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元治1(1863)

開国開城27:慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任
と庶政委任の再確認(元治1年3-4月)

<要約>

元治1年3月、朝廷参豫会議の崩壊及び参豫諸候の御用部屋入り辞退によって、京都政局の主導権は幕府に帰した。3月25日、一橋慶喜は将軍後見職を辞して、朝命により、新設の禁裏守衛総督・摂海防御指揮に就任した。A.慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮。一方、守護職松平春嶽は、慶喜・幕閣が旧態依然として、幕政一新が進まないことに失望し、3月21日、幕府に辞表を提出した。4月7日、幕府は春嶽の守護職を解任するとともに、かねてから孝明天皇がその復職を望んでいた松平容保に守護職復帰を再命じた。容保側は、再三固辞したが、許されず、4月22日に再任を受け入れた(B.春嶽の守護職辞任と容保の守護職再任)。有力諸侯が相次いで帰国する中、朝廷は、4月20日、将軍徳川家茂に勅諚を与え、旧来通り、「幕府へ一切御委任」することを明らかにした。将軍は、帰国を許され、5月7日に退京、大坂から海路江戸に戻った(20日着)。京都には、慶喜(総督・指揮)、容保(守護職)、桑名藩主松平容敬(所司代)、及び稲葉正那(老中)が残った。(C.庶政委任の再確認と将軍東帰


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横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件


幕府/京都 将軍:家茂19歳 後見職→総督・指揮:
一橋慶喜28歳
総裁職:松平直克(川)25歳
守護職:松平春嶽(前越前)37歳
→松平容保(会津)30歳
老中:酒井忠績(姫)38歳 老中:水野忠精(出羽) 33歳
所司代:稲葉正邦(淀)31歳
→松平定敬(桑)19歳
→老中:稲葉正那
幕府/江戸 老中:板倉勝静42歳 老中:井上正直 28歳 老中:牧野忠恭 41歳

朝廷 天皇:孝明孝明天皇34歳 関白:二条斉敬 49歳 国事扶助:中川宮41歳

年齢は数えです。


A.一橋慶喜の禁裏守衛総督就任・摂海防御指揮就任
(元治1年3月)


◆慶喜/幕府の内願

●慶喜の希望による幕府の内願
慶喜と春嶽・宗城・久光の対立に起因して朝廷参豫会議が崩壊し、3月9日に朝議参豫が揃って辞表を提出してから間もなく、幕府は、朝廷に対して、慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮(以下、総督・指揮)(*1)任命を内願した。内願に際して、慶喜が総督・指揮に就任すれば、懸案の朝廷尊奉の条々を即日実行すると約束したという(こちら)。

総督・指揮の内願は慶喜の希望によるものであった(こちら)。将軍上洛前にも、慶喜は、越前藩に対し、側近をして、春嶽が守護職に就任すれば、慶喜が後見職を辞して「守衛総督」に就き、長期滞京して公武一和に尽力したいので周旋してほしいと依頼したことがあった(こちら)。慶喜側にとって、この件はかねてからの願望だったといえる。

(*1)「総督・指揮」は任命にあたってつけられた役職名のようで、内願段階では、「守衛総督」「京坂総督」「京摂総督」などの文言が使われている。

●摂海防御強化の重要性・緊急性
京都に守護職・所司代があったのにも関らず、慶喜/幕府が新たに在京ポストの総督・指揮職を新設しようとした背景には、この時期、下記のように、禁裏(京都)守衛を最終目的とする摂海防御の重要性・緊急性が急速に高まっていたことがある。

(1) 摂海防御の朝命と外国船の長州報復の風聞への対応(2月に摂海防御を急務とする朝命が下った上、3月に列国艦隊襲来の報が伝わり、摂海防御の責任者を一刻の猶予もなく設置する必要があった)
(2) 島津久光主導の摂海防御阻止(摂海防御に熱心な久光が、自ら摂海防御の任にあたるつもりであるという風説が流れ、久光の野心を猜疑する人々は外様に任せるのは危険であり、幕府の重職を任じるべきだと考えた)
(3) 朝廷尊奉の実行(安政の5カ国条約による大坂の開市・兵庫の開港期限が迫る中、十分に摂海を防御して禁闕を守衛し、天皇・公卿・市民の安堵を保つことが、「朝廷尊奉の第一義」だと考えられた)

上記ような緊急性を伴う重要事態に適切に対応するには、いざというとき、一々江戸に指示を仰がなくても全権をもって対処できる幕府側責任者が、京都に滞在する必要性があった。しかし、幕府にしてみれば、将軍・老中がいつまでもそろって滞京しているわけにはいかない。かといって、この役目は守護職・所司代の職掌を超えており、既存の在京幕府ポストでは、対応が不可能だった。

幕府に歓迎された後見職辞任
新設のポストに相応しい人材は慶喜だった。長期滞京となると、後見職を兼任することは困難で、総督・指揮就任は後見職辞職とセットになっていた。慶喜の後年の回想によれば、幕府はかねてから慶喜の後見職就任を望んでいなかったので、このことは、幕府にとってかえって好都合だったのだという(こちら)。

◆慶喜の政治的野心への懸念

一方、参豫諸候の宗城・久光は、慶喜の総督・指揮内願を「不容易姦謀」ととらえた(こちら)。特に、宗城の疑念は強く、久光を巻き込んで朝廷に総督・指揮反対を入説するにいたった。宗城は、一橋家当主で固有の軍事力をもたない慶喜が、それを必要とする新設ポストを希望していることに不自然さを感じ、不足分を実の兄弟が藩主を務める水戸藩・因幡藩・備前藩(いずれも鎖国攘夷に熱心で長州に同情的)に頼るのではないかと疑った。また、総督職への就任に伴って後見職を辞することにも着目し、幕府の役職から自由になった慶喜が朝廷に「潜み」、鎖港交渉を幕府に厳しく催促して、人心を掌握し、いずれ天皇を擁して天下に号令しようとするのではないかとまで疑った。

3月20日、宗城は、山階宮を訪ねて慶喜の総督内願の「深意」について注意を促し(こちら)、さらに22日には、近衛家に中川宮・久光と集まって、中川宮・近衛前関白に対し、久光とともに慶喜の任命熟慮を入説した(こちら)。宗城らの入説の結果、中川宮・近衛前関白は、いったん慶喜を「摂海新砲台守衛総督」だけに任命することを決めたが、朝議が紛糾し、結局、慶喜/幕府の内願通りになった。実は、中川宮が慶喜に密かに事前に情報を漏らし、大坂だけでよいかと確認したところ、慶喜が「両地」を主張したのだという(こちら)。

◆禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任

●朝命による就任孝明天皇
朝廷は、3月24日、幕府に対し、慶喜に総督・指揮を命じるよう沙汰を下した。翌25日、慶喜は、朝命により、将軍後見職を解任され、総督・指揮に就任した(こちら)。後見職のときと違い、慶喜を総督・指揮に任命したのは将軍(幕府)ではなく、朝廷であり、将軍(幕府)はそれを追認する形であった。総督・指揮は「朝臣」職の色合いの濃いポストであった」(家近良樹氏『徳川慶喜』)といえる。

●幕府の役人の反応
慶喜の総督・指揮就任について、幕府の役人たちは、「全く大樹公之権ヲ奪候ニ當り、言語道絶(ママ)」だと憤り、慶喜側近の平岡円四郎・黒川嘉兵衛を「両奸」として斬るといきまく者までいたという(こちら)
関連:■テーマ別元治1「慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮就任


B.春嶽の守護職辞任・容保の再任
(元治1年3-4月)


政体一新の蹉跌と春嶽の辞表提出

容保に代わって、守護職に任命された春嶽は、幕議が「因循」では務められないと考えており(こちら)、守護職拝命にあたって、参豫の御用部屋入りによる「政体の一新」(有力諸侯の幕政参加の制度化)を求めた(こちら)。2月16日、幕閣は、久光・宗城の御用部屋入りを認めたが、春嶽の主張する政体一新(あるいは幕政一新)に共感したからではなかった。慶喜は、彼らの御用部屋入りは、春嶽の「守護職の威」を借りたごり押しにより実現したもので、徳川の紀律崩壊の危機とだとらえた(こちら)。その直後、横浜鎖港問題をめぐって慶喜と久光・春嶽・宗城の意見が対立し、慶喜が暴言を吐いて、両者の間には感情的な齟齬が生じた。

春嶽は、慶喜/幕閣に重ねて政体一新を建議したが、老中は旧態依然としていおり、慶喜は冷淡な対応だった(こちら)。また、慶喜は春嶽・久光・宗城を疑って、その尽力を忌避する様子であったという。慶喜・幕府に失望した越前藩は、3月13日、春嶽の守護職辞任・帰国を内決し(こちら)、15日に、慶喜・中川宮に守護職辞退の意を伝えた(こちら)。17日、春嶽は、辞職の内願書を総裁職松平直克に提出した(こちら)。翌18日、内願書を慶喜に差し出しすとともに、中川宮・二条関白・宗城・久光に藩士を遣わして事情を説明させ(こちら)、さらに21日、手続きを整えるために公式な願書を老中に提出した(こちら)

この間、朝廷参豫会議は急速に崩壊し、3月半ばに全員が御役御免になった。3月17日、久光・宗城は、参豫御免を理由に、御用部屋入りを辞退した。(容堂は既に帰国)

◆守護職人事に対する朝廷の圧力

●孝明天皇・二条関白ラインの春嶽解任・容保再任圧力孝明天皇
孝明天皇は、容保の守護職解任・春嶽の就任という人事に不満で、容保の復職を強く求めた。天皇の意を受けた二条関白は、2月24日、慶喜に対し、守護職復職の沙汰を伝えた(こちら)。ところが、一向に復職が実現しないので、3月9日、参内した慶喜をつかまえて、理由を問い詰めて圧力をかけた(こちら)。3月半ばには、川越藩の家老が越前藩を訪ねて、朝幕における春嶽の不評を理由に、春嶽の守護職辞任を勧めたほどであった。3月18日に、越前藩が辞職(内願書)を提出すると、二条関白は、会津藩士を呼び出して、早期の復職を強く促した(こちら)。しかし、これより先、当の容保(会津藩)は、国力疲弊につながる守護職復職を歓迎せず、容保の病を口実に復職辞退を周旋することを決めていた(こちら)

●中川宮・近衛前関白ラインの春嶽留任・滞京希望(慶喜への不安)
一方、宗城・久光の入説によって慶喜の総督・指揮就任に不安を抱いた中川宮・近衛前関白は、春嶽の留任・滞京をを強く希望した。春嶽自身は、旧態依然とした慶喜・幕閣への失望感から辞職・帰国を内願していたが、中川宮らは春嶽が辞任・帰国し、久光も退京すれば、軍事力不足の慶喜が実の兄弟が藩主である水戸・備前・因幡藩(鎖港攘夷派・長州シンパ)を頼り、彼らが勢力を伸ばして、形勢が一転するのではないか(こちら)、また、慶喜には「例の己を恃(たの)む癖」があることから、今後、「気随の挙動」を起こすのではないかと懸念しており、慶喜を掣肘する存在として、春嶽が守護職に留任・滞京することが必要だと考えた(こちら)

●越前・会津両藩に守護職を命ずる折衷案
そんな折り、会津藩から、二条関白に対して、春嶽解任中止の沙汰を出すよう請願があり(こちら)、その結果、越前・会津両藩に守護職を命ずるという折衷案が浮上した。3月23日、朝廷は評議の結果、方針を転換し、両藩に守護職を命じることを決定した(こちら)。翌24日、朝廷は幕府に対して、両藩に守護職を命じるよう通達した(こちら)

◆春嶽解任・容保復職の幕命

●春嶽の守護職解任・帰国
守護職辞職・帰国を強く決意し、既に辞表を提出している春嶽/越前藩は、留任を受け入れず、朝幕に辞職を許容するよう働きかけた。この結果、慶喜の軍事力不足・人柄への不安等から春嶽の辞職に反対していた中川宮らも、3月末には春嶽の留任を断念した(こちら)。朝裁を経て、幕府は、4月7日、春嶽の守護職解任及び非常時の越前藩の上京を命じた(こちら)。春嶽は、翌8日、朝廷から帰国の許可を与えられ、19日に退京・帰国した。

●容保の守護職復職
一方、容保の病・国力の疲弊を抱える容保/会津藩は、3月24日の慶喜の総督・指揮就任にも強い不安を感じ(下記参照)、28日には、容保の軍事総裁職辞任・守護職再任辞退を内願して、復職に抵抗した(こちら)。しかし、再任辞退は認められず、4月7日、幕府は、春嶽の守護職を解任すると同時に、容保の軍事総裁職を罷免し、守護職復職を命じた。会津藩は、容保の守護職辞表や家老の請願書の提出をもって、しばらく抵抗を続けたが、これらは全て却下され、逆に「篤と療養差加、病気快癒罷候はば出勤」するよう命じられた。進退窮まった容保/会津藩は、終に、4月22日、再任を受け入れ、約50日ぶりに守護職に復帰した(こちら)

●容保弟(桑名藩主松平定敬)の所司代就任
会津藩が容保の守護職復帰を固辞し続けていた頃、幕府は、桑名藩主松平定敬(容保弟)を京都所司代に任命した。将軍は特に定敬を召して、容保と協議・尽力せよと命じたという(こちら)

慶喜の総督就任に不安
容保(会津藩)が守護職再任の幕命を固辞した理由は、国力の疲弊以外に、慶喜の禁裏守衛総督就任に対する、以下のような不安もあった。

(1) 慶喜の総督就任により、実の兄弟が藩主であり、長州シンパの鎖港攘夷派である因幡・備前両藩等が影響力を強め、彼らの入説によって長州処分が寛大になり、いずれ長州藩が入京することになって、文久3年の8.18政変(会津藩と薩摩藩が主導)後の体制が覆り、会津に不利になるのではないか、との懸念を抱いた。
(2) 慶喜の気質を考えたとき、慶喜が守護職の「上官」になったのでは、復職しても以前のような精忠を尽くせないと感じた。
詳しくはこちら)
関連:■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題・春嶽の守護職就任問題」「参豫の幕政参加問題」■「覚書9朝廷参豫関連会合一覧(文久3年11月〜元治1年4月)

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C:大政委任の再確認、横浜鎖港断行と将軍東帰
(元治1年4月−5月)


◆公武合体派有力諸侯の帰国

文久3年8月の政変後、朝命により、公武合体派の有力諸侯が次々と上京したが、元治1年3月に朝廷参豫会議が崩壊し、参豫の御用部屋入りが有名無実に終わるなど、諸候の国政参加による政体の一新は実現しなかった。4月中旬以降、彼らは、相次いで、退京・帰国した。旧参豫諸候については、既に2月28日に容堂が帰国していたが、4月11日に宗城、18日に久光、翌19日には春嶽が京都を発った。その他、肥後藩主弟長岡良之助・、阿波藩主蜂須賀斉裕、筑前藩世子黒田慶賛、備前藩主池田茂政、前尾張藩主徳川慶勝らも帰国した。

◆大政委任・政令一途の勅孝明天皇

有力諸侯が帰国していく中、慶喜・幕閣、連署して、庶政委任を含む尊奉18か条を奏聞した(こちら)。4月20日、朝廷は、参内した将軍に対し、「幕府へ一切」委任し、以後「政令」は「一途」に出ることを明言した勅諚を下した(ただし、「国家の大政・大議」は「奏聞」するようにという指示があった)。さらに、朝廷は別紙にて、重要事項四条(横浜鎖港の「成功」・海防整備の「急務専一」・長州処分の幕府へ一任・物価安定)の実現を命じた(こちら)。29日、将軍は参内して請書を提出した(こちら)

将軍が初上洛した文久3年にも、庶政委任の勅諚が与えられた(こちら)が、委任範囲は「是迄通」と曖昧で、事柄によっては直接諸藩に沙汰を下すとも記されていた。政令帰一につながる実効性が不十分で、その結果、政局の混乱は続き、8月18日には禁門の政変が起ることになった。元治1年4月の庶政委任の勅諚は、一切の委任・政令帰一が明確にされている点で、文久3年の勅諚とは異なる。

また、政令帰一自体は、参豫諸候も望むものだった(こちら)。しかし、この年の将軍上洛直後に下された二度の宸翰(こちら)においては、国政における諸候との協力が指示されていたが、今回の勅には、諸藩への言及はない。その意味で、旧来の朝幕関係に基づく公武合体体制を支持するものになっており、彼らの求める政体一新に抵抗してきた慶喜/幕閣にとっては、望ましい結果が得られたといえる。

大久保利謙氏は、庶政委任と同時に、「国家の大政・大議」は「奏聞」するように命じられ、別紙として四課題が示されていたことに着目し、幕府は「政権委任の再確認を追認されながら、逆に朝廷の下位の執行機関化し、しかも実行不可能な課題を背負った」(『歴史体系12 開国と幕末政治』)と分析している。

◆横浜鎖港攘夷断行と将軍東帰

4月29日、朝廷は、請書を提出した将軍に東帰を許可したが、その際、鎖港攘夷の断行及び水戸藩主徳川慶篤への諸事相談を命じた(こちら)。5月2日、将軍は、在京諸候を率いて東帰の暇乞いに参内した。このとき、朝廷は、総督・指揮の慶喜に対して鎖港成功までの滞京、政事総裁職松平直克に対して水戸藩主徳川慶篤と協力しての横浜鎖港尽力、老中稲葉正邦に対して滞京・守衛を命じた(こちら)

将軍は5月7日に二条城を出発して下坂し、摂海を巡察した後、16日、海路東帰の途につき、20日江戸に到着した。実に半年ぶりの帰府であった。
幕府への庶政委任を奏請
これより、先、2月16日に孝明天皇が下した密勅への奉答書で、容保は幕府への庶政委任を請願していた(こちら)
天狗党の筑波挙兵と横浜鎖港攘夷の周旋
元治1年3月27日、水戸藩「激派」の急進派藤田小四郎らが、長州との盟約の下、鎖港攘夷断行を求めて筑波に挙兵した(こちら)。当時、水戸の藩政は「激派」が掌握しており、藩主徳川慶篤や執政の武田耕雲斎は、藤田らを説得の使者を送るとともに、幕府には横浜鎖港断行を強く求め(こちら)、鎖港断行の勅命を得るために使者を京都に派遣した(こちら)。さらに、家老岡部忠蔵を上上京させて二条関白や禁裏守衛総督一橋慶喜(元水戸公子。慶篤の実弟)にも鎖港断行を入説した(こちら)。水戸藩の猛烈な運動もあり、4月29日、朝廷は、滞京中の将軍に鎖港攘夷及び水戸藩主徳川慶篤への諸事相談の勅命を下し、東帰を許可した(こちら)。さらに、5月2日、暇乞いに参内した家茂に対し、政事総裁職松平直克に慶篤と協力しての横浜鎖港尽力を命じた(こちら)。
末家・家老ら3名の上坂停止の朝命
末家・家老ら3名大坂召命の沙汰に対して、長州藩は、朝・幕に末家ら3名の入京を、また朝廷に対しては新たに三条実美ら五卿の復職・藩主父子いずれかの上京を嘆願したが、(長州アレルギーの)朝廷はその要請を聞き入れなかった。その上、幕府へ庶政委任の廉をもって、5月10日、大坂への勅使派遣も停止し、25日には末家ら3名の上坂停止・幕命を待てと命じたので、長州藩が直接的・間接的に朝廷に雪冤を訴える機会は失われることになった。
関連:■開国開城 文久3年「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」■テーマ別元治1「庶政委任再確認」「三港閉鎖問題と将軍東帰」■「覚書9朝廷参豫関連会合一覧(文久3年11月〜元治1年4月)

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禁門の変(蛤御門の変)

注:元治に改元されたのは文久4年2月20日ですが、便宜上、1月1日から元治元年としています。
(リンク先の「今日の幕末京都」は文久4年2月20日から元治1年になっています)

( 2011.1.13, 1.14)

<主な参考文献>
『続再夢紀事』・『会津藩庁記録』・『鹿児島県史料・玉里島津家史料』・『伊達宗城在京日記』『修訂防長回天史』・『昔夢会筆記』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『維新史』・『日本歴史大系 開国と幕末』・『幕末政治と倒幕運動』・『徳川慶喜増補版』・『幕末政治と薩摩藩』(リンク先にも参考文献がのっています)

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