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元治2年1月8日(1865年2月3日)
【越前】松平春嶽、山階宮へ書を復し、将軍の急速上洛による国是決定が急務であると説く。
【越前】松平春嶽、伊達宗城へ書を復し、朝幕融和のためには、有力諸侯召集は将軍上洛後にすべきと述べる。
【京】この日頃、尾張藩士若井鍬吉、有力諸侯召集につき、一橋慶喜及び近衛忠房の同意を得る、
【江】老中松前崇広、着府。

元治2年1月9日(1865年2月4日)

【京】若井鍬吉、近衛忠房・小松帯刀と会し、征長7候の召集で合意。
【江】若年寄立花種恭、着府。

◆1/6(2.1)【長州】奇兵隊等諸隊挙兵
☆京都のお天気:晴陰入夜陰及暁雨下 (嵯峨実愛日記)
>将軍上洛問題
【越前】元治2年1月8日(2.3)、前越前藩主松平春嶽は山階宮へ書を復し、長州処分に関わらず、将軍の急速上洛による国是決定が急務であると述べました。

(関連部分のてきとう訳)
・・・長州の儀は、越前守(=征長副将の越前藩主松平茂昭)より、先便にて、いよいよ「伏罪降参自判之證書書」を尾張前大納言へ提出したと申し越しました。伏罪となったからには、幕府より朝廷へ長州処分をお伺するでしょう。長州はたとえどれほどの削封の譴責でも暇を出す家来が出るでしょう。糊口に支障がでれば「飢渇之窮迫」から「浮浪」となってまた変乱が生じる可能性もあると存じます。そのへんも朝廷から幕府へ仰せ出されてもよいのではないでしょうか。暇を出された家来共は「幕壬生浪士新徴組」などの如き扱いにて当分扶助してはいかがかと存じます。…(略)・・・国事については・・・長州の落着に関わらず、「大樹速ニ上洛今後之御国是取極候事乍恐第一」と存じます。

<ヒロ>
将軍上洛・国是決定は春嶽のかねてからの意見ですが、その背景には伊達宗城の周旋がありました・・・↓

参考:『続再夢紀事』四p9-12(2019/1/1)
関連:■テーマ別慶応1将軍上洛問題

>有力諸侯召集問題
■長岡良之助(肥後)⇒伊達宗城(宇和島)の周旋
【越前】元治元年1月8日(2.3)、前越前藩主松平春嶽は前宇和島藩主伊達宗城へ書を復し、将軍上洛による朝幕一致の国是決定が第一であることに同意しましたが、有力諸侯召集については将軍上洛後が朝幕のために望ましいと述べました。

(書簡の関連部分のてきとう訳)
・・・折々の飛脚で伝承したところでは、大膳父子も開悟(ママ)し、「第一吉川之忠謀勇略」で謝罪降伏の自判の証書を総督府へ提出して戦期が猶予になり、止むを得ざる時勢かつ座上の空論かは存ぜぬが、小倉(=副将府)から申し越すには、「督府甚因循」で、一人も人材がなく、「丁寧着実」の田宮如雲(=尾張藩家老・総督参謀)一人が執事の様子である。如雲なる者は決断力がない方で、老生もかねて懇意にしており人物はよく存じているが、彼一人で他は誰もいないため、「因循」になっていると考えられる。
(上記山階宮宛書簡で言上した内容を伝える)
将軍家が速やかに登京し、「第一今後之御国是天幕御一致決定」の件は千々万々同意である。何分、「芋公(=島津久光)・成山(=肥後藩主弟長岡良之助=細川護美)・容堂閣下等御出京・御輔賛第一」だが、いよいよ御上洛となれば、まず芋公始め、朝廷よりの召命は宜しからずと存じる。その訳は、有志の列公を御上洛前に召されれば見方を朝廷でこしらえてお待ち受けすると申すようにては、幕府の執政らは押し付けられたように存じ、かえって御為にならないと存じる。それよりは将軍家御上洛の上、皇上が親しく事情・今後の国是を御垂問になり、賀陽(=中川宮)・山階の両宮始め関白殿・前殿下・内府公・右府公等執政も御尋問の上、よくよく「幕之形勢見込」をお聞きの上、芋公始め「有志之列公」の件を御懇談になり、「天幕和熟」の上召されれば、事が因循によって遅延しようとも、後々のところ天幕の御為ともなり、早く決着すると愚考仕る。・・・天下万民物価騰貴を始め、航海親交云々等、何分にも確定がなくてはならない。・・・
(天狗西上について)

<ヒロ>
この書簡は、12月15日付の宗城書簡(長岡良之助の国事急務策への協力を求めるものこちら)への返事になります。春嶽は「天幕御一致」「天幕和熟」「天幕之御為」と、朝幕の融和に重点を置いているところが特徴的かなと思います。

同じ時期、有力諸侯召集については、総督府・尾張藩が動いています。こちらも長岡良之助が裏にいるようですが、さらに,朝幕離間を画策する薩摩藩・西郷吉之助もいるのです・・・↓。

参考:『続再夢紀事』四p9-12(2019/1/1)

■尾張藩の周旋
【京】元治元年1月8日(あるいはその前)、征長総督に先立って上京した尾張藩士若井鍬吉は禁裏守衛総督一橋慶喜に面会し、肥後藩主弟細川(長岡)良之助・薩摩藩士西郷吉之助の書状を見せて有力諸侯の召集を入説したところ「甚同意」を得たといいます

そこで、近衛忠房(内大臣)も訪ねて入説したところ「甚同意」だったので、薩摩藩家老小松帯刀を召すよう願いました。

翌1月9日忠房に召された小松も「同説」になったので、彼らの間では、征長諸侯召集を口実として、7候(肥前・鍋島閑叟、肥後・長岡良之助、薩摩・島津久光、筑前・黒田長知、因州・池田茂徳、備前・池田茂久)を召集することで意見が一致したそうです。

(1月19日に鍬吉が大坂の越前本陣で語った話のてきとう訳)
「今後之天下ノ為之事」は、橋公へ鍬吉が拝謁して申上げたところ「甚御同意」だった。則ち、大島吉之助・肥後良之助様のお手紙の写しをご覧にいれたところ「甚御同意」だった。また、陽明殿(近衛忠房・内大臣)に拝謁して申し上げたところ、これまた「大御同意」だったので、小松帯刀をお呼びになりお聞かせになるよう申し上げたところ、(1月)9日に帯刀を召され、御前にて鍬吉も一緒にお聞きになられたところ「御同説」になり、「大御歓」びであった。右諸侯御召集の御趣意については、「長征之諸侯」御召集とし、肥前閑叟、肥後良之助、松平大隅守、筑前候、備前・因州等、宰相様の7人とすることで同意した。

(おさらい)
鍬吉は、去る12月18日に小倉の征長副将府(越前藩本陣)を訪れ、田宮如雲とともに慶喜に有力諸侯召集を説得する決意を示していました(こちら)

<ヒロ>
慶喜を説得するにあたって長岡良之助と西郷吉之助の書状(写し)をみせたというので、両名の働きかけを受けた周旋だったのかもしれません。

有力諸侯の上京は良之助の持論で、良之助の書状の内容は宗城や久光に送ったものと同じではないかと思います(こちら)。西郷の書状については探せませんでしたが、彼も有力諸侯会議を提案したとすると、9月11日に初めて会った勝海舟の有力諸侯上京・国是決定論の影響ではないかかと思います。ちなみに、同じ日、肥後藩士長谷川仁右衛門も勝と会っていて、勝は長谷川にも有力諸侯の上京を論じています(こちら)

鍬吉は薩摩藩を信頼しているのですが、総督府や西郷吉之助に猜疑心を抱く慶喜が、鍬吉の周旋に本心から同意したのか、今の時点でちょっとよくわかりません。(そして、薩摩藩を嫌疑している肥後藩京都留守居役上田久兵衛がこの動きを歓迎するとは思えないです・・・)

参考:『続再夢紀事』四p9-12(2019/1/1)
関連:「テーマ別慶応1」将軍進発・有力諸侯召集問題

>老中松前崇広の率兵上京
【江】元治2年1月8日(2.3)、一橋慶喜の江戸連れ戻しのために率兵上京していた老中松前崇広が、役目を果たさぬまま帰府しました。老中水野忠精に面会して京都の事情・将軍上洛を論じましたが、水野からはなだめられ、かえって登城を見合わせるよう言われたそうです。

崇広が1月12日に松平容保・定敬に記した手紙によれば、これより先、崇広の上京の首尾について、老中諏訪忠誠・牧野忠恭・酒井忠績は大いに懸念し、目付木村芥舟に大磯で出迎えさせましたが、崇広が木村の問いに何も答えませんでした。そこで、彼らは木村を再び派遣し、品川で止まって沙汰を待つよう伝えさせましたが、これに憤慨した崇広は、逆に日程を詰めて、この日江戸につくやいなや、老中水野忠精に会いに行き、将軍上洛の必要性を論じましたが、種々なだめられ、しばらく登城を見合わせるよう言われたそうです。

ただし、在府の薩摩藩士柴山良助の1月29日付の報告書には、崇広は1月8日に品川に宿泊し、9日に着府の予定だったところ、川崎駅で、帰府の上は登城を差し控えるよう通達されたため、8日は品川に宿泊せず、同夜、「寂然」と着府し、そのまま登城しなかったと書かれています。

(おさらい)
元治1年11月19日、幕府は老中松前崇広に対し、長州表の御用のための率兵西上を命じた(こちら)。崇広は23日に兵を率いて陸路西上した。真の目的は上京・慶喜の江戸召喚だったとされる(こちら)。しかし、慶喜は、天狗党追討のため、12月3日に退京していた。12月13日、草津に到着した崇広は、所司代に対し、慶喜留守中の京都警衛強化を理由とした急遽上京を知らせた。崇広の上京は、天狗党との内通の疑いを慶喜に糺すためだと噂された(こちら)。崇広は12月15日に入京したが、18日、朝廷は、崇広への応対は慶喜帰還まで見合わせることを決定した。この間、容保・定敬は崇広に面談して、将軍進発促進のための東帰を説得した(こちら)。二条関白・中川宮もこれに加わり、12月23日、崇広は、容保・定敬に対し、東帰して将軍進発に尽力することを誓うと(こちら)、慶喜の帰京と入れ違いで、12月24日に京を出立した(こちら)

【江】翌1月9日、松前老中同様に率兵上京していた若年寄立花種恭が着府しました

在府肥後藩士の手紙によると、種恭も13日から「不快」を理由に登城をやめたそうです。実際は、京都で将軍上洛を請けあったのが響いたのではないかと噂されました。

(おさらい)
一方、種恭は、12月7日に改めて上京を命じられ 10日に江戸を出立、20日に海路着坂し、22日に着京、23日に入京した。しかし、翌24日に先発して上京していた松前崇広が慶喜に会わぬままに東帰してしまった。26日に、二条関白に慶喜東下の許可を内願したものの、却下され(こちら)、役目を果たせぬまま、27日に退京していた(こちら)

参考:『京都守護職始末』2p148、1月16日付小笠原一学宛鎌田軍之助書簡(綱要DB慶応1年1月8日条No46)、『越前藩幕末維新公用日記』p173、『玉里島津家史料』三p64(2019/1/2)
関連:■テーマ別元治1老中松前崇広・若年寄立花種恭の率兵上京 ■テーマ別慶応1「本庄・阿部老中の率兵上京

>御陵衛士前史
※以下、2000年にupしたものです。後に衛士となる阿部十郎(こちら)がでてくるので残しておきますね。

【坂】元治2年1月8日、新選組谷三十郎、谷万太郎兄弟は、万太郎の道場の弟子である高野十郎等とともに、大阪道頓堀のぜんざい屋石蔵屋に土佐浪士4人を襲撃しました。しかし、うち3人は外出中で、残っていた大利鼎吉と乱闘となり、大利を斬殺したそうです。

<ヒロ>
襲撃メンバーのうち高野十郎は、のち御陵衛士に加盟する阿部十郎の変名です。阿部は新選組初期の入隊者ですが、池田屋事件前後に横暴を極める近藤に反発して脱走していましたが、浪人への詮議が厳しいので剣の師である谷万太郎のところに身を寄せていたそうです。脱走者である阿部は、しかし、のちに新選組に再加盟し、伍長にまでなります。谷が老中板倉勝静と縁があったから問題がなかったのだと阿部は回想しています。(阿部隆明(十郎)談『史談会速記録』)

ちなみに、脱走者阿部の再加盟は、「脱走して局中法度により切腹した」という副長山南敬介の死後のことです。つまり、局中法度はよくいわれるような絶対的なものではなく恣意的に運用されていた・・・あるいは山南の死当時〜阿部の再加盟当時までには「局を脱するを許さず」の局中法度は存在せず、山南の死のほんとうの理由は「脱走の罪による切腹」ではなかった・・・という可能性もあるかもですね。

参考『新撰組始末記』・『維新土佐勤王史』(2000/2/3、2001/2/3)

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