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元治年12月13日(1865.1.10)
【大溝】幕府大目付、武田耕雲斎らの嘆願書を降伏書ではないとして退ける。慶喜、改めて討伐を命令
【京】老中松前崇広、京都所司代に対し、京都警衛強化のための上京することを知らせる
【京】小松帯刀、大久保一蔵に書を送り、幕府と慶喜の対立を「面白き事」と報じる

☆京都のお天気:晴 (上田久兵衛日記)
>天狗西上

【大溝】元治元年12月13日(1.10)、加賀藩は、前12日に西上中の水戸浪士武田耕雲斎から受理した一橋慶喜宛の嘆願書・始末書を慶喜の本陣に提出しましたが、幕府大目付滝川播磨守らは、真の降伏書ではないとして受け取りませんでした。

また、大目付は、加賀藩をはじめ諸藩に対して、どんな嘆願の筋があろうとも、幕府に一度敵対した「賊徒」は残らず討ち取るべしという禁裏守衛総督一橋慶喜の命令を達しました


(達書のてきとう書き下し)
賊徒共嘆願筋の儀を以て加州初め段々手配の模様に相聞え候。右様の儀取合、要撃の機会を失候ては一大事に及ぶべきは勿論、仮令如何様の嘆願筋に候共、一旦 公辺御人数(=幕軍)へ敵対候者共に付、加州始め其他諸藩へ申諭、早々手筈の上残らず討取候様致すべき旨、中納言殿仰せられ候段、申達候。 以上。
  十二月十三日  織田一蔵、由比図書、滝川播磨守

<ヒロ>
建前上、天狗党に強硬姿勢を崩さない慶喜ですが、後年、本音では降伏を望んでいたと述懐しています。当時、朝幕の離間を狙う薩摩藩が、天狗追討諸藩に対して、慶喜が武田耕雲斎らの討伐を望んでいないとの説を触れ回っており、それを打ち消すためにも、嘆願というかたちの降伏を許すわけにはいかなかったのだと思われます。

<おさらい>
元治1年11月1日、京都の一橋慶喜を頼って朝廷に攘夷の素志を訴えるために西上を始めた耕雲斎らは、諸藩との衝突を避けて間道を通り、12月11日に越前新保(敦賀)に到着したが、前方の葉原駅には加賀藩が在陣していた。耕雲斎は、加賀藩に使者と書を送って西上の目的(嘆願)と諸藩に敵意のないことを伝えさせたが、加賀藩の返答は、慶喜加勢で出張しているため一戦するしかないというものだった。耕雲斎らは、議論の結果、自分たちが西上してきたのは尊攘を大義として至情を慶喜に訴えるためであり、その慶喜の先鋒である加賀藩に抗戦するのは本意ではないと決し、加賀軍に慶喜宛の嘆願書・始末書を差し出した(こちら)

参考:『徳川慶喜公伝史料篇』ニ(2018/9/15)
関連:■「幕末水戸藩」主要事件元治1年■テーマ別元治1水戸藩/天狗諸生争乱

>老中松前崇広の率兵上京(幕府の一橋慶喜連れ戻し計画)

【近江(草津)】元治元年12月13日(1.10)、西上中の老中松前崇広は、京都所司代に書を復して、江戸から、一橋慶喜の出張で警備の手薄な京都に速かに入って警衛するよう命じられたため、15日に着京すること、若年寄立花も、長州行きを中止して上京を命じられたことを知らせました。

(松前崇広書簡のてきとう書き下し)
昨十ニ日付の刻付、今十三日、田河村休へ相達し、拝見いたし候。・・・朝廷より御用筋あらせられ、拙者儀お召しに相成るべき旨、内々関白殿下より御噂の由、之より表向き仰せ出さるる思し召し候故心組み迄に仰せ越され候條、委細承知致し候。・・・脱走賊徒今庄辺に屯集の旨、右に付、一橋殿御出張其外云々仰せ越され候儀、これまた承知致し候。昨夜一橋殿御使に滝川播磨守参り、段々仰せ脱せられ候条も之有り、すでに明日は拙者事も出張申すべく手配に之有り候次第、然る処、石部宿(=東海道53次51番目の宿)休、江戸表同列(=老中)より刻付書状相達し、一橋殿御出張にて諸家人数その他付属の官軍等も召し連れられ候間、御地(=京都)の處、甚御手薄に相成候条相聞え、上(=将軍)にも深く御心配あらせられ、早々拙者儀御地へ罷り出、御警衛向万事心付相勤むべき旨仰せ付けられ候間、明日は大津駅へ一泊、明後十五日早御地へ着致すべき候条・・・お知らせ申す。誠に江府にても殊の外御心配にて速に上京候様仰せ付けられ候。・・・賊徒追討の方出張申さず旨は則一橋殿へ申し上げ候。今般は軍装の外平服等も一切持ち越し申さず候間、この段は御含み迄に申し遣わし候。立花出雲守(=若年寄。軍艦で西上中)も長州表御用御免になられ、御地へ罷り出候様仰せ替えらるるの旨も、同列より申し越し候間、御心得迄に申し遣わし候。・・・

  十二月十三日  松前伊豆守
  松平越中守様
 猶々本文の次第肥後守へも御通し下さるべく候・・・。

<ヒロ>
老中松前崇広は11月19日に西上を命じられ(こちら)、11月23日に江戸を出立し、中山道を通って西上していました(こちら)。長州表の御用が目的だとされていますが、その裏の目的は、海路西上予定の若年寄立花出雲守とともに、水戸の血筋で「非常の大胆、専不羈の御志」である一橋慶喜を京都から遠ざけ、江戸へ連れ戻すことだとされています(こちら)。ところが、その慶喜は、12月3日に天狗党追討のために退京し、大津に宿陣していました。崇広が進路を変えて上京するのはいわば予定通りといったところでしょうか。(立花も12月7日、大目付・目付とともに改めて上京を命じられています)。

ちなみに、11月12日の老中の事務担当決定で、松前は、本庄宗秀とともに、京都御警衛大坂表砲台築立掛を命じられていました。禁裏守衛総督・摂海防御指揮たる慶喜にか取って変わることを見越しての人事だったのかもですね。

なお、慶喜の江戸召喚の噂は、10月下旬には京都に届いており、守護職松平容保が幕府に異を唱えていました(こちら)。11月下旬には、薩摩藩家老小松帯刀が、慶喜と面談し、幕府による一会桑の江戸召喚&朝廷軽蔑回帰阻止には、老中取り換えか諸藩・朝廷と連携した政変を起こすしかないと勧めていました(こちら)。

参考:「会津藩庁記録」(綱要DB 元治1年12月15日条 No87−89)(2018/9/15)
関連:■テーマ別元治1「一会(桑)VS在府幕府首脳

>薩摩藩の朝幕離間策・嫌疑
【京】元治元年12月13日(1.10)、薩摩藩家老小松帯刀は、国許の大久保一蔵に書を送り、その中で、老中松前崇広・若年寄立花の西上の目的は、天狗党と内通の疑いのある慶喜詰問であるとの江戸からの情報を伝えるとともに、両者の争いを「面白き事」と述べました。

(小松帯刀書簡の関連部分のてきとう訳)
閣老松前伊豆守様、若年寄立花飛騨守様、長州表への御軍令お達しのため御出張の予定で、すでに今日大津を御通行になった。歩兵隊二千人ばかり召し連れられているとのこと。関東からの情報では、長州出張とは名目で外に趣意があり、「一橋公水人へ御一味相成今通にては不相済候間、橋公へ迫候賦」で、当月から正月にかけては橋公のあたりは「何とか申場」に到るようだ・・・「橋公と幕との争に何ぞ此方より関係之筋にも無之、面白き事」である。この松前候は是非長州方面に御出でになると存じる。以前高崎(左太郎・正風)を通して申し入れた長州処置を、今回、(征長)総督が他に御達しになるやに思われる。吉川家の江戸屋敷も依然の通りお返しになるという。

<ヒロ>
小松は、幕閣が、慶喜と天狗西上組との内通を確信・問題視しているという情報を得ていたんですね。この頃、上にも書いたように、薩摩藩士が、天狗追討諸藩に、慶喜が武田耕雲斎らの討伐を望んでいないとの説を触れ回っていましたが、これは、やはり、慶喜と幕府の離間をより助長するための策略だったのかもですね・・・(慶喜には悟られていますが)。

それにしても、小松って、ついこの間は、慶喜に対して、江戸連れ戻し計画を防ぐために、大藩の力を借り、朝命を奉じて政変を起こしてはどうか、みたいなことを言っていましたが、これも、やはり、離間策の一つだったんですねえ。黒い・・・(悪い意味ではなく)。

参考:『大久保利通関係文書』三p212、『波山始末』(2018/9/15)

【京】同日、薩摩藩士海江田武次(信義)は、国許の大久保一蔵に書を送り、薩摩藩への嫌疑や薩会の離間策が起っているが、それらは嫉妬から起っているもので、自分たちには天下に恥じるものはないと、報じました。

え?

参考:『忠義公史料』三p629(2018/9/15)
関連:テーマ別元治1■薩摩藩の朝幕離間策・嫌疑

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