1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
■別勅使東下&攘夷奉勅 【江】文久2年12月5日、幕府は攘夷の勅諚を奉承しました。しかし、親兵設置は拒否しました。 この日、将軍家茂は勅使三条実美・姉小路公知に対して、<勅諚の趣、畏まりました。策略等の儀は幕府に御委任になりましたので、衆議を尽くし、上京の上、委細を言上いたします>(意訳by管理人)という奉答書を提出しました。それには「臣家茂」と署名されていました。 また、親兵設置の沙汰については、<家茂、征夷の重任にあたり、右近衛大将をも兼任の上は、不肖ながら堅固に(京都)守衛の職掌を務めるつもりです。尚、不足にも思われれば、諸藩より(守衛の兵を)召し出すこともできますが、外夷を掃攘するには皇国全土の警衛も肝要であり、列藩には専ら国力を養わせ、九州は誰々、奥羽は誰々というように藩鎮の任を専心させるのが妥当だと存じますので、この旨をご理解いただくようお願いいたします。尚、(京都)守衛の方略などは、来春早々上洛の上、つぶさに言上いたします>(意訳by管理人)と答え、婉曲に拒絶しました。 ●おさらい:開国上奏VS攘夷奉勅:おさらい 文久2年9月20日、攘夷督促のために新たな勅使を東下させることになり、朝廷は三条実美を別勅使・姉小路公知を副使に任命しました(こちら)。勅使は10月12日に京都を発ちました(こちら)。 これより先、幕府は、6月に将軍家茂の近日上洛による公武一和を布告していましたが(こちら)、9月7日には明春の将軍上洛を布告しました(こちら)。懸案の攘夷については、同月16日、後見職の慶喜が先発上京し、開国がやむをえない理由を上奏する方針が決まりました(こちら)。 ところが、総裁職の春嶽がこれに異を唱えました。春嶽は、かねてから、現在の条約は押し付けられたもので、国家の益にはならないから、決戦覚悟で条約を破棄し、その後、全国の大小名を集めて国是を評議し、公議に基づく自主開国をすべきだと考えていました。政治顧問の横井小楠の発案です。春嶽は、19日、幕議にこの決戦覚悟の破約攘夷論を持ち出しましたが、老中らは条約破棄はできないと反対しました(こちらやこちら)。25日には、今度は小楠を伴って慶喜の説得を試みましたが、やはり、同じことでした(こちら)。翌26日、春嶽は、今度は、老中らに閏8月末に長州藩に下りた攘夷の沙汰を示しましたが、彼らはなおも破約攘夷に異議を唱え、逆に春嶽サイドが長州に雷同しているのではないかと疑う始末でした(こちら)。 相前後して慶喜の出立が10月3日と内定しました。春嶽は、このまま慶喜が上京して開国を上奏しても、その目的が達せられないどころか、異論が朝野に紛糾し、ついには天下の安危にも徳川の興廃にも閲するだけだと考え、総裁職辞任を決意し、27日、登城を停止しました(こちら)。 春嶽の代わりに動いたのは小楠でした。小楠から説明を受けた側用取次・大久保忠寛(一翁)は、条約破棄よりもその後の自主開国に重きがあることを理解し、老中らを説得することにしました。9月30日、忠寛から説明された老中は尤もだと納得し、春嶽の破約攘夷論でまとまりかけましたが、慶喜が断固反対し、「既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らんとする」ための開国論を打ち出しました(こちら)。慶喜の意見の大意は次の通り。
後で忠寛から慶喜の開国論を伝え聞いた小楠は、 慶喜の「卓見と英断」に物も言えないほど驚きました。実は慶喜の意見は小楠がひそかに考えていたことと同じだったからです。小楠は、慶喜が若年だからと「第一等の議」でははなく「姑息未練の議論」(=決戦覚悟の破約攘夷論)を進めてきたことを過ちだったと反省し、春嶽に(中根雪江経由で)登城再開を勧めました。春嶽も、「天地の公道に基き国家百年の計を立つる事」は素志であると、翌10月1日に登城して慶喜の深意を確かめると、その意見に賛同しました(こちら)。こうして、幕府の方針は、ようやく、慶喜の開国上奏論でまとまりました。 ところが、そこへ、慶喜の上京猶予の朝命が届き(こちら)、3日に予定されていた慶喜の出立・上京は延期されることになりました(こちら)。慶喜が上京を見合わせている間、幕議は再び変転しました。 慶喜の開国上奏に同意した春嶽は、朝廷が開国論を受け入れない場合は幕府は政権返上(大政奉還)する覚悟を定め、その覚悟をもって人心を鼓舞すべきだと、慶喜に提案しましたが(こちら)、慶喜は曖昧な回答をして、御用部屋の評議にかけることはありませんでした。春嶽は、慶喜の「既に幕府をなきものと見て、日本全国の為を謀らんとする」決意に疑いを持ち、慶喜の意見は「幕府の私権を図る因循説」だったと結論づけ、むしろ破約攘夷の叡慮を尊奉すべきだと考え直しました。その上、東下してくる勅使の待遇改善に慶喜や老中が消極的なのをみて、幕府には朝廷尊崇の意がないと見限り、幕府を批判する意見書を提出して、登城を停止してしまいました(こちら)。 今回、春嶽の代わりに動いたのは前土佐藩主山内容堂でした。容堂は、慶喜・春嶽らと同様、本来は開国派でしたが、現藩主山内豊範が攘夷別勅使の護衛として東下してくる上、朝廷から攘夷奉勅を周旋するよう命ぜられていました。容堂は、幕府首脳に対し、今回の勅使に開国の趣旨を述べれば、勅使は議論もせずに即帰京するかもしれず、そうなれば関西は大乱になる形勢だと警告しました。さらに、征夷大将軍が当然の職務である攘夷を行わないのであれば、「攘夷の朝議は攘将軍」となりかねない、とまで言いました(こちら)。容堂の脅しともとれる入説に、ついに慶喜・老中らも屈し、10月20日、幕府は攘夷奉勅を決めました(こちら)。 ところが、本音は開国論の慶喜はこの状況には大いに不満で、10月22日、自分には「攘夷の定見」がないので重任が務まらないと、後見職辞表を提出しました(こちら)。勅使の江戸到着が間近に迫る中、朝命に任命された後見職・総裁職がともに辞表提出・登城停止という事態に、老中たちはあわてました。事の重大さに、幕府幹部だけでなく、容堂や自身も辞表提出中の春嶽、さらには長州藩世子までが慶喜の説得に回りました。結局、勅使の品川到着前日の26日、慶喜は、辞意を撤回しました。春嶽の<貴卿の職掌は、叡慮に基づき台命も下された事である。一身の都合のみをもって強いて登城しないのは「勅旨を蔑如し、台命を忽諸」するものである>という言葉でが効いたのです(こちら)。11月2日、幕府は改めて攘夷奉勅を決議しました(こちら)。 勅使は江戸に到着しましたが、将軍の病により、勅使の登城・勅諚伝宣はすぐには行われませんでした。 この間、攘夷奉勅に納得できない慶喜は、11月10日、病と称して登城を停止すると(こちら)、15日には、再び後見職の辞表を提出しました(こちら)。今度は、老中や春嶽の説得にも、攘夷奉勅は「浮浪の姦計」にはまるだけだと応じませんでした。しかし、勅使登城前日の26日になって、将軍から相談したいことがあるから来るようにと直命があり、ようやく登城しました(こちら)。27日には勅諚も伝宣されて(こちら)、さすがにあきらめたのか?その後は、これまで通り、登城しています。 ●おさらい:親兵設置 文久2年10月5日、薩長土有志連署により朝廷に親兵設置が建議され、これを受けた朝廷は、同年11月27日、別勅使三条実美の伝宣した勅諚により、幕府に親兵設置を命じました。親兵は朝廷に兵権を返す一歩ともなりますが、親兵を出す藩にとっては、有事に朝廷を支配できることが可能になります。幕府は親兵設置を婉曲に拒否することになりました。 参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』・『維新史』・『徳川慶喜 増補版』(2004.1.27, 2011.5.4) 関連:■テーマ別:「攘夷勅使の東下」「国是決定:攘夷奉勅VS開国上奏」「親兵設置問題」■開国開城:「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 ■大赦 【江】文久2年12月5日(1863.1.24)、幕府は、水戸藩に対し、勅諚(戊午の密勅)奉承を許しました。 参考:・『徳川慶喜公伝』・『維新史』(2004.1.27) 関連:■「水戸藩かけあし事件簿」■「開国開城」「安政5〜6:戊午の密勅と安政の大獄」 「安政6〜万延1(1859〜60):勅書返納問題と桜田門外の変」 ■「テーマ別」「安政の大獄関係者の大赦・処罰」 ■坂本龍馬 【江】文久2年12月5日(1863.1.24)、土佐藩間崎哲馬・土佐脱藩坂本龍馬・近藤翔次郎が越前藩邸を訪問しました。春嶽が会見したところ、大坂近海の海防策を言い立てたそうです。 参考:『続再夢紀事』(2004.1.27) |
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