「今日」トップ 元治1年12月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

◆12/20へ  ◆12/22へ

元治年12月21日(1865.1.18)
【近江】一橋慶喜、武田耕雲斎等の降伏を容れ、加賀金沢藩に預ける。
【萩】巡検使、藩主父子の謹慎上京視察。

☆京都のお天気:晴陰 (嵯峨実愛日記)

>天狗西上
【近江(海津)】元治元年12月21日(1.18)、一橋慶喜は、武田耕雲斎ら天狗党の降伏を受け入れ、加賀藩に身柄を預けました。

慶喜は、降伏を受け入れた事情を、後年、次のように述懐しています。
あれはね、つまり攘夷とか何とか色々いうけれども、其実は党派の争なんだ。攘夷を主としてどう斯うという訳ではない。情実に於ては可哀そうな所もあるのだ。併し何しろ幕府の方に手向って戦争をしたのだ。そうしてみると其廉で全く罪なしとはいわれない。それで、其時は、私の身の上がなかなか危い身の上であった。それでどうも何分にも、武田のことを始め口を出す訳にはいかぬ事情があったんだ。降伏をしたので加州始めそれぞれへ預けて、後の御処置は関東の方で遊ばせということにして引上げたのだ。(明治42年10月の談話)
武田耕雲斎が降伏をした。若し助けると言い出すと、(自分の身が)とてもちゃんとして居る訳にいかない。というものは、水戸の奸党(=保守門閥派・市川派)の方へ幕府では肩を持って居る。天狗という方は皆討ってしまえというのだ。そうでなくても私を関東へ呼下そうとして居る処へ、武田始めが来て、少しでもそれを助けようという気振が見えれば、すぐにやって来るのだ。どうせ何といっても武田は安全という訳にはいかない。それで誠に気の毒だが、どうせ言っても助からぬのだ。助からぬ者を救おうといい出しても何にもならぬ。それをやると自分自身がやられる。併し、如何に何でも、自分の手に殺すということは誓って出来ない。そこで加州へ降伏した。降伏だけは承知した。(明治43年5月の談話)

<ヒロ>
・・・・・・。

<おさらい>
幕府・諸藩の連合軍に敗れた天狗党のうち、筑波勢を中心とする約800名は、京都の一橋慶喜を頼って朝廷に攘夷の素志を訴えることに決し、11月1日、元水戸藩執政・武田耕雲斎を総帥として西上を始めた。しかし、慶喜は、当時、江戸の幕府首脳から耕雲斎らと内通しているとみられることを恐れていた。11月末、慶喜は追討のための出陣を朝廷に願い出た。朝廷は難色を示したが、慶喜が懇願し続けるのでついに許可した(こちら)。12月3日、慶喜は追討軍を指揮して京都を出立し、大津に宿陣した。耕雲斎らは、諸藩との衝突を避けて間道を通り、12月11日に越前新保(敦賀)に到着したが、前方に布陣する加賀軍から慶喜が追討軍主将であるを知った。議論の結果、自分たちが西上してきたのは尊攘を大義として至情を慶喜に訴えるためであり、その慶喜の先鋒である加賀藩に抗戦するのは本意ではないと決し、加賀軍に慶喜宛の嘆願書・始末書を差し出した(こちら)。しかし、慶喜は嘆願書を降伏書ではないと退け、加賀藩・諸藩に改めて「賊徒」の討伐を命じた(こちら)。討伐期限の迫る12月16日、耕雲斎らは加賀軍に降伏書を差し出し(こちら)、17日に投降した。12月20日、朝廷は、慶喜に対し、降伏した「浮浪之徒」の「相応之裁判」の完了と速やかな帰京を命じていた(こちら)

参考:『続再夢紀事』三、『昔夢会筆記』p85,196(2018/9/22)
関連:■「幕末水戸藩」主要事件元治1年■テーマ別元治1水戸藩/天狗諸生争乱

【近江(海津)】元治元年12月21日(1.18)夜、一橋慶喜は、前宇和島藩主伊達宗城に書を復し、征長総督徳川慶勝の長州処分への不満、上京中の老中松前崇広の「底意」に関する懸念などを知らせました。

(慶喜の書簡のてきとう訳)
・・・防長御処置については、種々の風評があり、何分要領を得ず、痛心していたところ、御書中で、追々の手続きが明瞭に分かり、感謝に堪えない。尾総督も「何角大任之儀、且軍事ニ堪候輔弼も乏しく」、ただただ「多議ニ困却」したのではないかと察し申す。野生(=自分)も、(宗城が)兼ねがね御心配の水府脱走人の件で、当月三日発京、北江州梅津まで出張し、五、六日前に既に一戦の手筈だったところ、一同降伏に及んだため、約千五六百人を残らず加州へ預け、追って関東の御沙汰を待つつもりでひとまず決着をつけ、一両日中に帰京する心得である。(宗城の長州処置に関する)御見込みは委曲殿下へ申し上げるようにいたす。

また、(将軍)御進発その他関東の事情は、帰京後、上京中の閣老松豆州(=松前崇広・伊豆守)へ応接するつもりだが、同人の「底意」はどのようなものか計り難い。今回の野生の出張(天狗党追討)について「関東にては品々議論も御座候よし。扨々(さてさて)世時不如意」である。・・・

<ヒロ>
慶喜は、尾張藩には軍事面の適切な補佐がいないと書いていますが「だから薩摩藩の大島とやらにつけこまれたんだよ」っていう心の声が聞こえそうです。これは、伊達宗城の書簡に対する返事なのですが、宗城の書簡の内容がどのようなものか探せませんでした。ただ、宗城は、12月14日に島津久光に宛てた手紙では、進撃を停止した征長総督府を「姑息」だと歎息しているので、その線だとは思います(その陰に薩摩藩がいるのですが・・・宗城がそれを知らぬふりで久光に手紙を書いているのかどうか。殿様間の手紙って、どこまで本音でどこから探り合いなのか、ちょっと謎です)。

松前老中については、京都で主張を変えて、将軍進発のために急遽東帰するという説(こちら)を聞きこんでいたと思いますが、その「底意」が信用できず、自分で直接確認したい模様です。実際、翌22日には、松前に対し、自分の帰京まで出立を待つように求める書状を送っています。

参考:極月廿一日夜付伊予守殿宛中納言書簡『徳川慶喜公伝 史料篇』ニp230-231、『島津久光公実紀』ニp304-305(2018/9/22)

>第一次幕長戦
■長州藩の恭順

【萩】元治元年12月21日(1.18)、長州恭順巡検使(総督名代石河光晃・幕府目付戸川鉾三郎等)は、藩主父子の謹慎状況を視察しました。(綱要)

関連:■「テーマ別元治1」第一次幕長戦(元治1)(2018/9/22)

◆12/20へ  ◆12/22へ

「今日」トップ 元治1年12月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ