末長州藩」「主要事件文久3」

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