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元治年12月18日(1865.1.15)
【京】朝廷、松前老中への応答は一橋慶喜帰還まで見合わせることを決定。
【京】会桑、松前に面談し、将軍進発促進に東帰を説得
【小倉】尾張藩士若井鍬吉、越前藩士酒井十之丞に対し、慶喜を訪ねて薩摩・肥前等の有力諸侯召集を説得する決意を表明。
【江戸】幕府、勘定奉行小栗忠順を軍艦奉行に任命

☆京都のお天気:晴陰天気似昨日(嵯峨実愛日記)
>老中松前崇広の率兵上京(幕府の一橋慶喜連れ戻し計画)
【京】元治元年12月18日(1.15)、朝廷は、上京中の老中松前崇広への「応答」について、近江に出陣中の一橋慶喜の帰還まで見合わせることを決定しました。

<ヒロ>
二条関白から正親町三条実愛が聞いた話です。おそらく、前17日に、慶喜が二条関白に遣わした使者(一橋家家臣川村恵十郎)と打ち合わせた結果なのでは、と思います。

同日、関白二条斉敬は、議奏正親町三条実愛に対し、老中松前崇広が、会津藩・桑名藩との面談して京都の事情を承知し、将軍進発尽力に東帰するようだと話しました。


<ヒロ>
慶喜不在の間、会桑が二条関白と連携して頑張ってます。なお、『京都守護職始末』によると、松前老中は、上京前、幕府が衰退に陥ったのは、諸侯の意思や進退に遠慮して徒に逡巡し、「祖宗の大法」に則って「政治を強力に進めないからだ考えていたそうです。幕閣・幕臣のなかには守護職松平容保が京都から公武一和を主張するのも、朝廷に阿り、幕府に不利なようにするものと猜疑する者がありましたが、松前老中は、その筆頭だったとそうです。(松前崇広は外様大名から老中に上り詰めているので、よけいに幕威回復にこだわっていたのかもですね)

(おさらい)
幕府は、11月19日、老中松前崇広・若年寄立花種恭に対し、長州表の御用のための西上を命じた(こちら)。松前老中は23日に兵を率いて陸路西上した(立花は12月10日に海路西上)。真の目的は上京・慶喜の江戸召喚だったとされる(こちら)。ところが、慶喜は、天狗党追討のため、12月3日に退京していた。12日、大津に宿陣中の慶喜は、二条関白に書を送り、西上してくるに上京の含みがあることを知らせ、会津・桑名と相談することを求めた。13日、松前老中は草津に到着し、所司代に対し、慶喜留守中の京都警衛強化を理由とした急遽上京を知らせた。松前老中の上京は、天狗党との内通の疑いを慶喜に糺すためだと噂され、薩摩藩小松帯刀は幕府と慶喜の対立を面白いと評した(こちら)。松前老中は歩兵部隊を率いて15日に入京した(こちら)。17日、慶喜は二条関白に使者と書を送り、上京中の老中松前崇広への警戒を示した(こちら)

参考:「嵯峨実愛日記」(綱要DB 12月20日条 No85)『京都守護職始末』2p137−138(2018/9/23)
関連:■テーマ別元治1一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

>有力諸侯召集問題
尾張藩の周旋
【小倉】元治元年12月18日(1.15)、越前藩士酒井十之条を訪ねた尾張藩士若井鍬吉は、上京して禁裏守衛総督一橋慶喜に会い、「天下統一ノ人心ヲ合不申候而者叶申」こと、それは慶喜橋の尽力次第であることを言上し、「橋公ノ命ヲ以薩肥抔之有力之藩を合候事、当節之急務」だと論議するつもりだと、決意を述べました

<ヒロ>
この意見は、同じく小倉に滞陣中の肥後藩主弟長岡良之助の持論(こちら)と似ているので、肥後藩から何らかの働きかけがあったのかも・・・。

参考:『幕末維新越前藩公用日記』p128-129(2018/12/30)
関連:■「テーマ別慶応1」有力諸侯召集問題

>幕府の人事
【江戸】元治元年12月18日(1.15)、幕府は、勘定奉行駒井朝温を大目付に、大目付松平康正を勘定奉行に、勘定奉行小栗忠順を軍艦奉行に任命しました。(綱要)

<ヒロ>
小栗って勘定奉行として有名だと思うのですが、11月10日の勝海舟の軍艦奉行罷免(こちら)を受けて、一時的に軍艦奉行を務めていました。この人事について、在府の薩摩藩士柴山良助は、12月27日付の在京小松帯刀宛書簡で、小栗は「随分働当有之候人之よし、全体才略ニ任せ諸事改革向ニ大ニ趣意有之、閣老間ニ忌憚ニ触れ候様事」だと報じています。

参考:『忠義公史料』三p641(2018/9/23)

その他の主な動き
・【長州】長州藩、英国商船より銃器等を購入
(「攘夷」を叫んで幕府を困らせながら、裏ではちゃっかり英国と結びついている長州藩です)

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