| 元治1(1863) |
<要約>
| 元治1年3月、朝廷参豫会議の崩壊及び参豫諸候の御用部屋入り辞退によって、京都政局の主導権は幕府に帰した。3月25日、一橋慶喜は将軍後見職を辞して、朝命により、新設の禁裏守衛総督・摂海防御指揮に就任した。(A.慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮)。一方、守護職松平春嶽は、慶喜・幕閣が旧態依然として、幕政一新が進まないことに失望し、3月21日、幕府に辞表を提出した。4月7日、幕府は春嶽の守護職を解任するとともに、かねてから孝明天皇がその復職を望んでいた松平容保に守護職復帰を再命じた。容保側は、再三固辞したが、許されず、4月22日に再任を受け入れた(B.春嶽の守護職辞任と容保の守護職再任)。有力諸侯が相次いで帰国する中、朝廷は、4月20日、将軍徳川家茂に勅諚を与え、旧来通り、「幕府へ一切御委任」することを明らかにした。将軍は、帰国を許され、5月7日に退京、大坂から海路江戸に戻った(20日着)。京都には、慶喜(総督・指揮)、容保(守護職)、桑名藩主松平容敬(所司代)、及び稲葉正那(老中)が残った。(C.庶政委任の再確認と将軍東帰) |
参豫会議の崩壊
横浜鎖港問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件
| 幕府/京都 | 将軍:家茂 |
後見職→総督・指揮: 一橋慶喜 |
総裁職:松平直克(川)25歳 |
| 守護職:松平春嶽(前越前) →松平容保 |
老中:酒井忠績(姫)38歳 | 老中:水野忠精(出羽) 33歳 | |
| 所司代:稲葉正邦(淀)31歳 →松平定敬(桑)19歳 |
→老中:稲葉正那 |
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| 幕府/江戸 | 老中:板倉勝静 |
老中:井上正直 28歳 | 老中:牧野忠恭 41歳 |
| 朝廷 | 天皇:孝明 |
関白:二条斉敬 49歳 | 国事扶助:中川宮 |
年齢は数えです。
◆慶喜/幕府の内願
●慶喜の希望による幕府の内願 |
| (1) | 摂海防御の朝命と外国船の長州報復の風聞への対応(2月に摂海防御を急務とする朝命が下った上、3月に列国艦隊襲来の報が伝わり、摂海防御の責任者を一刻の猶予もなく設置する必要があった) |
| (2) | 島津久光主導の摂海防御阻止(摂海防御に熱心な久光が、自ら摂海防御の任にあたるつもりであるという風説が流れ、久光の野心を猜疑する人々は外様に任せるのは危険であり、幕府の重職を任じるべきだと考えた) |
| (3) | 朝廷尊奉の実行(安政の5カ国条約による大坂の開市・兵庫の開港期限が迫る中、十分に摂海を防御して禁闕を守衛し、天皇・公卿・市民の安堵を保つことが、「朝廷尊奉の第一義」だと考えられた) |
◆政体一新の蹉跌と春嶽の辞表提出
容保に代わって、守護職に任命された春嶽は、幕議が「因循」では務められないと考えており(こちら)、守護職拝命にあたって、参豫の御用部屋入りによる「政体の一新」(有力諸侯の幕政参加の制度化)を求めた(こちら)。2月16日、幕閣は、久光・宗城の御用部屋入りを認めたが、春嶽の主張する政体一新(あるいは幕政一新)に共感したからではなかった。慶喜は、彼らの御用部屋入りは、春嶽の「守護職の威」を借りたごり押しにより実現したもので、徳川の紀律崩壊の危機とだとらえた(こちら)。その直後、横浜鎖港問題をめぐって慶喜と久光・春嶽・宗城の意見が対立し、慶喜が暴言を吐いて、両者の間には感情的な齟齬が生じた。 |
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| 関連:■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題・春嶽の守護職就任問題」「参豫の幕政参加問題」■「覚書9朝廷参豫関連会合一覧(文久3年11月〜元治1年4月)」 |
◆公武合体派有力諸侯の帰国
文久3年8月の政変後、朝命により、公武合体派の有力諸侯が次々と上京したが、元治1年3月に朝廷参豫会議が崩壊し、参豫の御用部屋入りが有名無実に終わるなど、諸候の国政参加による政体の一新は実現しなかった。4月中旬以降、彼らは、相次いで、退京・帰国した。旧参豫諸候については、既に2月28日に容堂が帰国していたが、4月11日に宗城、18日に久光、翌19日には春嶽が京都を発った。その他、肥後藩主弟長岡良之助・、阿波藩主蜂須賀斉裕、筑前藩世子黒田慶賛、備前藩主池田茂政、前尾張藩主徳川慶勝らも帰国した。 |
これより、先、2月16日に孝明天皇が下した密勅への奉答書で、容保は幕府への庶政委任を請願していた(こちら)。 |
元治1年3月27日、水戸藩「激派」の急進派藤田小四郎らが、長州との盟約の下、鎖港攘夷断行を求めて筑波に挙兵した(こちら)。当時、水戸の藩政は「激派」が掌握しており、藩主徳川慶篤や執政の武田耕雲斎は、藤田らを説得の使者を送るとともに、幕府には横浜鎖港断行を強く求め(こちら)、鎖港断行の勅命を得るために使者を京都に派遣した(こちら)。さらに、家老岡部忠蔵を上上京させて二条関白や禁裏守衛総督一橋慶喜(元水戸公子。慶篤の実弟)にも鎖港断行を入説した(こちら)。水戸藩の猛烈な運動もあり、4月29日、朝廷は、滞京中の将軍に鎖港攘夷及び水戸藩主徳川慶篤への諸事相談の勅命を下し、東帰を許可した(こちら)。さらに、5月2日、暇乞いに参内した家茂に対し、政事総裁職松平直克に慶篤と協力しての横浜鎖港尽力を命じた(こちら)。 |
末家・家老ら3名大坂召命の沙汰に対して、長州藩は、朝・幕に末家ら3名の入京を、また朝廷に対しては新たに三条実美ら五卿の復職・藩主父子いずれかの上京を嘆願したが、(長州アレルギーの)朝廷はその要請を聞き入れなかった。その上、幕府へ庶政委任の廉をもって、5月10日、大坂への勅使派遣も停止し、25日には末家ら3名の上坂停止・幕命を待てと命じたので、長州藩が直接的・間接的に朝廷に雪冤を訴える機会は失われることになった。 |
| 関連:■開国開城 文久3年「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」■テーマ別元治1「庶政委任再確認」「三港閉鎖問題と将軍東帰」■「覚書9朝廷参豫関連会合一覧(文久3年11月〜元治1年4月)」 |
注:元治に改元されたのは文久4年2月20日ですが、便宜上、1月1日から元治元年としています。
(リンク先の「今日の幕末京都」は文久4年2月20日から元治1年になっています)
( 2011.1.13, 1.14)
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<主な参考文献>
『続再夢紀事』・『会津藩庁記録』・『鹿児島県史料・玉里島津家史料』・『伊達宗城在京日記』『修訂防長回天史』・『昔夢会筆記』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『維新史』・『日本歴史大系 開国と幕末』・『幕末政治と倒幕運動』・『徳川慶喜増補版』・『幕末政治と薩摩藩』(リンク先にも参考文献がのっています) |
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