9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ

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文久3年8月2日(1863年9月14日)
【京】天覧馬揃:孝明天皇、会津藩に対し、馬揃えの際の手際と軍備熟練ぶりを称揚する
【京】馬揃:孝明天皇、会津藩に密使を送り、武備十分で事に臨んで支障がない様子を
深く頼もしく思う内旨を口達させる
【大津】反・松平春嶽上京:浪士集団、越前藩御用達の豪商矢島藤五郎宅襲撃

☆真木和泉のお天気日記 陰
■天覧馬揃え&禁門の政変
(1)孝明天皇による会津藩の称賛
【京】文久3年8月2日、孝明天皇は、去る7月30日に行われた天覧馬揃えの際の会津藩の手際のよさと従来の軍備熟練を称しました。
容保は錦陣羽織地二巻と白銀200枚を授けられました。

この日、藩主松平容保に参内が命じられましたが、風邪をひいており、藩士中條信礼が代参したところ、伝奏飛鳥井雅典(中納言)から勅命を授けられました。
一昨日、馬揃は雨天順延の旨の沙汰だったところ、(天皇が)御覧になると仰せ出されたのに対し、(会津が)「早速陳列相整備」したことに「御満足」され、「従来軍備熟練」に感じ入られた。よって目録の通り錦陣羽織地二巻と白銀200枚を授ける。
(参考:『七年史』一所収の沙汰書より作成)

(2)孝明天皇の会津藩への密旨
【京】同日、孝明天皇は、密かに会津藩に使者を送り、武備十分で事に臨んで支障がない様子を深く頼もしく思う旨を口達させました


この日、伝奏飛鳥井雅典の使者が会津藩公用人に口達した孝明天皇の内旨は以下の通り。
この度の天覧馬揃は、雨天順延の筈のところ、俄かに「大軍出陣、聊無遅滞火急に差出」したことを、「兼て武備十分に行届、事に臨み無差支段、深御頼敷」思召される。この事を内々に申し入れて置くよう、中納言殿(注:飛鳥井)に申し付けられたので、各方まで申し入れるので、(容保に)御申し上げになるように。
(参考:『七年史』一所収の口達手控書より作成)

<ヒロ>
●(他人頼みな)孝明天皇の軍事力への期待
孝明天皇の内旨は、急な命令にも応じて軍事行動がすみやかに起こせることを頼もしく思う内容になります。これは、天皇が兼てから朝廷内急進派の武力制圧を考えていることを考え合わせると意味深長だと思います。

孝明天皇は保守的な人物で、身分が低く過激な尊攘急進派公卿を嫌っていました。朝議が三条実美ら急進派公卿の思うままとなり、自分の意思が通らないことに憤りを感じていました。しかし、自分が矢面に立ち、主体的に状況を変えようとはしませんでした。そんな天皇が、当初、頼みにしたのが、寺田屋事件で急進派浪士を武力鎮圧した薩摩藩国父の島津久光で、 5月には、近衛前関白を通して、久光に急速上京して「姦人を掃除」せよとの密勅を下していました(こちら)が、当時、生麦事件償金問題で英国艦隊が鹿児島を襲撃するとの風聞があり、久光は上京することができませんでした。

一方、孝明天皇は、もともと会津藩に好意的でした(会津は、京都守護において孝明天皇の意思尊重を基本方針としており、藩論は鎖港攘夷で勅使の待遇改善にも貢献)。久光の急速上京が困難な中、天皇は、急進派への対抗手段として会津藩の軍事力に期待しました。容保が、6月に尊攘急進派の策謀で東下させられそうになったときには、容保に対しては東下を望まぬ旨の密勅を下し、容保東下の再命を拒んだことで、急進派の工作を失敗に終らせました。この時、天皇は、近衛前関白を通して、「朕が尤会津を頼みとし、・・・事有るに臨んで、其力を借らんと欲する」旨を、会津藩に伝えさせています。

7月、天皇の意思に反して攘夷親征(大和行幸)への動きが活発になり、天皇は、ついに久光に召命の沙汰を下しました(名目は攘夷親征)。ところが、わずか5日後に急進派の支配する朝議において召命は中止となりました(こちら)。天皇は激怒しましたが、急進派の勢いは収まらず、その直後から久光召命派の公卿に対して脅迫が続きました(こちら)

つまり、会津藩の天覧馬揃えが行われたのは、久光による武力制圧をという天皇の密かな計画が蹉跌した時期だったのです。そんなとき、兼てから期待を寄せていた会津藩は、馬揃えで、訓練された軍事力を強烈にアピールしました。天皇を崇拝する藩主容保と熟練した巨大な軍事力を備える会津藩に、これまで以上に期待をもったはずです。

天皇の支持のもと会薩・中川宮連合によって急進派が追放された禁門の政変は、これから16日後。天皇(や中川宮・薩摩藩)には馬揃えのインパクトから、あの会津藩となら政変も成功させることができるだろう・・・と感じたのではと思っています。会津藩にしても、6月の密勅・内旨に続いて今回の内旨があったからこそ、薩摩藩が政変をもちかけたとき、天皇も政変をバックアップするだろうという確信をもって応ずることができたんじゃないかと思います。急な馬揃えは、結果的には、8.18政変のよい予行演習になったに違いないでしょうし。

もし、そうだとしたら、急進派が会津に恥をかかせようとして画策した馬揃えは、逆に彼らの足をすくったことになっちゃいますネ。

(薩摩側の反応は文久3.8.5の「今日」で)

関連:開国開城「島津久光の率兵上京と寺田屋事件「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変」■守護職日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3
参考;『七年史』一p401-402、『続再夢紀事』ニ(2002.9.14, 2004.9.27)
■反・越前藩上京のテロ
【大津】文久3年8月2日夜、越前藩御用達商人矢島藤五郎宅に浪士集団が押し入りました。藤五郎は他出しており無事でしたが、家人8名が殺害されたという噂が流れました。

●おさらい
越前藩では、7月23日に藩論が一転して挙藩上京派が更迭されており(こちら)、同月25日にはキーパーソンの村田氏寿(巳三郎)も帰国のため退京していたのですが(こちら)、京都では春嶽が今にも率兵上京するという噂が広まっており、攘夷親征を推し進める尊攘急進派を痛く刺激していたようです。

春嶽・茂昭の上京時のに宿舎に予定されていた高台寺は、7月27日暁(あるいは26日夜)、春嶽を「朝敵」と呼ぶものたちの焼き討ちにあい(こちら)、翌28日には越前藩が本陣とする西本願寺の焼き討ちを示唆する貼紙が祇園社扉に張り出されました。前後して、西本願寺には越前藩が立ち退かねば放火するというような内容の札が張られ、近隣が大騒動となり、武家伝奏が同藩重役を呼び出して立ち退きを勧告したほどでした(こちら)

参考:『東西紀聞』一p774-775(2002.9.14, 2004.9.27)

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