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■将軍上洛 【江】文久3年2月13日、将軍徳川家茂が上洛のため、江戸を出立しました。老中板倉勝静・水野忠精ほか、約3,000名が随従しました。(『徳川慶喜公伝2』) 将軍の出立は、当初、2月26日に海路軍艦でと発表されていましたが21日に早められ、さらに2月9日になって、13日に陸路東海道でと発表されていました。生麦事件償金交渉を避けるためだとされています。(こちら) 関連:■テーマ別文久2「将軍上洛問題」「将軍上洛延期運動」■テーマ別文久3「薩摩藩の将軍上洛延期運動2」」 ■参政・寄人設置 【京】文久3年2月13日、国事を議論する場として新たに国事参政・寄人が設置され、三条実美・姉小路公知を始めとして、定員14名中13名に尊攘急進派が任命されました。
*橋本実麗は4月14日に国事参政を辞任。 <ヒロ> 参政・寄人は、2月11日、久坂玄瑞、寺島忠三郎、轟武兵衛の3人が鷹司関白に面会して提出した、(1)攘夷期限決定、(2)言路洞開、(3)人材登用、の三策の建白書に基づいたものでした(こちら)。以後、朝政は参政・寄人に任命された急進派公卿に牛耳られることになります。 関連■テーマ別文久3年「攘夷期限」■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」 参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史料綱要』4(2001/3/29) ■公武合体派の排斥 【京】文久3年2月13日、公武合体派の九条尚忠(前関白)、久我建通(前内大臣)、岩倉具視、千種有文、中務大輔敬直が重き慎に処せられ、今城重子、堀河紀子は剃髪を命じられました。 1月28日に千種有文の家臣賀川肇が天誅されて岩倉・千種両家に脅迫状が投げ込まれ、2月6日には千種家出入りの唐橋村総助が鳩首されていました。処分はこれら天誅と脅迫状を通した尊攘急進派による無言の圧力の結果でしょう。 なお、1月23日には公武合体派近衛関白が辞職して、長州寄りとみなされる鷹司が関白となっていました。また、天誅による脅迫の結果、27日にはやはり公武合体派と目される中山忠能・正親町三条実愛の両大納言が議奏を辞任していました。 関連■テーマ別「天誅と公武合体派排斥2」 参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史料綱要』4(2001/3/29) ■親兵設置問題 【京】文久3年2月13日、肥後藩士森井惣四郎、会津藩公用人を訪問し、急進派公卿対に、親兵の設置などについて予め定論を決めるよう忠告しました。 森井は、先日、急進派公卿らが後見職一橋慶喜に攘夷期限を迫ったことを例にあげ、将軍上洛前にして、彼らの議論の中心は、必ず親兵の設置・皇室の賄料・堂上の知行料となるので、予め定論を決めておくようにと忠告したそうです。 参考:『七年史』一(2001/3/29) ■浪士対策 【京】文久3年2月13日夕刻、総裁職松平春嶽は、前宇和島藩主伊達宗城と近衛忠煕前関白を訪ね、「過激疎暴の徒鎮撫方」(=浪士処分)を密議しました。先日来、近衛前関白から宗城に対して相談があり、近く浪士処分の朝命が下ることになったというので、参殿したそうですが、春嶽の持論を十分述べられぬまま、退出することになりました。 <ヒロ> 浪士対策としては、同月5日に、容保が浪士を攘夷先鋒にすべきという意見書(こちら)を春嶽に出しましたが、春嶽はまず朝議を固めるべきという意見(こちら)で、慶喜・容保らと諮ったうえで、10日に鷹司輔熙宛に浪士処分に対して朝議を固めることを促す建白書を提出していました(こちら)。これとは並行して、宗城-近衛前関白ラインで浪士処分が話し合われていたようです(『伊達宗城在京日記』をGETしたら追加します)。 翌日、春嶽・宗城も含めた二条城の会議において、幕府は、国事周旋をする者を説得して主家に帰参させ、主人のいないものは幕府が扶助する方針を決めます・・・(こちら)。 関連:■テーマ別「浪士対策」 ■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」 参考:『続再夢紀事』一・(2001/3/29) |
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