開国〜江戸開城トップ HPトップ

元治1(1863)

開国開城29:長州の武力東上と禁門の変
(元治1年6-7月)

<要約>

元治1年5月の将軍徳川家茂及び諸候退京後、京都では再び長州系勢力の動きが活発になった。6月5日、三条小橋の池田屋に会合していた長州藩士らが会津藩指揮下の新選組に踏み込まれ、大量に斬殺・捕縛される事件が起った(池田屋事件)。この事件は、既に進発論で固まっていた長州藩を刺激し、長州藩兵は続々と東上、6月下旬以降、京都近郊に屯集して、朝廷に免罪嘆願・会津藩との一戦を嘆願した。しかし、文久の政変及び会津藩を支持する孝明天皇は長州の主張を認めず、禁裏守衛総督である一橋慶喜に長州征討を命じた。7月18日、京都近郊から退去するよう命じられた長州兵は、翌19日、三条実美らとともに率兵東上してくる世子の到着を待たずに京に進軍し、御所に突入したが、蛤門警備の会津藩ら諸藩連合軍に撃退された(禁門の変)。

横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件戻る
 次へ
第一次幕長戦争


幕府/京都
総督・指揮:一橋慶喜28歳 守護職:松平容保30歳 所司代:松平定敬 19歳
老中:稲葉正邦(淀)31歳
幕府/江戸
将軍:家茂19歳 総裁職:松平直克 25歳(〜6月) 老中:水野忠精 33歳
老中:牧野忠恭 老中:板倉勝静(〜6月) 老中:酒井忠績(〜6月)
老中:井上清直(〜7月) 老中:阿部正外(6月〜) 老中:諏訪忠誠(6月〜)
老中格:松前崇広(7月〜)

朝廷 天皇:孝明孝明天皇34歳 関白:二条斉敬 49歳 国事扶助:中川宮40歳


A. 長州藩の失地回復運動(文久3年8月〜元治1年6月)


◆政変後の長州をめぐる状況

文久3年8月の政変後、長州藩は失地回復を求めて雪冤運動を開始した。8月23日、政変の報を請けた藩庁は、取り急ぎ、無罪を訴える嘆願書を家老根来上総に授けて京都に派遣した(入京・嘆願を許されず、10月23日帰国)。今後の方針については、恭順論を主張する保守・穏健派と進発・東上論(武力をもって訴える)を唱える急進・主戦派とが対立したが、9月に入って内訌が起り、藩論は急進・主戦派に統一された。

長州藩は、9月17日、世子定広の武装上京を決定し、10月1日、藩内に「朝政回復」のために「君側の姦」を除くことを藩士に達した(こちら)。一方、中央工作も怠らず、世子上京に先立って藩主父子の「赤誠」を朝廷に達するために、家老井原主計に新たな嘆願書(「奉勅始末」)を授けて西上させた。井原は伏見に入り、入京を嘆願したが、朝廷はこれを許さず、代わりに12月、使者を伏見に派遣して井原の口上を聴取させた(こちら)。翌元治1年1月21日、終に井原は入京を断念して下坂した。

元治元年1月、将軍家茂が再上京し、公武合体派の孝明天皇の信任を受けた。天皇は二度の宸翰において、無謀・軽率な攘夷を批判して、長州・三条実美ら七卿の必罰を命じた。2月8日、朝廷・幕府は、(1)長州支藩及び家老3人の大坂召喚及び勅使による訊問、(2)三条実美らの京都還送、(3)違背すれば征討と決定し、25日、長州藩に支族・家老ら3名の大坂召命を通達した。長州藩に入説された肥後藩等、親長州諸藩が京都召命を主張したため、朝議は一時動揺したが、幕府の意見を容れて大坂召命を再決定し、3月5日、改めて長州藩に通達した。

通達に対して、長州藩は、朝・幕に末家(岩国・徳山・長府領主)ら3名の入京を、また朝廷に対しては新たに三条実美ら五卿の復職・藩主父子いずれかの上京を嘆願したが、朝廷はその要請を聞き入れなかった。その上、5月10日、大坂への勅使派遣も停止し、25日には末家ら3名の上坂停止・幕命を待てと命じたので、長州藩が直接的・間接的に朝廷に雪冤を訴える機会は失われた。

◆世子定広・三家老の進発(率兵上京)決行の決定

長州藩は、朝幕・諸藩に対しては入京嘆願等の雪冤運動を進める一方で、内には武備を整え、元治1年2月15日に布告された宸翰(こちら)の文面に激昂する主戦派をなだめながら、進発の機会をうかがっていた。3月、末家ら3名の大坂召命が決まると、これを期に藩主父子どちらかが率兵・大挙上京することに決したが、19日、在京勢(桂小五郎・久坂玄瑞)から、形勢が有利になりつつあるので、時機を待つよう要請があり、決行を延期した。(参豫会議の崩壊等公武合体派の足並みの乱れや、筑波において、かねてから長州と盟約を交わしていた水戸藩尊攘激派の急進派(天狗党)が挙兵準備を進めていることなどが破約攘夷派に有利だと受取られた)。

長州藩は、改めて朝・幕に末家ら3名の入京を、また朝廷に対しては新たに三条実美ら五卿の復職・藩主父子いずれかの上京を嘆願したが、朝廷はその要請を聞き入れなかった。その上、5月10日、大坂への勅使派遣も停止し、25日には末家ら3名の上坂停止・幕命を待てと命じたので、長州藩が直接的・間接的に朝廷に雪冤を訴える機会は失われた(こちら)

一方、京都では、公武合体派の有力諸候から成る朝廷参豫会議が内部分裂を起こして崩壊して、4月上旬以降、島津久光・松平春嶽等諸侯が相次いで帰国した。5月上旬には将軍も東帰のため、江戸に向かい、京都の幕府側要人には禁裏守衛総督一橋慶喜・守護職松平容保・所司代松平定敬・老中(淀藩主)稲葉正邦が残るだけとなった。尊攘急進派は息を吹き返して、テロ・落書が横行した。国事御用掛に長州シンパの有栖川宮等が任命され(こちら)、因幡藩主催で親長州諸藩の有志が集まり、四国艦隊下関攻撃の際の長州援兵を議論した(こちら)。また、これより先、長州と気脈を通じる水戸尊攘「激派」の急進派(水戸天狗党)が筑波で挙兵して、関東は騒然となり、水戸藩等は朝幕に対して、頻りに攘夷断行(横浜鎖港)を入説した。

5月27日、久坂玄瑞や中岡慎太郎が山口に入り、三条実美や藩主らに京都の事情を報じた。主戦派は、好機到来と、かねてからの計画である世子進発を促した。慎重論を唱える者もいたが、藩庁は進発論を採用し、家老国司信濃・同福原越後に江戸行きを命じ、6月4日、世子の上京を藩内に布告した。そこへ、池田屋事件の第一報が届いた。


B.禁門の変(蛤御門の変)
(元治1年7月)


◆池田屋事件と長州藩の急速上京

先に述べたように、元治1年5月の将軍東帰・諸侯退京後、京都では長州シンパの尊攘急進派の動きが再び活発になった。長州藩士の桂小五郎・久坂玄瑞・吉田稔麿らはひそかに上京し、急進派の諸藩士・浪士と行き来した。彼らは、京都の政治を昨年の8月18日の政変前に戻すことを計画していたが、6月5日にその同志の古高俊太郎が捕縛されて、計画が露顕した。さらに、善後策を話し合うために三条小橋の池田屋に会合していたところを、会津藩指揮下の新選組に踏み込まれて、同志が大量に斬殺・捕縛された(池田屋事件こちら)。

池田屋一報を受けた長州藩は激昂し、既に上京論で定まっていたこともあり、世子及び三家老の急速上京を決定した。6月15日には木島又兵衛の率いる遊撃隊(こちら)、16日には家老福原越後、また真木和泉・久坂玄瑞の率いる諸隊が進発した(こちら)。6月23日には家老国司信濃、7月6日には家老益田右衛門が出陣した。

◆朝廷・在京幕府・諸藩の反応

長州勢の先発隊は、6月22日、23日に、京都周辺に到着した。7月13日に家老国司信濃、14日に家老益田右衛門が兵を率いて到着し、京都を取り囲むように山崎・嵯峨・伏見に布陣した。彼らは諸藩に対して嘆願書を送り、藩主父子の雪冤を訴えた。

6月27日には京都に長州勢来襲の噂が起こった。守護職松平容保は会津藩兵とともに急いで御所に入るとそのまま宿陣し、九門を閉鎖して御所の警備を固めた。朝議が行われ、中川宮や容保は即時討伐を訴えたが、慶喜は討伐尚早・撤兵勧告を論じ、結局、慶喜の論で決着した(こちら)。朝廷は、慶喜に諸事委任の朝命を下し、孝明天皇は慶喜に長州入京不可と容保擁護の宸翰を下した(こちら)。慶喜は、長州側に朝命を伝えて繰り返し撤兵勧告を行ったが、長州勢は偽の朝命だとして聞き入れず、幕閣・諸藩・公卿に頻りに説得工作を行った。

長州勢が標的としたのは8.18政変で長州失脚のきっかけを作り、池田屋事件を起こした新選組の上司である会津藩だった。親長州公卿は、長州の標的となった容保を九門外に出すよう運動をした。長州勢も、その頃頻りに噂された天皇遷幸説の出処(※会津藩想定)糾明を求めた(こちら)。 

8.18政変のもう一方の当事者である薩摩藩は、当初、今回の戦争は「長会の私闘」だとして傍観していたが、国許から援兵が到着したこともあり、7月中旬には討伐に方針を替えた。7月17日、薩摩・土佐・越前藩等の在京諸藩は、速やかな討伐を決議すると、朝幕要路に即時討伐の勅命を周旋し始めた。結果、その日の朝議において、長州に撤兵を命じて拒否すれば追討することに決った(こちら)。翌18日昼前には、朝廷は長州藩留守居を呼出し、同日限りの撤兵の朝命を伝達した。また、慶喜も長州藩留守居に最終通告を行うと、諸藩を配置して、長州勢の進軍に備えさせた(こちら)

一方、洛中の情勢を探索し、近々に衝突が起こることを察した長州勢は、7月17日、男山に参集して軍議を開き、世子定広の着京前に、容保討伐を名義にした進軍を開始することを決議した(こちら)。18日夜、長州勢は、容保を弾劾し、洛外追放・長州による天誅を求める上書を諸藩・所司代に送致するとともに、順次進発を開始した。同じ頃、長州と呼応した有栖川宮と親長州派公卿が急遽参内して容保追放を主張したが、容保を支持する孝明天皇は、二条関白・中川宮ら公武合体派、さらに慶喜を召し出してこれに対抗した(こちら)

◆禁門の変勃発

7月19日未明、伏見で大垣藩が長州勢と戦闘に入ったことを知った慶喜は、急遽孝明天皇に謁し、長州追討の勅許を得た。長州勢が朝敵とみなされることが確定した一方で、親長州派の主張する容保の追放については、慶喜も強硬に反対したため、実現しなかった。その後、容保、所司代松平定敬、老中稲葉正邦ら在京幕府要路、諸侯が藩兵を率いて続々参内し、慶喜の指揮の下、御所の警衛についた。明け方以降、長州勢が御所周辺に達し、蛤門への発砲から築地内外で御所守衛の諸藩兵との間で交戦になったが、激戦の末に敗走し、戦闘は一日で終結した。この戦いで、木島又兵衛、久坂玄瑞は
自決した(こちら)。 続いて洛中・外の残党追討が行われた(こちら)。双方が大砲を使い、また火を放ったため、京都は数日間大火になった(どんどん焼け)。7月21日には山崎天王山に残る長州勢が敗北して真木和泉らが自刃した。長州藩世子定広は、讃岐で長州勢敗北を知って東上を中止し、帰藩の途についた(こちら)

この戦いで長州は「朝敵」となり、7月23日には長州藩追討の朝命が慶喜に下された(こちら)。27日には親長州の宮・公卿の処罰が行われた(こちら)

◆禁門の変後の一会桑関係改善

禁門の変の前、討伐尚早・撤兵勧告を主張する一橋慶喜と即時討伐を主張する会津藩の関係は悪化していた。元治1年7月17日には、長州との戦闘に備えて九条河原に布陣中の会津藩士と新選組が、討伐に慎重な慶喜を「優柔不断で大事を誤る」として、宿舎に乱入して「暴挙」に及ぼうとし、容保の使者・公用人に止められるという騒ぎが起こった。同じ日には、容保も、撤兵説得を続ける慶喜批判の書を異母兄・前尾張藩主徳川慶勝に送り、慶勝の上京を促した(こちら)。慶喜も、後年、「会津の討ってしまえという論はなかなか激しいことだったよ」と回想している。しかし、慶喜は、7月18日から19日の容保追放の朝議において、慶喜は容保を断然擁護して追放に反対し、また、撤兵の最後通告に従わずに進軍してきた長州勢に対しては、御所の戦闘を指揮して、獅子奮迅の活躍をみせた。両者の関係は、劇的に変化し、禁門の変の残党追討が一段落ついた7月23日、容保は、江戸の老中に禁門の変・長州追討令を報じる際、慶喜の「尽力」に言及している(こちら)。慶喜も、容保に対して朝命を心得のために伝達するなど、関係が改善し、以降、朝幕の融和に向けて協調した行動をとるようになった。
西郷隆盛(吉之助)が大久保利通(一蔵)に報じた池田屋事件前夜〜禁門の変
・5/12:公家達は「例の驚怖」の病で「暴客」を恐れていること、近衛前関白父子に護衛を差し向けていること、長州・「暴客」が一橋慶喜の野心を疑っていること、「幕奸之隠策」により薩摩に悪評がたっていること、来月にも外国艦隊が長州を攻撃すれば長州・急進派の「暴威」も衰えるだろうこと等
・6/1:幕府・慶喜が外国の手を借りて長州を抑えようとしているという風説、それは憎むべきことであるという考え
・6/2:(8.18 政変の件で)藩士高崎佐太郎(正風)・高崎猪太郎(五六)が「暴客の徒」に憎まれているので暫く国許に引き留めるよう願い出
・6/6:浪士間における薩摩の評判回復
・6/8:池田屋事件の黒幕が慶喜である説、幕府、(親)長州の双方から味方として期待されているが薩摩は中立の方針
・6/14:池田屋事件・明保野亭事件に係る風説、長州における討幕説、中川宮の辞職周旋、中村半次郎の浪士潜伏
・6/21:一橋家の「内乱」(平岡円四郎暗殺)による慶喜の「暴威」低下の見通し、会津藩と土佐藩の反目等の池田屋事件後の京都の情勢を報じ、薩摩藩の悪評を封じるための商人による外国交易取り締まりを依頼
・6/25:長州の伏見到着とこの「戦争」を「長会の私闘」ととらえ、静観・朝廷守衛に専念する方針をを報知
・6/27:長州の目的は私闘ではなく8.18政変以前に戻す意図、公卿の過半数は長州支持であり、征討もやむなしと報じる
・7/4:京師の情勢・公武の事情を詳報(慶喜への疑念を含む)
・7/9:一橋慶喜の「不断」、慶喜の手柄になる長州撤兵説得の拒否、追討の勅命を奉じた上での長州「駆尽」の決意、今は「会津一手」で戦うべき等の考え
・7/20:禁門の変(「堂上方荷担の御方」が多く、議論が紛々として追討の勅命が下りるのは難しかったが、「長州違勅」については罪状が明白なので色々と手を尽くし、勅命が下ろうというところで変が起こったこと、「薩兵あらずんば危き次第」な状況
高杉晋作
長州藩の主戦派の急先鋒は、木島又兵衛率いる遊撃隊だった。元治1年1月下旬、高杉晋作は、世子毛利定広の命により、彼らの鎮静を説得したが失敗し、在京勢(久坂・桂ら)を連れ戻して京都の事情を説明させようと考え、無断で上京した。しかし、京都では土佐藩中岡慎太郎らと謀り、薩摩藩国父島津久光暗殺計画を企む始末だった。3月下旬、世子らの説得でようやく帰国するが、脱藩の罪で知行は召し上げられて、投獄された。6月には出獄できたが、小父忠太郎預かりとなり、謹慎を命じられた。このため、禁門の変には関わることがなかった。
関連:テーマ別元治1 ■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変 ■一橋慶喜の評判 ■「志士詩歌」池田屋事件 禁門の変(蛤御門の変


ページトップに戻る

横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件戻る
 次へ
第一次幕長戦争

(2018/9/16)

参考:リンク先をご参照ください。

 開国〜江戸開城トップ HPトップ