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元治年12月20日(1865.1.17)
【京】朝廷、禁裏守衛総督徳川慶喜に、速かな天狗党処置の完了・東帰を命令。
【坂】若年寄立花種恭、海路着坂
【萩】恭順:巡検使、山口城破却を視察し、萩着/

◆12/19(【長州】恭順巡検使(総督名代石河光晃・幕府目付戸川鉾三郎)、山口着/【萩】萩藩庁、急進派(武備恭順派)の藩士前田孫右衛門ら七名を斬刑

☆京都のお天気:晴陰 (嵯峨実愛日記)

>天狗西上
【京】元治元年12月20日(1.17)、朝廷は、出陣中の禁裏守衛総督徳川慶喜に対し、速かな天狗党の「相応」の処置の完了・帰京を命じました。

その内容は「浮浪之徒」(=武田耕雲斎ら)の処置のため、請願があって、止むを得ず出陣を命じたが、降参したと聞くので、「相応之裁判」をつけ、早々に上京せよ、というものです。

<おさらい>
元治1年3月に挙兵した筑波勢を中心とする約800名は、幕府・諸藩の連合軍に敗れ、京都の一橋慶喜を頼って朝廷に攘夷の素志を訴えることに決し、11月1日、元水戸藩執政・武田耕雲斎を総帥として西上を始めた。しかし、慶喜は、当時、江戸の幕府首脳から耕雲斎らと内通しているとみられることを恐れていた。11月末、慶喜は追討のための出陣を朝廷に願い出た。朝廷は難色を示したが、慶喜が懇願し続けるのでついに許可した(こちら)。12月3日、慶喜は追討軍を指揮して京都を出立し、大津に宿陣した。耕雲斎らは、諸藩との衝突を避けて間道を通り、12月11日に越前新保(敦賀)に到着したが、前方に布陣する加賀軍から慶喜が追討軍主将であるを知った。議論の結果、自分たちが西上してきたのは尊攘を大義として至情を慶喜に訴えるためであり、その慶喜の先鋒である加賀藩に抗戦するのは本意ではないと決し、加賀軍に慶喜宛の嘆願書・始末書を差し出した(こちら)。しかし、慶喜は嘆願書を降伏書ではないと退け、加賀藩・諸藩に改めて「賊徒」の討伐を命じた(こちら)。討伐期限の迫る12月16日、耕雲斎らは加賀軍に降伏書を差し出していた(こちら)

参考:『徳川慶喜公伝 史料篇』ニp232(2018/9/22)
関連:■「幕末水戸藩」主要事件元治1年■テーマ別元治1水戸藩/天狗諸生争乱
>幕府による一橋慶喜の江戸連れ戻し計画
【坂】元治元年12月20日(1.17)、幕府から一橋慶喜の江戸連れ戻しの内命を受けた若年寄立花種恭が、海路着坂しました。(綱要)

(おさらい)
幕府は、11月19日、老中松前崇広・若年寄立花種恭に対し、長州表の御用のための西上を命じた(こちら)。松前老中は23日に兵を率いて陸路西上した(立花は12月10日に海路西上)。真の目的は上京・慶喜の江戸召喚だったとされる(こちら)。ところが、慶喜は、天狗党追討のため、12月3日に退京していた。12日、大津に宿陣中の慶喜は、二条関白に書を送り、西上してくる松前老中に上京の含みがあることを知らせ、会津・桑名と相談することを求めた。13日、松前老中は草津に到着し、所司代に対し、慶喜留守中の京都警衛強化を理由とした急遽上京を知らせた。松前老中の上京は、天狗党との内通の疑いを慶喜に糺すためだと噂され、薩摩藩小松帯刀は幕府と慶喜の対立を面白いと評した(こちら)。松前老中は歩兵部隊を率いて15日に入京した(こちら)。17日、慶喜は二条関白に使者と書を送り、上京中の老中松前崇広への警戒を示した(こちら)。18日、朝廷は松前老中への応答を慶喜帰還まで見合わせることを決定し、守護職松平容保・所司代松平定敬は松前と面会して、将軍上洛実現のための東帰を背説くした(こちら)

関連:■「テーマ別元治1」一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

>第一次幕長戦争
■長州藩の恭順と内乱
【萩】元治元年12月20日(1.17)、長州恭順巡検使(総督名代石河光晃・幕府目付戸川鉾三郎等)は、山口新城の破却を視察後、萩に入りました。(綱要)

<ヒロ>
最終的に、山口城は一部破却されただけなので、巡検使といっても撤兵の名目を整えるのが目的だったような・・・。

(おさらい)
12月5日、長州藩(保守穏健派の掌握する萩藩庁)は征長総督徳川慶勝(前尾張藩主)に、藩主父子の謝罪書・総督の令達の請書を提出しており(こちら)、8日、慶勝は諸藩の重臣を呼び出し、長州藩主父子恭順待罪、五卿の筑前移転、山口城破却を告げるとともに、長州藩処分意見書の提出及参集を慰労しました。慶勝は、12月11日に、尾張藩家老石河光晃を名代とし、参政千賀与八郎及び幕府目付戸川鉾三郎等を随従させて、長州藩恭順の状況を巡検させること決しました。巡検使は12月14日に芸州を出立し、19日に山口に到着しました。この間、12月15日夜には急進派(武備恭順派)高杉晋作らが下関で挙兵して藩庁に反乱を起こし、19日、藩庁は、かねて投獄していた急進派の前田孫右衛門ら七名を処刑していました。

【岩国】元治元年12月20日薩摩藩士西郷吉之助・税所長蔵及び筑前藩士建部武彦・喜多岡勇平等が、長州支族岩国領主の吉川監物(経幹)に面会しました。

西郷らは、監物に、宗藩の鎮静に尽力するよう説きましたが、萩の藩庁が前田孫右衛門等七士を処刑した報に接し、失望して去ったそうです。この際、監物は、西郷に刀一振を贈り斡旋を感謝したそうです。(綱要)

関連:■「テーマ別元治1」第一次幕長戦(元治1)(2018/9/22)

>御陵衛士前史
【横浜】元治元年12月20日(1.17)、後に御陵衛士となった伊東甲子太郎らの同志・大村安宅が横浜で切腹したそうです。


この一件に関し、篠原泰之進らの人相書きが京都にまで廻ってきたことがあるそうです(秦林親談『史談会速記録』)

<ヒロ>
大村は伊東らの上京に同行していましたが、神奈川の関において、横浜での過去の攘夷活動の露見を恐れて、山道をに入ったといわれています。伊東は関宿で「いかにせん思いはつのるますかがみみがけどくもる別れ路の空」という歌を詠んでいます。わたしは、これは大村安宅を気遣った歌だと思います。(意訳:どうすればいいのか。(友への)積る思い(=心配・不安)は、みがいてもみがいてもくもってしまう真澄鏡のように打ち消そうとしても増すばかりだ。あの路を別ったときのくもり空のように)。同志を「友」と呼んで大切にした伊東らしい歌だと思っています。

参考資料:「残しおく言の葉草」(原本こちら)、『史談会速記録』(2001/1/17)

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