9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ
◆8/4へ ◆8/7へ
☆真木和泉のお天気日記 晴 ■禁門の政変へ(薩摩藩の動き)−政変まで後13日。 (1)奈良原幸五郎、京都の形勢が変わり、久光の「御趣意」が立たないと国許に報じる 【京】文久3年8月5日、久光の内命を受けて前4日に再上京した奈良原幸五郎(繁)は、鹿児島の中山仲左衛門・大久保一蔵(利通)に対し、今の形勢では久光の「御趣意」が「相立つ模様」にはないと報じました。
奈良原書簡では、京都の形勢は高崎が報告すると記されています。同日付で、高崎から中山・大久保宛に送られた書簡がありますので、それのことだと思われます。主な内容は、春嶽率兵上京の噂及び上京を阻止しようとする急進派のテロ・脅迫行為が続発し、京都が騒然となっていること(3度に渡って書かれています)、中川宮が急進派の嫌疑を晴らすために薩摩藩と暫く音信普通になると宣言したこと、最近三条実美が「悔心」しているらしいこと、などです。
<ヒロ> 奈良原幸五郎、高崎左太郎、ともに、禁門の政変(文久政変)の薩摩側のキー・パーソンです。 ●久光の「御趣意」とは? 奈良原は、この日、中山中左衛門と大久保一蔵に宛てた書簡において、「只今の形勢にてはなかなか御上の御趣意相立つ模様、全く身受け申さず、返す返すも残念の至りに御座候」と慨嘆しています。 一体、この「御趣意」とは何なのでしょうか?兼ねてから孝明天皇-近衛前関白に要請されていた急進派一掃に係るものだということは容易に想像できると思いますが、具体的なことはどうも伝わっていないようです。ここで注目したいのが、「御趣意」が運べば一門家老に藩兵を率いさせて上京させるといっていることです。つまり、その「御趣意」は、薩摩藩の国許の軍事力を必要としないものでなのです。そして、召命撤回の沙汰を携えて国許に帰った村山斎助が口頭で、さらに同日付で高崎(左)が書面で報告した「只今之形勢」、近衛前関白を「大息」させた久光に顔向けできない「模様」により、実行困難になってしまったものです。 管理人は、「御趣意」とは、在京薩摩藩が、天皇の了解のもと、朝廷上層部の公武合体派/攘夷親征反対派、そして挙藩上京する越前藩と連携して、久光入京前に政変(急進派追放/朝廷改革)を決行することではないかと想像しています。 奈良原は、高崎(左)とともに、越前藩との挙藩同時上京計画の中心にいました。7月に入って、越前藩が会津藩・加賀藩と組んで政変を起こすとの噂(ただし、虚説)をききつけると、在京藩士は約100名しかいないが是非協力させてほしいと申し入れ、未だそういう計画はないと否定されると、「暴激之徒」が叡慮を無視して親征を強行しようとするなら、朝敵として、直ちに(つまり場合によっては久光の率兵上京を待たずに)討伐すべきだと主張していました。鹿児島への帰国時には、久光にこのあたりの報告もしたはずです。そして、久光は、後日の越前藩からの正式な協力依頼に同意していることから考えても、奈良原に対しても前向きな反応を示したと考えてよいと思います。また、久光入京前の政変決行については、7月12日に、越前藩監察村田氏寿が当時在京の吉井幸輔に持掛けており、吉井の同意を得た上で、近衛前関白に入説しています。その際、前関白は、越前藩の藩論を天皇も頼もしく思っている旨を伝えていました。当時の京都は、久光上京前の政変決行が実行可能な策として検討できる形勢だったのです。あいにく、村田が吉井を訪ねたのは奈良原出京直後なのですが、奈良原から報告を受けた久光が、自らの即時上京が困難な中、上京前に政変を起こすことを奈良原に言い含めたとしても、そう不自然ではないと思うのです。また、「御趣意」の実行が不可能になった形勢変化を報じる高崎(左)の書簡の中で、春嶽上京関係の記述が目立って多いことからも、「御趣意」が越前藩と結んでの政変だったと想像して無理はないのではと思います。 奈良原が京都を離れている間に、急進派の圧力で久光召命撤回の沙汰が下り、その上越前藩の藩論も一転して挙藩上京派の重職は罷免され(こちら)、気脈を通じていた監察村田氏寿も同25日に帰国しました(こちら)。さらには、27日以降、親薩摩の中川宮が急進派の嫌疑を恐れて薩摩藩と音信を絶ちました。また、越前藩が上京を中止したにも関わらず、一度火のついた出兵の風聞はますます盛んになり、これを阻止しようとするテロ・脅迫行為で京都は大騒動になっていました。この状況で、越前藩に上京の勅命が下りることはまず考えられません。 「只今之形勢ニては、なかなか御上之の御趣意相立模様全身受不申、返々も残念之至」とは、急進派公卿の勢いが一度出された勅命を覆すほどである中、頼みの中川宮からは音信を絶たれ、越前藩は、たとえ薩摩側が、押して入説したとしても、動けない・・・これでは、とても久光上京前の政変決行は行えそうもない、そういうことなのではないでしょうか。 ●おさらい:久光召命 ○久光に「暴論」公卿「開眼」の密勅(下付されず) 孝明天皇は外国嫌いで真から鎖港/破約攘夷を望んでいましたが、一方では公武一和思想の持ち主で保守的でした。かねてから、門閥の低い急進派公卿が過激な言動を繰り返し、自分の意思が貫徹しない朝廷の状況に怒りを感じていました。天皇の期待したのが前年の寺田屋事件で激徒を鎮圧した久光でした。4月下旬には中川宮に対し、久光に上京・「暴論」公卿を「開眼」させよとの密勅を示しましたが、中川宮が時機をみるべきと奉答したため、密勅を下すにはいたりませんでした(こちら) ○朔平門外の変と在京薩摩藩の苦境 久光退京後の薩摩藩は、5月20日の朔平門外の変(姉小路公知殺害事件こちら)で疑惑をもたれ、厳しい立場に立たされました。25日には姉小路暗殺犯として田中新兵衛が逮捕され(こちら)、翌26日には自刃しました(こちら)。尊攘急進派は薩摩藩の責任だと主張し、薩摩藩は御所警備を罷免され、九門内往来を禁じられました(こちら)。急進派が「増長」して、天皇の「真実之御趣意」が「不貫徹」という状況下、近衛前関白父子は、26日、久光に書を送り、事件は薩摩を嫌い、貶めたい者の仕業だとの認識を伝えるとともに、上京を促しました(こちらとこちら)。 ○久光に「急速上京」・「姦人掃除」の密勅下付 孝明天皇は、強く望んだ将軍滞京も急進派の妨害で通らないことに怒りを募らせており、将軍東帰の暇が伝達された5月30日、ついに久光に「急速上京」して「姦人掃除」をせよとの密勅を下しました(こちら)。密勅を渡された留守居本田弥右衛門(親雄)は、京を発ち、鹿児島に向かいました(6月9日到着)。しかし、この頃、生麦事件償金支払を薩摩に迫るため、英国艦隊が鹿児島に来航する可能性が高まっており、久光は動くことができませんでした。 ○攘夷親征論の高まりと久光の召命 将軍家茂は東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、6月13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、久留米の神官・真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)。 孝明天皇は攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも反対でした(こちら)。 7月5日には、近衛前関白らが、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しましたが(こちら)、翌6日には急進派公卿が連署して、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言し(こちら)、9日には真木和泉が朝廷に召されて攘夷親征論を披露しました(こちら)。事態はいよいよ切迫してきましたが、久光からは密勅への返答はまだ到来しませんでした。この間、英国艦隊が鹿児島に来航し、7月2日には薩英戦争が勃発していたのです(こちら)。 次いで9日には真木和泉を召し出して攘夷親征について下問しました(こちら)。 11日には、急進派公卿の後ろ盾である長州藩の家老益田右衛門之介が、(1)攘夷親征、(2)立太子、(3)違勅の幕吏・諸侯の討伐を奏請するために入京し(こちら)、急進派はさらに勢いづきました。 これに対し、孝明天皇や近衛前関白らは、12日、薩摩藩国父島津久光に対して召命の沙汰(表向きは親征「御用」)を出して、久光に急進派を掣肘させようとしました(こちら)。同日、奈良原繁・税所容助が、召命の沙汰書及び近衛忠煕前関白父子ら連署の急速上京を求める書簡(こちら)を携えて、鹿児島へ急行しました。両名は20日に帰着しましたが、鹿児島は薩英戦争直後の混乱で、久光も藩主茂久も直ちに上京することは困難でした。そこで、久光は、近衛家に対し、今自分が上京することは難しいが、奈良原に詳しく言い含めた「趣意」通りに事が運べば、不日、自分は無理でも一門家老に率兵上京させるとの内容の返書を認め、奈良原に再度の上京を命じました(こちら)。 ○越前・薩摩・肥後連合の同時上京・政変計画 これより先、越前藩では、「身を捨て家を捨て国を捨る」覚悟で挙藩上京して(1)各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること、(2)朝廷が裁断の権を主宰し、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めることを決めました(こちら)。まず、京都に藩士を送り、その報告をもとに進発日を決めることになり(こちら)、6月6日、越前藩監察村田氏寿らが上京しました。そして、12日には薩摩藩士高崎左太郎(正風)・吉井幸輔に藩論を説きました。高崎・吉井は同意したものの、時機を待つよう助言しました(こちら)。翌13日には、肥後藩沼田勘解由に越前藩の計画を伝え、藩主細川慶訓の弟・長岡良之助(護美)の上京を促しました。沼田は個人としては同意しましたが、藩として動くには、春嶽が藩主に直書を送って説得することが必要だとの認識をしめしました(こちら)。越前藩は薩摩・肥後に使者を送って同時上京を促す方針を固め、21日、村田は在京薩摩・肥後両藩に使者の領内支障がないよう協力を依頼しました(こちら)。(7月5日、越前藩家老岡部豊後・酒井十之丞・三岡八郎(由利公正)が熊本・鹿児島に向けて出立(こちら)。鹿児島入りは8月上旬)。 ○越前・薩摩の久光上京前の政変決行案 7月2日、薩摩藩の吉井幸輔・奈良原繁が村田を訪ね、越前藩が会津藩・加賀藩と組んで政変を起こすと聞いたが、その際は、在京藩士は約100名しかいないが是非協力させてほしいと申し入れました。村田がそういう計画は未だないと否定すると、吉井・奈良原は、「暴激之徒」が叡慮を無視して親征を強行しようとするなら、朝敵として直ちに討伐すべきだと主張しました(こちら)。4日、村田は、近衛前関白を訪ねて挙藩上京の藩論を説明し、「御用」があればいつでも上京する決意があると述べました。前関白は、攘夷親征/行幸は叡慮ではなく、自分や鷹司関白も同心なのだが、「暴激之輩」(=急進派)のせいで存意が通らないと朝廷の内情を語るとともに、藩論には同意するが、上京は時機を待ち、今は「傍観」するよう諭しました。その日のうちに、村田は上京猶予を具申するため、福井に発ちました(こちら)。一方、吉井は、親征が実行されれば必ず「事変」が起るとの危機感から、9日、10日と、近衛前関白らに速やかな親征延引を入説しましたが、前関白らから、逆に暫く「鎮静」するよう指示されました。12日、村田が、朝廷からの沙汰を待って上京するという藩の方針をもって、再上京しました。村田は、吉井から久光召命の沙汰が下りたことをきくと、急進派からいらぬ嫌疑を避けるために、久光上京前に朝廷改革決行すべきだと説きました。吉井は同意しましたが、前関白らから鎮静せよと釘をさされたばかりであり、村田から前関白に提案するよう求めました(こちら)。翌13日、近衛前関白を訪ねた村田に対し、前関白は、天皇は越前藩の国論を「至極尤に思食、頼母しき事なりと御沙汰在らせられた」ので国許に知らせるよう告げ、今は時機ではないが、「憤発」を決断した際には、尽力を依頼すると述べました。しかし、村田が久光上京前の急進派処分断行を説くと、尤であり勘考しようと答えました(こちら)。 ○久光召命撤回と越前藩の挙藩上京とりやめ 7月12日に出された久光召命は朝野の急進派の怒りを買い、親征反対/久光召命派の近衛忠煕前関白ら公武合体派公卿への脅迫が相次ぎました。そして、わずか数日後の7月17日、急進派公卿の強奏により、久光召命の沙汰は撤回され(こちら)、薩摩藩士村山斎助が急を報じに鹿児島へ向かいました。さらに、23日、越前藩の藩論は一転して、挙藩上京派の重職は罷免され(こちら)、在京薩摩藩と緊密な関係にあった監察村田氏寿も同25日に退京していました(こちら)。越前・在京薩摩連合による久光上京前の政変決行案も、具体的な検討に入る前に流れてしまいました。 ○春嶽上京の風聞と反上京のテロ行為続発 一方、越前藩の挙藩上京計画は、既に、6月下旬までには急進派の中心的存在、真木和泉、宮部鼎蔵、久坂玄瑞らに察知されていました。7月上旬には出兵に関する「容易ならさる風説」が近衛前関白のもとにまで届いており(こちら)、7月下旬以降は、春嶽/越前藩及びその協力者への脅迫行為が続発して、洛中は騒然としました。まず、春嶽・茂昭の上京時の宿舎に予定されていた高台寺が、7月27日暁(あるいは26日夜)、春嶽を「朝敵」と呼ぶ者の焼き討ちにあい(こちら)、翌28日には越前藩が本陣とする西本願寺の焼き討ちを示唆する貼紙が祇園社扉に張り出されました。前後して、西本願寺に越前藩が立ち退かねば放火するというような内容の札が張られ、近隣が大騒動となり、武家伝奏が重役を呼び出して立ち退きを勧告したほどでした。また、8月2日には、越前藩御用達の豪商矢島藤五郎宅が浪士集団に襲撃され、翌3日、京都五条・四条・粟田口蹴上街道筋に「国賊」春嶽が入京すれば勅により即時に「天誅」するとの高札が、越前藩上京時の道中にあたる大津には、春嶽らへの宿舎を提供する者への「天誅」予告の高札が掲げられました(こちら)。次いで、5日には三条大橋に、春嶽の入京を許さず、押して上京すれば旅館すべてに放火するとの予告が張り出されました(↓(3))。 ■天覧馬揃え&禁門の政変−政変まで後13日。 (2)会津・阿波・因幡・備前・米沢の天覧馬揃 【京】文久3年8月5日、会津・阿波・因幡・備前・米沢藩が、天覧馬揃え(小規模軍事調練)を行いました。前回は小銃の空砲が禁じられていましたが、今回は、因幡藩主池田慶徳の周旋によって、許可されました。 また、『七年史』によれば、このとき、会津藩は、後日の不慮の事態に備えて、ひそかに武器を御所内凝華洞(お花畑)に納めたといいます。 会津藩にとっては7月30日に続いて2度目(こちら)、他の4藩にとっては初めての天覧馬揃えでした。 広沢安任(富次郎)の「鞅掌録」によれば、馬揃えの様子は以下の通りでした。 「五日又馬揃あり。操練の法前の如く、一変終て裏糧を用いて小憩し、ニ変をなし終て隊に列に就き、次序秩々として御簾の前を過ぎ、凝華洞に入る。紹て因州侯其兵を布列し進退分合の形を為す。了て、阿州侯、米沢候、備前候、皆之を為す。備前に至て薄暮にして諸色明ならず。 先に命下る時、数箇の条目を挙げ伝奏に因て三四空発を請える。尚許容されらず。又大砲手の備なるもの、惟素砲を以て形状を為んと請える。又許容せられざる也。時に松坂三内、私に豊岡大蔵卿に往て、何故に許容せられずやと問えば、会津士強悍なるが故に勢に乗じて真に実丸を発するを恐るる也と云わる。聞者、捧腹して尚能く親征を主張せらるるを笑う時、因州候来る。公、挙を語り玉へば、候も又笑う。且つ曰、此なければ気勢無しと。因て、自ら任じ周旋して此を請う時に、朝廷も合刃の三四声のみを許さる。候の説行わるるに及て、一人に三四声を許さる。然も我藩の人人朝廷の意を憚り、尚薬力を軽くして之を発す。因州以下に及ては毎藩に発声、漸く強く米沢に至ては専ら西洋の砲隊に倣え、一列隊皆砲のみ。殊に五十匁三十匁の砲強く身を聳すに至るもの交いて之を発す。諸堂上等、始て此を聞き、響耳に徹して、堪る能わず。 夜に入り、天皇、我公を御車寄の階下に召し、戎衣の儘にして前ましめ、御簾の中に在て連兵の素有を賞し玉い、水干馬具を下し賜り、殿下時に玉音を承け、伝奏之を伝え、燭影耿々(こうこう)として殿階の間粛々たり。蓋し近古の無き處也」(原文の片仮名を平仮名に変えています。また句読点・段落をを適宜にいれています) ( この日、松平容保は前回の馬揃えを称して孝明天皇から授けられた錦(こちら)を陣羽織に仕立てて着用し、烏帽子をつけて采配をふるったそうです。なお『七年史』には会津藩のとった陣形等、非常に詳細に描写されています) また、禁門の政変の薩摩側キーパーソンとなる高崎左太郎は、同月8日付の中山中左衛門・大久保利通宛書簡において、近衛前関白からきいた話として、「此節は発砲いたし候処、堂上公卿殊の外御恐怖、或は未前に御暇も有り、或(は?)央にて御退出も之有り、或は始めより発砲の事を聞かず参らず等、三条卿御引入り中押して御参内の処、別て御恐縮、始終コハイコハイと仰せられ候」と、小銃空発に激派公卿がうろたえる様子を報告しています。ただし、前関白によれば、調練は、米沢藩がぬきんでてよかったそうです。(米沢藩のインパクトが強かったろうことは、広沢の「鞅掌録」からも伺えますよね) <ヒロ> 会津藩が、後日の不慮の事態に備えて、ひそかに武器を御所内凝華洞(お花畑)に納めたことが事実だとすれば、8月2日に下された孝明天皇の内旨(こちら)にただならぬものを感じたからでしょうか・・・・・・。 また、よく急進派が小銃空発えを妨害しようとしなかったものだと思うのですが、周旋にあたった慶徳が急進派から一定の好意をもたれていたからなのか、それともこの頃京都を騒がせていた越前藩出兵の噂に備えるものだとでも納得していたのでしょうか・・・。 関連:開国開城「島津久光の率兵上京と寺田屋事件」 「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変」■守護職日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3 参考:『会津藩庁記録』三、『七年史』一、『玉里島津家史料』ニp424(2002.9.17, 2004.10.1,10.5) ■反・春嶽上京 (3)春嶽・越前藩宿舎への放火予告 【京】文久3年8月5日、三条大橋付近に「国賊」春嶽の入京を許さず、押して上京すれば旅館すべてに放火するとの予告が張り出されました。
参考:『忠義公史料』ニp749(2013.1.14) ■守護職 (4)守護職の財政 【江】文久3年8月5日、、幕府は守護職費用として金一万両を付与しました。 <ヒロ> ちなみに、江戸時代の金と米との換算には金1両=1石がよく使われますが、幕末期には物価が高騰し、文久3年には江戸で金1両=約0.4石(約4斗)でした。試しに平成14年度の自主流通米の全国銘柄平均価格(約16,000円/60キロ)を基に現在のお金に換算すると、約6,400万円となります。 関連:■「覚書」「検証・京都守護職と財政(1)守護職会津藩の膨大な赤字」 ■「豆知識」>幕末の金1両の価値(1両で買える米の量/現在のお金にすると?) 、江戸時代の三通貨、金・銀、金・銭交換レート、 石高・扶持・米の単位 参考:『七年史』一(2002.9.17) ■薩英戦争 【江】文久3年8月5日、薩摩藩士吉井幸輔は後見職一橋慶喜に閲し、薩英戦争の状況を説明しました。 吉井は8月3日に江戸に到着していました。なお、薩摩藩士堀平右衛門も7月29日に江戸に入り、慶喜や老中板倉勝静に閲して、状況を説明していました。 参考:『玉里島津家史料』ニ(2004.10.1) |
幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
|