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文久3年8月13日(1863年9月25日)(前)

【京】攘夷親征:因幡・備前・米沢・阿波藩、天皇に直接親征猶予を訴えるが
親征を好まぬ天皇、猶予を許容せず
【京】「大和行幸(攘夷親征)」の詔公布。会津藩士激昂
【江】鎖港:後見職一橋慶喜、攘夷実行(鎖港交渉開始)のため上京延期

☆真木和泉のお天気日記 陰
■攘夷親征/大和行幸 -禁門の政変/文久政変まで後5日

(1)因幡・備前・米沢藩・阿波藩ら在京諸侯による親征諌争
【京】
文久3年8月13日、召によって参内した因幡・備前・米沢藩・阿波藩の朝議参謀四候を含む七候
は、攘夷親征の「書付」を示されました。

前12日に二条斉敬右大臣から密命を受けていた因幡・備前始め朝議参謀四候は、御前において攘夷親征の猶予を強く主張しました。ところが、案に相違して、本心では親征を好まぬはずの孝明天皇は、猶予の勅命を出しませんでした。

さらに、御前を退出した四候に対し、関白鷹司輔煕は、親征及び中川宮の西国鎮撫は「宸断」による決定事項なので今後何度言上しても採用はない、と言い渡しました。


因幡藩主池田慶徳は、この日の様子を、異母弟・後見職一橋慶喜に書状で克明に知らせています。要約すると、(召命により)慶徳らが参内したところ、議奏広幡忠礼大納言より攘夷親征の「書付」が渡されました。召命の趣旨を察知していた慶徳らは、参内前に、決死で親征を止めようと申し合わせており、「書付」は受け取らずに、孝明天皇への拝謁・直接奏上を強く要請しました。これをきくと議奏・伝奏の両役は驚愕の体でした。暮方になり、ようやく天皇と面会が叶いました。慶徳らは(二条右大臣に知らせておいた事前のシナリオ通り)、自分達が東下して将軍に攘夷を説得するし、もし将軍が因循すれば自分達が攘夷を決行するので、親征は猶予してほしい、と訴えました。ところが、天皇は慶徳たちに「懇之勅命」を与えるものの、親征猶予許容の言葉は発さず、列座の堂上が強く親征を主張する中、ついに親征猶予の勅命が下りることはありませんでした。しかも、その後、慶徳らは、鷹司関白に呼ばれて、将軍説得のための早々の東下を命じられるとともに、親征及び中川宮西下は宸断による決定事項で動くことはなく、今後何度言上しても採用されることはない、と言い渡されました・・・。慶徳は非常に落胆したそうです。

慶喜宛慶徳書簡(13日の事情を伝える部分)の内容は以下のような感じ。
○議奏より攘夷親征の「書付」を示される
(午前11時頃に)上杉・阿波・備前・私・分部若狭守(=大溝藩主分部光貞)・松浦豊後守(=平戸新田藩主松浦脩)・松平伊勢守(=因幡鹿奴藩主池田忠建)一同が参内したところ、小御所下段の間にて、議奏・伝奏列座にて、広幡(忠礼)大納言より「書取」をもって以下のように申し渡された。
今度攘夷之為御祈願、大和国行幸、春日え御逗留、御親征軍議被為在、其上伊勢神宮へも行幸之旨宸断を以被仰出候
○天皇への拝謁・直接奏上を要請
これまで親征の儀については、往々、殿下(=二条斉敬右大臣)より伺った儀もあり、また御内々に其筋より「真之叡慮」」を伺い、(天皇は親征を)「御好ミ不被為在趣」も承知しており、かつ(親征を)申し立てる者も(誰なのか)判然としている。「至而御大事」で、親征と申す儀は容易ならぬ次第である。(召出された理由は)多分この件だろうと参内前に一同で打ち合わせ、「今日は決死ニ而是非共御親征は被止候様建言仕度」と申し合せていた。そこで(議奏らに対し)、<親征の儀は容易ならぬ事柄で、殊には世上騒がしき折柄、遠く宮中を御離れになるのはよろしくありません。この儀については一同決心して参内仕ったので、この「書取」は広幡殿へ暫く預け置き、何卒、龍顔を拝し、御前にて建言仕りたい>と申し立てたところ、「両役一同驚愕之体」でそのまま何の答えもなかったので、押して(拝謁を)願う段を申し述べ、諸太夫の間に引き取った。
○御前で直接親征猶予を主張
暮頃、伝奏衆より小御所でご対面があるので参るようにとの達しがあり、罷り出たところ、御前に召出され、中段に進み、直に言上した(注1)。
御親征をとまでの御決断は、実に神武の御国体において有難きことですが、未だ武門がその職業を尽さぬ時機の御親征は如何なものでしょうか。また、臣等は武門の職業に罷りあります。畢竟、かく思い立たれたのも、「日本一体攘夷決心」する様にと思われての事とは存じますが、何卒、私共を早々に関東に遣わし、将軍家を説得させていただきたく、死を以て願います。もし(将軍が説得を)採用なきときは、勅命を奉じて臣等が(横浜で)「夷虜の巣窟」(=外国居留地)を破壊仕りたく、それでも成功せぬ時は「如何様共」(=親征をされようと何も申しません)。武門が安逸に過ごし、「袖長」(=堂上)同様に鳳輦にのみ随従仕っては、本職に於いて相済みません。何卒、(親征の)御先鋒と思われて、関東に遣わされるよう願いたく、御許容になれば、早々に発足し、及ばずながら尽力・必死を極めて勅命を奉じる所存です。
○天皇、親征猶予許可の言葉を発さず
(天皇は言上をを嘉して)「御懇之勅命」を下されたが、(慶徳らが)申上げた「親征暫時御見合之儀」は一切御許容なかった。もっとも叡慮は「御見合」の思食にお見受けするが、列座の堂上が「浮浪之振舞暴行横乱ニ辟易」の余り、強く親征を主張する体なので、恐れながら、上も御発言遊ばされかねるご様子で(注2)、なんとも恐入る次第であった。(親征猶予の)勅命の有無は得られず、遂に退出した。
○慶徳らに東下の内命、親征・中川宮西国鎮撫の決定
その後、小御所において、殿下より、<(天皇は)一同が心を決めて申し立てた件に感銘を受けられ、近日御暇を下されるので早々に東下するように、「尤、御親征之儀且中川宮西下之御事は、宸断を以御沙汰申上候儀ニ付て、今更御変動無之、譬此余幾度及言上候共、御採用は無之旨」を申し渡され、「実ニ落胆仕」った。
注2)慶徳は、天皇は親征猶予について何も発言しなかったと書いているが、天皇が親征を決定事項だと宣言し、猶予を却下したとする史料(但し伝聞)も複数ある↓
(出所:8月17日付一橋中納言宛慶徳書簡『池田慶徳公御伝記』ニp460-462より作成。箇条書き、小見出し、下線、()内by管理人)

ちなみに慶徳の伝記によれば、召により参内したのが13日巳の半刻(午前11時頃)、退廷したのは翌14日の早暁だったらしいです。

政変後、因幡藩留守居安達清一郎が前宇和島藩主伊達宗城に語ったところによると、この日、孝明天皇の内意をよく知るはずの鷹司関白が変心し、[存外反服(覆)」「意外」「絶言語」な言動を示したそうです。
先ごろの大和行幸親征の一件については、主人(=慶徳)も心を痛め、御詰合四方様へ「殿下」(注1)より御用向御相談という御沙汰があり、御内々に何卒この一件が中止になるよう周旋してくれとのことだった。

皆々様申し合わせて御尽力されたが、何分、難しい事なので、一同、参内を願って関白殿等に拝謁した。関白殿に、この度の御親征は御沙汰止みに願いたい。関東へは四人が参って早々に叡思を奉じるよう尽力仕るので、お聞届けいただきたい、と懇願申し上げたところ、関白殿は「最早御親征之儀ハ御決着之儀故願之趣ハ難有成、関東へ下り盡力有之儀ハ勝手次第可致と存外反服之事」を言われた。「意外にハ存候得とも無致方」、鶴の間へ引取り、主人らは話し合い、「如何にも関白殿之被致方絶言語候事此上ハ御直奏相願候而奉伺天意候外無之」と、直奏をお願いになった。

召出されて小御所にて龍顔を拝し、中段に進んだところ、例の如く御役諸卿が左右に列座していた。主人一同が関白殿へ申し述べた主意を直奏したところ、「親征之儀既ニ決着故難相止、関東へ参盡力いたし候ハ勝手次第と御直に」仰せられたので(注2)、さらに言上しようとしたところ、鷹司殿より最早下がられたしと言われ、力なく退出した。

松淡路(=阿波藩世子蜂須賀茂韶)は「関白家格別之間柄」(注2)であり、「今日之存意と過日内々被相頼趣」が表裏であるのが納得しがたいと、退出後、(関白に私的な)対面を願われたところ、御断りされたという。強いて請われると「表ニ而立派ニ御対面可有之」とのことで、「淡路大ニ憤激して」帰られた。
(注1)「殿下」は二条右大臣ともとれるが、後段の阿波藩世子蜂須賀茂韶が、「今日之存意と過日内々被相頼趣」が表裏であるので関白に私的な対面を求めたとあることから、関白鷹司輔煕を指すと推測した(同一人物だとすると最初だけ「殿下」なのはなんだかひっかかるところだが)。ただし、『鳥取池田家文書』、『贈従一位池田慶徳公御伝記』、『孝明天皇紀』をみた限り、鷹司関白が四候に参殿を求めて親征中止の周旋を内命したという記述は確認できなかった。関白が四候を呼び出したのは8月8日になるが、この日の関白とのやりとりを記した茂韶書簡・慶徳書簡、いずれにも関白からの内命は記されていなかった。敢て記さなかった可能性はある。清一郎の記憶が混乱している可能性がないともいえない。
(注2)同年8月15日に中山忠能を訪ねた正親町家家臣徳田隼人が侍従烏丸光徳(当時国事参政・急進派)の内話として語ったところによると、天皇に直奏した慶徳らに対し、天皇は「是迄段々猶豫於今ハ朕意既決之間不可見合各有所存ハ勝手ニ可取計」と「断然被仰下依之一決」したとされている(「忠能卿記」『孝明天皇紀』)。清一郎の話とかなり一致している。
(注3)茂韶は祖母・母ともに鷹司家出身で、輔煕には甥にあたる。
(出所:『伊達宗城在京日記』p215より作成。段落分&下線、()内は管理人)

●反故にされた慶徳・茂政のシナリオ
前12日午前、慶徳・茂政は、天皇の意を受けた右大臣二条斉敬から密命を受けていました。その内容は、<一両日中に、御前において攘夷親征/大和行幸の可否を因幡・備前・米沢・阿波の四藩に任せるので評定・結果を奏せよという「書取」を出すので、その際は天皇の内意を含み、四藩が評定・結論を奏上をするまでは変更がないよう強く主張せよ>というものでした。密命に対し、両名は次のようなシナリオを提案しました。まず天皇から<親征に一決すれば八幡に行幸して軍議を定めたいが、親征は一大事なので武家の存意を尋ねたい>と下問し、それに対して慶徳らが<親征布告は朝議に任せるが、自分たちが速やかに東下して将軍を説得して必ず横浜攘夷を実行させるので、その結果を復命するまでは、断じて行幸は見合せるよう願う>旨を言上するというものです。また、自分たちも決死で親征/行幸を止めるので、天皇にも「御強被仰出様」求めました(8/12(4)(5))。請書を提出したのは深夜になりました。

ところが、急進派の動きは天皇・二条右大臣の予想を超えており、行幸/親征は、12日のうちに朝議で治定されました(8/12(7))。

召命によって参内した慶徳は、前日のシナリオが反故にされたことに、徐々に気づいていきます。慶徳が参内したところ、まず御前ではなく、議奏・伝奏列座の前で、広幡大納言より「書付」が渡されました。さらに、その内容は慶徳・茂政の提案(「親征一決之上は、八幡え参籠て可定軍議思ふ、各可否無腹蔵可申述」)ではなく「大和國行幸。春日江御逗留、御親征軍議被為在、其上伊勢神宮へも行幸」という行幸を既定事項とするものでした。慶徳は「書取」を受け取らず、天皇に直接奏上を求めました。この段階では、違和感を感じてはいたものの、天皇と直接対面することさえできれば、シナリオ通り事が運ぶと信じていたに違いありません。ところが、案に相違して、慶徳らが必死の言上をしたのに対し、天皇は「懇之勅命」を出すものの猶予を許容するとは言わず、列座の公卿が親征を主張する中、ついに猶予の勅命は下されませんでした(あるいは、親征を決定事項だと宣言し、猶予を却下しました)。事前に天皇に「御強被仰出様」求めていた慶徳が、がっくりきたのも当然だと思います。

では、孝明天皇はなぜシナリオを反故にしたのか。前日の朝議で自分の決断を覆された孝明天皇にとっても、事前に密命を下し置いた慶徳ら武家の決死の直奏は、親征を回避し、落ちた権威を自ら取り戻す絶好の・・・いや最後のチャンスでした。それでも本心を言い出せなかったのは、慶徳がみたように列座の急進派の圧力に押されただけではなく、彼らから事前に何か言い含められていた可能性もあるのではと思います(たとえば、親征をとりやめると悲憤の浪士が何をしでかすかわからない等の脅しの類とか・・・?)。 あるいは、天皇は、たとえこの場で慶徳らの言上を許容したとしても、彼らが東下して京都を留守にしている間、急進派の勢いを留めることは自分には到底できない、とあきらめていたのでしょうか。天皇は、7月に久光の召命が朝議で覆されたときは、召命中止を強く迫った三条実美らに激怒し、今後たやすく勅を返すなら関白始め辞職・辞表の覚悟を決めよとの勅諚を出していましたが(こちら)、この日の様子からはその片鱗も窺えません。孝明天皇も、慶徳ら同様御、無力感をかみしめているかのようです。

●親征&西国鎮撫双方の決定(尊攘急進派の策略勝ち?)
17日付慶徳書簡によれば、この日、鷹司関白は、親征と中川宮の西国鎮撫ともに「宸断を以御沙汰」したことなので「今更御変動無之」、たとえ今後何回言上しても「御採用は無之」と明言しました。同書簡からは明確ではありませんが、こどうやら、慶徳らは、関白に対しては、親征のみならず西国鎮撫についても不可を論じたようです。慶徳ら四候にとっては、親征と同じくらい中川宮の西国鎮撫使は回避したい重大事でした。この日の参内前、慶徳は中川宮と対面していますので(14日付の慶徳宛上杉斉憲書簡(『鳥取池田家文書』)、その際、中川宮から改めて西国鎮撫阻止&八幡行幸主張を依頼されていたと思われます。親征のみならず西国鎮撫まで決定事項だと言われたことは、慶徳にとってまさにダメ押し的打撃でした。

もともと、中川宮に西国鎮撫の内命が下ったのは、急進派公卿が天皇に対し、親征か宮の西国鎮撫かと二者択一を迫り、親征を好まぬ天皇が、いわば親征逃れのために強く主張したことがきっかけになっていました。一方、西国鎮撫は御免こうむる中川宮は断然これを固辞し、さらには朝議参謀を命ぜられている在京諸侯の筆頭の慶徳を使って親征を可とする建議をさせようとしました。結果的に、自分のことしか考えない天皇・中川宮(及び二人のバトルにまきこまれた慶徳らの動き)は、急進派を利しただけになりました。こうなることを見越して、急進派が天皇に西国鎮撫か親征かを迫ったのだとすれば鋭いですよね。もしかすると、天皇・中川宮を離反させることも狙っていたのでしょうか。中川宮にしても、親征さえ一決されれば西国鎮撫から逃れられるとみて、親征を推してきたわけで、この結果には衝撃を受けたのではないでしょうか。(万事休す。その気持ちが政変につながったと思います)

●穏健策の失敗
この日、天皇・二条右大臣や慶徳らの目に明らかになったのは、急進派の策謀を止めるのに、朝議工作のような穏健な手段では無力だということでした。少し先回りをしますと、限界を感じた慶徳らは、翌14日には進退伺いを出し、次いで15日に朝議参謀辞退を願い出ます。また、天皇は、この後、薩会-中川宮連合の政変計画にのりますが、かねてから軍事行動による急進派排斥を視野にいれていた(久光への「姦人掃除」の密勅・召命、越前藩の挙藩上京計画への賛同、会津藩への内意)上に、この数日のことで、穏健策の無力さを思い知らされていたことも影響したのではないでしょうか。

参考:『池田慶徳公御伝記』ニp454-455、460-462、『伊達宗城在京日記』p215, 『孝明天皇紀』巻百六十七p25-26 (2013.1.8)
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(2)大和行幸/攘夷親征の布告
【京】
文久3年8月13日夕、ついに、大和行幸(攘夷親征)の詔が公布されました

為今度攘夷御祈願、大和國行幸、神武帝山陵・春日社等御拝、御逗留御親征軍議被為在、其上神宮行幸事
(出所:定功卿記『孝明天皇紀』巻百六十七p19)

<ヒロ>
この日、午前11時頃に参内した慶徳らが示された書付と内容がほぼ同じ(寫し間違いの範囲内)です。慶徳らが退廷したのは翌14日の早暁(『贈従一位池田慶徳公御伝記』)だといいますから、まだ慶徳らが宮中で議論している間に公布された模様です。

●守護職会津藩、水戸藩の反応
『七年史』では、会津藩の様子を「今は公武協和の道も全く絶ゆるが如き有様なれば、会藩の士気激昂して、肥後守容保に辞職あらん事を諫言するに至」ったと記しています。しかし「肥後守は先般の内勅に叡慮の存する所を知りたるなれば(8/2(2))、諸臣を慰諭して、みだりに動かず」だったそうです。

また、在京水戸藩は事態を江戸に急報しますが、その書簡中、「此表形勢朝夕変化いたし、昨朝梅沢孫太郎御指下の節(8/12(2))よりは又又相違、此上如何相成るべき哉。恐れながら公武の御間最早今日切と申す姿にて何事も至極の御難物に相成るべく、容易ならざる御時節、痛心此上無く・・・」と、絶望する様子を知らせてます。(在京水戸藩は破約攘夷派の集まりですが、そこは親藩なので、攘夷親征には反対の立場です)

(薩摩藩の反応は8/13(後)にて)

参考:『七年史』一、『水戸藩史料』(2001.9.25、2004.10.5)

(3)長州藩主父子の召命
【京】文久3年8月13日、関白鷹司輔熙は、長州藩支族吉川監物・同家老益田右衛門介等を招き、藩主父子のいずれかの上京を命じました
(『徳川慶喜公伝』2p257)

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」■守護職日誌文久3 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 ■長州藩日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3 ■徳川慶喜日誌

■横浜鎖港交渉/慶喜再上京
(4)鎖港交渉開始の報
【京】
文久3年8月13日、鎖港交渉の当月20日前後の開始見込みを急報する後見職一橋慶喜書簡が京都に届きました。書簡は異母兄・因幡藩主池田慶徳宛で、他に鎖港交渉に専念するので上京を延引すること、鷹司関白への内申依頼などが認められていました。

<ヒロ>
書簡は8月9日付ですから最速の早飛脚(四日切)を飛ばしたようです。慶徳は、この日、参内して親征を諌争しますが(↑(1))、書簡の内容(当月20日頃には鎖港交渉開始の予定)について言及した後がありませんので、参内前には届かなかったと推察します。間に合っていたとしても、とても鷹司関白に内奏できる雰囲気ではなかったし、幕府の正式決定ではないので、この日の議論にどの程度効果があったかはわかりません(実際は、慶喜書簡の翌8月10日に、幕府は鎖港交渉開始を布告しています)。そもそも、朝議は前日に定まっていましたし。でも、幕府がもう数日早く決断していれば、あるいは天皇が後一両日もちこたえて飽く迄も親征裁可を拒否していれば、事情は違ったかもしれません・・・。(書簡の概容、慶喜上京の背景は8/9(6))。

参考:8月17日付一橋中納言様宛慶徳書簡『贈従一位池田慶徳公御伝記』ニp466(2013.1.8)

(5)慶喜再上京延期
【江】
文久3年8月13日、幕府は、破約攘夷実行(鎖港交渉開始)のため、後見職一橋慶喜の再上京を延期しました。(『徳川慶喜公伝』2p249)

関連■テーマ別文久3年:「後見職・将軍の再上洛」「横浜鎖港交渉」 

●おさらい:攘夷親征/大和行幸
文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)が、孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも親征には反対で(こちら)、7月12日には薩摩藩国父島津久光に対して召命の沙汰(表向きは親征「御用」)を出して、久光に急進派を掣肘させようとしました(こちら)。また、親征に慎重な因幡藩主池田慶徳は、異母弟の後見職一橋慶喜らに親征論が起ったことを知らせて幕府の攘夷断行を促すとともに、14日には、親征布告見送りを建白しました(こちら)。しかし、相前後して、親征反対&久光召命派公卿に「天誅」等の脅迫が続き、16日には、急進派の牛耳る朝議で、久光召命の中止が決定しましました(こちら)。 7月18日には、ついに尊攘急進派の後ろ盾である長州藩が攘夷親征を建白し、朝廷に決断を迫りました(こちら)。しかし、鷹司関白に諮問された因幡・備前・阿波・米沢等の在京有力諸侯はいずれも親征に同意せず(こちら)。親征論は一時頓挫しました。

8月に入り、長州藩や真木和泉は、在京諸侯を味方に引き入れようと慶徳に頻りに入説しました(こちら)。慶徳や同席した諸侯は彼らの強硬な主張に同意しませんでしたが、これでは自分たちの望む穏健な方策は行われぬまいと、一時、朝議参謀の辞退を申し合わせたほどでした。

相前後して、真木和泉の発案により、中川宮に西国鎮撫を命じる動きが活発化しました。急進派公卿は親征を好まぬ天皇に対し、中川宮の西国鎮撫使任命か、さもなくば「おイヤな」親征かと迫りました。孝明天皇は、8月7日、攘夷親征論を時機尚早だと断固退け、その代りに、中川宮に西国鎮撫(具体的には四国・九州における攘夷掃斥・小倉藩処置)を命じたいとの強い意向を示しました(こちら)。8日夕、急進派の圧力により、中川宮に西国鎮撫の内命が下りました(こちら)。 翌9日、西国鎮撫の内命に裏があることを察した中川宮は、因幡・備前両家に対して、親征を建議して、西国鎮撫が沙汰やみになるよう周旋せよと命じました。その一方で、上書して、西国鎮撫使の内命を辞退しました。朝廷は即日使者を遣わして説得しましたが、中川宮は受諾せず、西国鎮撫より八幡行幸が至当だと述べました(こちら)。10日、中川宮は、親征であれば先鋒を願うが西国鎮撫は断ると、内命を改めて固辞するとともに、西国鎮撫の代案として八幡行幸・諸侯召命を建議しました。また、中川宮から親征建議を依頼された因幡藩主池田慶徳・備前藩主池田茂政兄弟(水戸家出身)は、徳川の屋台骨を揺るがしかねない親征には反対していましたが、打ち合わせの結果、親征布告、祈願の八幡行幸、廟算一定、関東に厳重な沙汰、なお因循すれば親王による内外征討を主旨とする上書を提出することにしました(こちら)。11日、中川宮の指示により、二条右大臣は慶徳に中川宮の建白書の写しを送り、「熟慮」するよう密かに依頼しました。慶徳と備前・阿波・米沢の三候は相談の上、四名連署で、鷹司関白に対し、親征布告、八幡行幸、全国大名召命等を主旨とする建白を差し出しすことに決めました(こちら)

この間、7日にいったん不採用となった親征の朝議が再び盛んになりました。12日午刻前、天皇の内意を受けた二条右大臣は池田慶徳・茂政に対し、攘夷親征の朝議を阻むよう密命を下しました。同日深夜、慶徳・茂政は、密命に答え、親征阻止のシナリオ(天皇の勅書案(親征一決、武臣の存意を尋ねる)及び奉答案(親征布告、慶徳らの東下・攘夷断行周旋、叶わねば慶徳ら自身による攘夷、復命までの親征実行猶予を柱とする)を示しました。しかし、同日中に、既に親征は治定されていました(こちら)
おまけ(参考までに)
『七年史』には、翌8月14日のこととして、関白邸に因幡・備前・米沢藩主が参集して親征不可を議論したとありますが、8月14日には、因幡・備前・米沢藩主らが連名で、前13日の議論が僭越だったと進退伺いを出しているほどですし、互いに出し合った書簡には、親征の件はいたしかたないが中川宮の西国鎮撫だけはなんとかとめたい、という内容がありますので、14日に関白邸に参集して親征を激論したとは考えられません。仮にそういうことがあったとしたら、13日のことだと思われますので、参考までに、以下、概容をのせておきます。(13日の御所での議論を関白邸での議論と混同している可能性もあります)

十四日、鷹司関白殿が松平相模守慶徳(因幡藩主池田慶徳)・松平備前守茂政(備前藩主池田茂政)を召しだし、<大樹(将軍家茂)は攘夷期限を5月15日と約束したが、今になっても実効がない。これに反して長州は既に叡旨を奉じて下関に外国船を砲撃して兵端を開いたが、隣藩は小倉を始めとして傍観して応援せずという。主上は深く宸襟を悩まされ、幕府に委任しただけでは攘夷が行われ難いので、今度、天下の人士を励ますために、親征軍議として、暫く石清水八幡社までも鳳輦を進めれば、諸藩が奮発するだろうとの叡慮を以て、沙汰が下るに至った>と告げられた。両候(慶徳・茂政)はこれを不可として諫争したが、関白殿は聞き入れる様子がなかった。そこで、両候が<このような大事件は在京の諸侯に御諮問があって当然である。殊に上杉弾正大弼斉憲(米沢藩主)は老練着実の聞こえがあるので、彼を召してお尋ねあるべきである>と具申すると、関白はもっともだと、在京諸侯を召しだた。参内した弾正大弼は、関白の諮問に対して<(親征は)至当の処置とは承知しがたい。大樹公に未だ違勅の実がないのに、親征の命が下るのは、朝廷がもはや関東をお見捨てあるとの姿を生じ、先般の大政委任の勅命も無用に帰すことになる。そもそも攘夷は、公武合体天下一致でなくては容易に成功を期すことはできない。かつ、目下、その敵の姿を見ないのにも関わらず、至尊の親征というのは、恐れながら、皇威は軽々しいも同然である。まして、人気奨励のために仮に八幡辺まで出御というに至っては、事、策略に渉り、果たして天下を奮励させることになろうか。我々列藩が藩へい)の任にありながら、鳳輦を労すれば、藩へいの甲斐もなく、恐懼の情に堪えない。返す返すも延引を希望いたす>と答えました。殿下(=鷹司関白)は歎息して<そちらの言い分はもっともだが、学習院の議論が激烈で制止しがたい>というので、備前守は<殿下がそれほ学習院を御心に掛けられているなら、ここへ国事掛諸卿を召されるべきでしょう>と要請しました。そこで、朝政の中心である国事掛・議奏・伝奏が一同に会し、公武列席しての親征可否の大激論になった。三候の議論は正論なので、諸卿みな屈したが、三条中納言だけは一人固執して服さなかったものの、遂に屈せられたという。この夜の議論は寅の刻(=午前4時頃)に及んだが、ついに(親征)御延引はなく、御発輦も当月二十五日と決まったので、京都は何となく騒然となった。
出所:『七年史』一p421-422より作成

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