1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年12月4日(1863.1.23)
【江】勅使三条実実・姉小路公知、早々に攘夷・親兵設置を決定・布告し、
攘夷の策略・期限を翌春までに言上するよう伝える。/
【江】後見職一橋慶喜に大坂湾警備視察の西上の幕命

■勅使東下&攘夷奉勅
江】文久2年12月4日、勅使三条実美・姉小路公知は登城して、将軍家茂と二度目の会見に臨み、<勅諚の趣を早々評決の上、諸大名に布告するように。攘夷の策略ならびに拒絶の期限は列藩と衆議を尽した上で叡慮を伺うように。これは、日数を要することなので、速やかに衆議を集め、年内もしくは明早春にも言上すべきように>と口頭で沙汰を伝え、奉答を催促しました。

<ヒロ>
勅使は、11月27日に登城して勅諚を伝宣しました(こちら)が、29日、慶喜による饗応の席上、速やかに攘夷を布告するよう求めていました。しかし、そのときには、<来春、将軍上洛の上で布告するつもりだ>と断られていました。慶喜は将軍に先発上京し、朝廷に開国を入説するつもりだったので、その行動を縛ることになる布告は避けたかったようです(こちら)。逆に、そのことを察している勅使にとっては、速やかに布告をさせることが重要になってきます。12月3日(前日)、春嶽と会見した勅使は、重ねて布告を要望し、<布告するはずだ>との言質を得ていました(こちら)。この日の勅使の要求は、これを受けてのものではと思います。

参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2004.1.23、1.27)
関連:■テーマ別:「攘夷勅使の東下」、「国是決定:攘夷奉勅VS開国上奏

■後見職・総裁職の先発上京
江】文久2年12月4日、後見職一橋慶喜に対して、大坂警備視察(大坂表警衛向御見置)のために上坂し、時宜によって上京するようにとの幕命が下りました

さらに、同日、大番頭松平康正(因幡守)・書院番頭渡辺孝綱(肥後守)・小姓番頭土岐頼徳(大隈守)・講武所剣術師範役男谷信友(下総守)・講武所頭取滝川元似(主殿)に随行が命じられました。(8日には大目付岡部長常(駿河守)も随行を命じられました)。

<ヒロ>
勅使は慶喜の上坂計画について意見を保留していましたが(こちら)、前日の3日に、回答を催促されたときには異議は示しませんでした。これを受けて、正式な幕命が出たのだと思います(こちら)

幕府が当初考えていたのは摂海防禦のための率兵上京(実際は武力による京都の急進派制圧)でした(こちら)が、この日に出た幕命は、警備視察とトーンダウンしていますよね。これは、幕府は、結局、総裁職松平春嶽の提案した、薩摩藩の島津久光の上洛を促し、公武合体派会議を開いて国是を決定するという、幕薩連合策を採用したから(こちら)だと思いますが、慶喜の「視察結果」(=開国論のための下準備結果)によっては、将軍が「摂海防禦」のために(=武力制圧のために)大兵を率いて上洛するという含みも残されているのではないでしょうか??

参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2004.1.23、1.27)
関連■テーマ別「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議

■開国開城:「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策

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