1月の「今日」  幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

前へ   次へ

文久2年12月9日(1863.1.28)
【京】朝廷に国事御用掛設置
【薩】将軍上洛延期運動(1)大久保利通・吉井幸輔、鹿児島を出発して京都へ
【江】容保、陸路上京へ/慶喜の15日陸路登坂・小笠原の16日の海路登坂決定
【江】松平主税助、浪士取扱に 【他】赤穂藩の家老暗殺事件。

■国事御用係
【京】文久2年12月9日、朝廷は国事御用掛を設置しました。摂家・親王・議奏・伝奏・その他の公卿合計29人が選ばれ、毎月10日間、小御所に集まり、国事を討論することになりました(この後、姉小路公知が加わり、30人となります)。同時に、廷臣に対して、言路洞開の叡旨を宣布し、意見のあるものは御用掛を通じて上申させることになりました。

『徳川慶喜公伝』によれば、設置時のメンバーは以下の通り。なお、同日付『維新史料綱要』では六条有容のかわりに橋本実麗(はしもと・さねあきら)が入っている(黄色は文久3年の禁門の政変で参朝・他行他人面会を禁じられた人物。赤字は都落ち七卿)

近衛忠煕
このえ・ただひろ
関白 勅問御人数 徳大寺実則
とくだいじ・さねつね
中納言 議奏加勢
一条忠香
いちじょう・ただか
左大臣 同上 六条有容
ろくじょう・ありおさ
宰相中将 同上
二条斉敬
にじょう・なりゆき
右大臣 同上 長谷信篤
ながたに・のぶあつ
三位 同上
青蓮院宮(中川宮)
親王 同上 坊城俊克
ぼうじょう・としかつ
中納言 伝奏
鷹司輔熙
たかつかさ・すけひろ
前右大臣 同上 野宮定功
のみや・さだいさ
宰相中将 伝奏
徳大寺公純
とくだいじ・きんいと
内大臣 同上 庭田重胤
にわた・しげたね
中納言
近衛忠房
このえ・ただふさ
左大将 同上 柳原光愛
やなぎはら・みつなる
別当
一条実良
いちじょう・さねよし
大納言 同上 大原重徳
おおはら・しげとみ
左衛門督
中山忠能
なかやま・ただやす
大納言 議奏 河鰭公述
かわばた・きんあきら
少将
正親町三条実愛
おおぎまちさんじょう
・さねなる
大納言 同上 東久世通禧
ひがしくぜ・みちとみ
少将
飛鳥井雅典
あすかい・まさのり
中納言 同上 裏辻公愛
うらつじ・きんよし
侍従
阿野公誠
あの・きんみ
宰相中将 同上 橋本実梁
はしもと・さねやな
侍従
三条実美
さんじょう・さねとみ
中納言 同上 万里小路博房
まりこうじ・ひろぶさ
右中弁
広幡忠礼
ひろはし・ただあや
大納言 議奏加勢 勘解由小路資生
かでのこうじ・すけなり
中務少輔
三条西季知
さんじょうにし・すえとも
中納言 同上 姉小路公知
あねこうじ・きんとも
少将 後に参加

参考:『徳川慶喜公伝』2(2004.1.28)

■将軍上洛延期運動
【薩】文久2年12月9日、薩摩藩士大久保利通(一蔵)・吉井幸輔が、将軍家茂の上洛延期運動のため、鹿児島を出発して京都へ向いました

<ヒロ>
政事総裁職松平春嶽・前土佐藩主松平容同の上京要請(こちら)を受けた薩摩藩国父島津久光は、自身の上京は承諾したものの、将軍の早期上洛には不賛成でした。確固とした国是が定まらないまま上洛しては「必定例の浪人等、公卿を扇動して急激の暴論を唱え、不足の変を惹起すべければ」将軍の上洛を延期し、春嶽・容堂・自分などで、先ず京都の形勢を挽回すべきだと考えたからです。久光は、将軍上洛延期を工作することにし、大久保と吉井に、公武合体派近衛忠煕関白・中川宮(当時青蓮院宮)にあてた建白書(こちら)をもたせ、まず京都に向わせました。

守護職任命運動をめぐって、すでに会津藩に反感をもたれている薩摩藩ですが、将軍上洛延期の動きも、将軍の早期上洛・直接守護を条件に赴任する会津藩にとっては、論外のこととなりますよね。どちらも公武合体派でありながら犬猿の仲になっていく予感・・・^^;。

参考:『島津久光と明治維新』・『大久保利通』・『大久保利通と明治維新』(2004.1.28)
関連:■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」■テーマ別「京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議「薩摩藩の守護職任命運動」「薩摩藩の将軍上洛延期運動」 ■薩摩藩日誌文久2幕末薩摩藩かけあし事件簿

■容保の上京
【江】文久2年12月9日、京都守護職の会津藩主松平容保が、江戸を出立し、陸路京都へ向いました

容保には、7日に将軍家茂から上京の暇が与えられ(こちら)、8日には老中板倉勝静から上京にあたっての注意事項(というより、将軍が翌春早々上洛して直々に京都を守衛するという言質)が渡されていました(こちら)。その翌日の出立ですから、会津藩が前々から出立を準備していたことがうかがえると思います。

参考:『七年史』一(2004.1.28)
関連:■テーマ別「容保上京の経緯」「容保(会津)VS幕閣・春嶽」 ■守護職日誌文久2 

■後見職・総裁職の上京
【江】文久2年12月9日、幕府は、後見職一橋慶喜に15日に陸路登坂、老中格小笠原長行に16日海路上坂を命じました

いったん内定した一橋慶喜・小笠原長行の海路上京について、異論が出たようです。登城した軍艦奉行並の勝海舟は「力を極めて」海路を取るよう説得したようで、「俗論陰に盛にして、朝令夕変ず」と歎いています。

<ヒロ>
最初、両者とも海路による上京が内定していたのに、慶喜だけに陸路上京の幕命が出た経緯は勉強不足でよくわかりません。う〜ん・・・。

参考:『徳川慶喜公伝』2・『勝海舟全集1幕末日記』(2004.1.28)
■浪士組
【江】文久2年12月9日、老中板倉勝静は松平主税助を浪士取扱に任じました

幕府は前日の8日、浪士召抱えを決定していました(こちら)。この日、前土佐藩主山内容堂は、「昨日粗(ほぼ)決定の浪士御抱え亦(また)一日にても早々に仰せ付けられ候方、万々然るべく存じ奉り候」(『新選組史録』引用箇所より。出典不明)との書簡を政事総裁職松平春嶽に送って、早々の実行を促したそうです。小山勝一郎『清河八郎』によれば、そもそも幕議で浪士お抱えが決まったのも容堂の発言で春嶽が決定したのだそうです(浪士組に関しては考察をまとめる予定です)

上記『清河八郎』によれば、主税介は、浪士募集には清河八郎の力が必要だとして、水戸に使者を送りました(当時、清河は水戸に滞在していました)。清河は11日に水戸を発ち、13日に江戸に着くと、同志山岡鉄舟宅に身を寄せたそうです。

参考:『新選組史録』・『清河八郎』(2004.1.28)
関連:■清河八郎年表文久2年
■御陵衛士
【他】文久2年12月9日、赤穂藩で家老の暗殺事件が起りました

一説に御陵衛士となる服部三郎兵衛が関連したといわれる事件なのですが、時間切れです。いずれ「余話」にでも・・・。

前へ   次へ

1月の「今日」  幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ