「今日」トップ 元治1年12月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

◆12/21へ ◆12/23へ

元治年12月22日(1865年1月19日)
【近江】一橋慶喜、朝廷による早期帰京の沙汰に請書を提出
【近江】一橋慶喜、老中松前崇広に書を送り、自身の帰京までの滞京を求める
【京】若年寄立花種恭、入京
【萩】征長総督の長州恭順巡検使、帰途へ

☆京都のお天気:天遠晴(嵯峨実愛日記)

>天狗西上
【近江(海津)】元治元年12月22日(1.19)、禁裏守衛総督一橋慶喜は、朝廷による早期帰京の沙汰に対し、請書を提出し、明23日に出立すると述べました。

(慶喜の伝奏宛て請書のてきとう訳)
・・・賊徒(=耕雲斎ら)の降伏につきましては、この上の処置は関東から申し越してくるまで、暫時加州に預かるよう申し付けるつもりで、昨日大小監察を敦賀に出張致させました。その結果次第で、明23日当初(=海津)を出立し、上京する手筈でございましたところ、御沙汰(.こちら)がございましたので、結果に関わらず、明23日に当初を出立仕ろうと存じ奉ります。・・・

<おさらい>
元治1年3月に挙兵した筑波勢を中心とする約800名は、幕府・諸藩の連合軍に敗れ、京都の一橋慶喜を頼って朝廷に攘夷の素志を訴えることに決し、11月1日、元水戸藩執政・武田耕雲斎を総帥として西上を始めた。しかし、慶喜は、当時、江戸の幕府首脳から耕雲斎らと内通しているとみられることを恐れていた。11月末、慶喜は追討のための出陣を朝廷に願い出た。朝廷は難色を示したが、慶喜が懇願し続けるのでついに許可した(こちら)。12月3日、慶喜は追討軍を指揮して京都を出立し、大津に宿陣した。耕雲斎らは、諸藩との衝突を避けて間道を通り、12月11日に越前新保(敦賀)に到着したが、前方に布陣する加賀軍から慶喜が追討軍主将であることを知った。議論の結果、自分たちが西上してきたのは尊攘を大義として至情を慶喜に訴えるためであり、その慶喜の先鋒である加賀藩に抗戦するのは本意ではないと決し、加賀軍に慶喜宛の嘆願書・始末書を差し出した(こちら)。しかし、慶喜は嘆願書を降伏書ではないと退け、加賀藩・諸藩に改めて「賊徒」の討伐を命じた(こちら)。討伐期限の迫る12月16日、耕雲斎らは加賀軍に降伏書を差し出し(こちら)、17日に投降した。12月20日、朝廷は、慶喜に対し、降伏した「浮浪之徒」の「相応之裁判」の完了と速やかな帰京を命じ(こちら)、21日、慶喜は、耕雲斎らの降伏を受け入れて加賀藩に身柄を預けた(こちら)

参考:『徳川慶喜公伝 史料篇』ニp232-233(2018/9/23)
関連:■「幕末水戸藩」主要事件元治1年■テーマ別元治1水戸藩/天狗諸生争乱

>一橋慶喜の江戸召喚問題
■老中松前崇広・若年寄立花種恭の率兵上京
【近江(海津)】元治元年12月22日(1.19)、一橋慶喜は、急遽東帰を決めた老中松前崇広に書を送り、天狗追討出陣後の経緯について、詳しく幕府に伝えたいので、自分の帰京(26日頃)まで滞京するよう求めました。


(松前伊豆守宛一橋中納言書簡のてきとう訳)
寒天のみぎり、この度は遠路ご苦労千万に存じる。ことに拙者留守中、京地御守衛も御心得、御入京の由、訳て御大義のことと遠察いたす。・・・御用の筋があり御帰府になるという話を伝承いたしたが、賊徒の処置ぶりも大略目処が立ったので、拙者も明日は帰陣し、26日頃には着京の心得である。出張以来の沿革形勢を詳しく関東へ申し上げたいので、御用筋(が何か)は心得ぬが、拙者の着京まで暫時御滞京するわけにはなるまいか。・・・

<ヒロ>
老中松前崇広は、12月15日に、一橋慶喜の留守で手薄になった京都の警衛を名目で入京していました(こちら)が、上京後、守護職松平容保、所司代松平定敬、さらに二条関白、中川宮(当時賀陽宮)に説諭されて、朝幕の融和、そのための将軍進発に尽力するため、急遽東帰することを決めていました(こちら)。「御用の筋」はそのことを差します。松前老中が翌23日に容保・定敬に差し出した極秘書状も参照してくださいね。

参考:『徳川慶喜公伝 史料篇』ニp232-233、『京都守護職始末』2p137-141(2018/9/23)

【京】元治元年12月22日(1.19)、肥後藩邸の会議において、老中松前崇広に「手を下スの論」と「静観の論」が交わされましたが、留守居上田久兵衛の主張する静観論に落ち着きました。

<ヒロ>
「手を下ス」が具体的に何を指すのかは不明です。何か乱暴なことなんでしょうか??松前老中が将軍進発に尽力する気になったことは、肥後藩には伝わっていなかったのかもしれません。(ちなみに、久兵衛は、小倉在陣の藩主弟長岡良之助の書状を近江出陣中の一橋慶喜に届けるために、12月15日〜21日まで京都を留守にしていました)

参考:上田久兵衛日記『幕末京都の政治と朝廷』(2018/9/23)

【京】元治元年12月22日(1.19)、若年寄立花種恭が入京しました。(綱要)

<ヒロ>
立花は、元々、11月19日、松前老中と同じ日に西上を命じられていました(こちら)が、12月7日に改めて上京を命じられ、実際に江戸を出立したのは12月10日でした。海路、着坂したのは20日。陸路で先発した松前と連携して慶喜の連れ戻しをする予定だったと思うのですが、12月15日に着京した松前は、江戸にいた頃と考えを変え、将軍進発促進のための東帰を決めています。(2018/9/23)

***
(おさらい)
幕府は、11月19日、老中松前崇広・若年寄立花種恭に対し、長州表の御用のための西上を命じた(こちら)。松前老中は23日に兵を率いて陸路西上した(立花は12月10日に海路西上)。真の目的は上京・慶喜の江戸召喚だったとされる(こちら)。ところが、慶喜は、天狗党追討のため、12月3日に退京していた。12日、大津に宿陣中の慶喜は、二条関白に書を送り、西上してくる松前老中に上京の含みがあることを知らせ、会津・桑名と相談することを求めた。13日、松前老中は草津に到着し、所司代に対し、慶喜留守中の京都警衛強化を理由とした急遽上京を知らせた。松前老中の上京は、天狗党との内通の疑いを慶喜に糺すためだと噂され、薩摩藩小松帯刀は幕府と慶喜の対立を面白いと評した(こちら)。松前老中は歩兵部隊を率いて15日に入京した(こちら)。17日、慶喜は二条関白に使者と書を送り、上京中の老中松前崇広への警戒を示した(こちら)。18日、朝廷は松前老中への応答を慶喜帰還まで見合わせることを決定し、守護職松平容保・所司代松平定敬は松前と面会して、将軍上洛実現のための東帰を説得した(こちら)

関連:■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

>第一次幕長戦
■長州藩の恭順

【萩】元治元年12月22日(1.19)、長州恭順巡検使(総督名代石河光晃・幕府目付戸川鉾三郎等)は、萩を発って帰途につきました。(綱要)

<ヒロ>
名ばかり巡検使。高杉晋作ら武備恭順派が反乱を起こしているというのに、さっさと切り上げ・・・。

関連:■「テーマ別元治1」第一次幕長戦(元治1)(2018/9/22)

◆12/21へ ◆12/23へ

「今日」トップ 元治1年12月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ