御陵衛士(高台寺党)とは(史料から浮かび上がる姿)
- 御陵衛士は常陸志筑出身の伊東甲子太郎を盟主として結束した総勢10数名(同志列伝)の志士集団である。(なお、伊東は御陵衛士を「同志」「(親しき)友」「誓いある人」と記しており、新選組のような上下関係はなかった模様)。
- 「孝明天皇御陵衛士」「禁裏御陵衛士」[泉山御陵衛士」「山陵衛士」とも記録される御陵衛士は、朝廷の沙汰によって伊東らに与えられた名称であり、身分上は山陵奉行戸田大和守忠至のお預かりであった(山陵奉行は朝廷の沙汰により新設され、奉行以下に朝廷から微禄が与えられている特殊なポストである)。御陵衛士拝命には、歴代&孝明天皇御陵のある泉涌寺の塔頭戒光寺の湛然長老(前泉涌寺住持)の尽力(朝廷への建白)があったとされる。京都東山高台寺の塔頭月真院に最後の屯所を置いたため、後世、「高台寺党」とも呼ばれる。(*このサイトでは「高台寺党」ではなく「御陵衛士」にこだわっています。新選組一派としての彼らではなく「御陵衛士」として独自の政治活動を行った彼らに注目していること、彼ら自身が孝明天皇の御陵衛士であることに誇りをもっていたと推測されること、当時は「高台寺党」と呼ばれていなかったようであること、などによります*1)。
- 伊東はじめ、御陵衛士は新選組出身である。新選組は元来が「尽忠報国」を目的とした尊王攘夷集団であり、加盟時、伊東と新選組(近藤勇)の政治目的に大きな齟齬はなかったはずである。しかし、政局の変化とともに、「国」(日本国)と幕府(徳川家という「私」)の乖離が明らかになっていったとき、「国」を第一に考える伊東らと、幕府(「私」)にこだわる幕権回復派の近藤らの溝も深まっていったようだ(ゆっくり検証中)。新選組の暴力的側面とも相容れなかったともいう。慶応2年末に新選組総員の幕臣取立てが内定したとき、このままでは志が貫けないと判断し、離脱を決意。しかし、新選組を簡単には分離できず、兼ねてから懇意にしていた戒光寺の湛然長老の仲介(朝廷への建白)で、朝廷から孝明天皇の御陵衛士を拝命すると(こちら)、慶応3年3月13日、話し合った上で円満に分離した(こちら)。(※御陵衛士拝命は分離後との資料もあり)
- 御陵の衛士を暗殺し、その遺骸を路上に晒した油小路事件は朝廷でも騒ぎとなり、新選組を切腹させよという議論にもなったが、実現できないうち、鳥羽伏見戦争で新選組が江戸に去ったため沙汰やみとなった。伊東らの遺体は、新選組退京後、朝廷の沙汰により、孝明天皇の御陵のある泉涌寺の塔頭で、彼等とのゆかりも深い戒光寺に埋葬された。大名にも珍しい盛大な葬送であり、費用は新政府参与(大原重徳と思われる)の役所が出したと伝わる。(通常考えられている以上に、朝廷で評価されていたようだ)。
- 油小路事件で新選組の重囲を逃れた生き残りの同志は、伊東という一種のカリスマ的リーダーを失った後、再び政治活動を展開することはなく、兵力として新政府軍側に取り込まれていった。その多くは、鳥羽伏見戦争を経て、綾小路俊実前侍従(大原重徳の息子)に助力を乞われて赤報隊結成に参加し、二番組(君側)幹部となった。赤報隊は薩摩藩の西郷隆盛の支援を受けて新政府軍(官軍)先鋒として年貢半減を触れながら進軍したものの、年貢半減方針を変えた新政府により、偽官軍として捕縛され、幹部が投獄あるいは処刑されて潰滅した草莽隊である。
活動・方針
- 「御陵衛士」という名称だが、彼らが実際に孝明天皇の御陵の守衛にあたっていたという史料はみあたらない。実際の守衛には、山陵奉行の指示に従って、泉涌寺の塔頭の家臣から選ばれた「守戸役」と呼ばれる人びとがあたっていた。なお、御陵衛士拝命が慶応3年の3月だとすると、4月6日に孝明天皇の百カ日法要が営まれているので、このとき、何らかの形で衛士としての務めについた可能性があるかもしれない。(管理人は、御陵衛士という名称には、孝明天皇の御霊に誠を捧げる者達という意味合いがあったと考えている)。
- 御陵衛士の中心人物である伊東が、大政奉還後(推定)に提出した32条から成る長文の建白書によれば、彼は、一和同心・国内皆兵を基本とし、大開国大強国を国是とする朝廷/公卿中心の政体作りを構想していた。(「大開国大強国」は積極開国による富国強兵策。「大開国」は外国に迫られたからの開国ではなく、日本の国益を考え、開国通商の利点をいかす積極開国のこと。それにより「大強国」をつくろうということ。大開国大攘夷ともいう)。政権基盤として五畿内を朝廷直轄領とし、さらにそこから陸海軍を取りたて朝廷直属の兵力(親兵)を整備するというユニークなものである(大開国を国是としながら、孝明天皇の攘夷の遺志を継承して五畿内だけは鎖港を提言)。そこには、徳川家に代って別の大名が武力を背景に実権を握ったのでは王政復古の意味がないという考えが基底にある。ただし、伊東は、王政復古の過程においては公議・衆議(話合い)を重要視しているし、外交については徳川家臣を参政させることを提案もしており、討幕(=武力倒幕)派だとはいえない。問題解決手段としての武力行使(戦争)はできるだけ避け、挙国一致体制でのりきろうという穏健な思想であり(建白書)、どちらかというと公議政体派に近いといえる。新選組に報復される危険にさらされながら、しかも新選組出身ゆえに王政復古派からは疑念をもたれるという困難な状況のなかの活動だった。(同じ王政復古を目指していても、実質上は徳川幕府にかわって諸藩が政権を担うことを考えていた薩長土の討幕派と、再び武家に政権を委任することを排除し、朝廷が統帥権ももち、実質的にも政権を担うことを構想していた伊東は方向性が違う。藩という有力な後ろ盾のない草莽だからこその思想だともいえる。このへんの朝廷第一志向が、御陵衛士を拝命することや、綾小路前侍従・大原重徳との関係、また薩摩藩から伊東が疑念をもたれることにつながったのではないかと愚考)。
- ↑横井小楠・徳川慶喜・勝海舟・坂本龍馬等の著作のある歴史家の松浦玲氏は、伊東のこの構想を「公卿政権論」と名づけ、伊東が公卿たちのブレインとなり、下働きを務めるつもりだったのだろうと推測している。そして「実現性はともかく、この構想は坂本龍馬の構想を遥かに上回るユニークなものである」と高く評価。(「新選組の功と罪 攘夷から征長に転じた”報国”の限界」『歴史群像シリーズ73 幕末大全 上』)←この情報はウメさんに教えていただきました。ウメさん、ありがとうございましたm(..)m。
- 伊東や毛内監物らの起草による数々の建白書を朝廷に提出したという。油小路事件後、ほとんどの草稿類が新選組に持去られたが、上記建白書(管理人は新政府綱領32ヶ条と呼んでいる)以外に、長州寛大の建白書(長州や幕府の曲直を論じるのではなく、内乱回避のため寛大にという一和同心を基本とするもの)などが伝わっている。また、牧畜養豚を論じて産業開発の必要性を説いたともいう。一説に、英語を勉強していたともいう。32か条の建白書にはフルベッキの話なども盛り込まれており、外国に目を向けていたことは疑いはない。(管理人は伊東は慶応3年3月の長崎滞在中にフルベッキの直話に触れたのではと推測 こちら)
- 京都だけでなく、大宰府、長崎、尾張、長州など各地に出張し、国事の周旋をした。中岡慎太郎、真木外記、土方久元、品川弥二郎などの日記に伊東を始めとする御陵衛士関連の記述が見られる。
御陵衛士の日々の詳細な活動については御陵衛士年表&日誌を御覧ください
*1 御陵衛士研究の草分け的存在である故・市居浩一氏の平成16年の著作は「新選組高台寺党」ですが、管理人が市居氏に直接うかがったところでは、タイトルは出版社の意向だそうです。市居氏は、管理人とお話をされているときは一貫して「御陵衛士」と言われていました。新選組高台寺党なるものは歴史的に存在しませんのでご注意を。 |