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文久2年12月3日(1863.1.22):
【江】攘夷奉勅:勅使と春嶽の内議(慶喜欠席)。春嶽、攘夷布告に同意
【江】薩摩藩と守護職:勅使三条実美、久光の守護職任命の幕議に驚く
【江】横井小楠、攘夷三策を春嶽に建議
【江】幕府、軍制改革(歩兵組の編制)

■攘夷別勅使東下
【江】文久2年12月3日、政事総裁職松平春嶽は、勅使三条実美・姉小路公知からの申入れで、会談をもちました(後見職一橋慶喜は欠席)。

●攘夷布告要請
春嶽は、攘夷の勅旨の速やかな布告を再度求める勅使について、「無論布告する筈」だと回答しました

<ヒロ>
勅使は11月29日、慶喜による饗応の席上、速やかに攘夷を布告するよう求めましたが、そのときには、<来春、将軍上洛の上でいろいろ見込みを申上げた上で布告するつもりだ>と拒絶されていました。慶喜は将軍に先発上京し、朝廷に開国を入説するつもりだったので、その行動を縛ることになる布告は避けたかったようです(こちら)。この日、慶喜は病を理由に欠席しましたが、もしかしたら、度重なる布告要請があることを察して、それを避けたのでしょうか(憶測)。実は、春嶽も風邪で登城を控えていたのですが、幕府から急使をもって呼び出され、勅使の会見申入れを聞かされています。慶喜が会見を辞退したため、仕方なく、風邪をおして勅使の宿舎を訪れています。春嶽も開国主義ですが、「条約破棄⇒諸侯会同による国是決定⇒改めて条約を結び開国」という道筋を考えていました。このため、一旦攘夷を布告することには抵抗がなかったのでは、と思います。ただ、この春嶽の回答は、慶喜や幕閣の支持を得たものだったんでしょうか??【関連:テーマ別「国是決定:攘夷奉勅VS開国上奏」

●島津久光の守護職任命
また、春嶽から、幕府が島津久光の守護職任命を叡慮によって命ぜられたことなので請けることを聞くと、三条は痛く驚いた様子だったそうで、<諸藩の折り合いに閲することはないのか>と言いました。しかし、春嶽が<勅使の指図とあれば幕府が再考しないことはない>と答えると、<そのような事の指揮には及び難い>と述べたそうです。

<ヒロ>
久光を二人目の守護職にとの朝命は、三条ら激派がが不在の間に巻き返しをはかる薩摩藩士藤井良節が公武合体派の関白近衛忠煕らに働きかけた結果であり(こちら)、三条らにとっては歓迎すべきものではありませんでした。また、久光の守護職任命にはすでに守護職に就任している会津を始め、尾張・長州が強く反対していました。三条は、会津藩らの反対、そして幕府の薩摩藩への猜疑心を知っており、まさか幕府が請けるとは思っていなかったのではないでしょうか。実際、幕府は請けることにしたものの、会津藩らの反発を考慮して、来春将軍上洛時まで発表を見合わせることにしていました(こちら)。

【関連:テーマ別「会津VS薩摩(薩摩藩の守護職任命運動)」】

●慶喜の上坂
さらに、幕府は、慶喜が近日上坂することについて、勅使の回答がまだだったので、再度相談したところ、「別に存じよりはない」と答えました

<ヒロ>
勅諚伝宣の翌々日の11月29日に慶喜主催の勅使饗応の席上、慶喜は摂海防禦のための上坂計画を伝え、意見を聞きましたが、勅使は即答を避けていました。勅使の回答を得ないまま、幕府は、30日には慶喜と老中格小笠原長行の海路上京を内定していました(こちら)。翌日に慶喜に対して出る幕命は、大坂湾警備のための視察のための上坂なので、勅使にも、そのように説明していたのではと思います。勅使としても、慶喜上坂の目的は外国の脅威から京都を守るための摂海防禦であり、しかも、視察(大兵は伴わないことが予想できる)なので、反対するわけにもいかなかったのではないでしょうか。

参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2(2004.1.22)
関連■テーマ別文久2「京都武力制圧策VS幕薩連合の公武合体派会議策」 関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」

■横井小楠の攘夷三策
【江】文久2年12月3、越前藩政治顧問の横井小楠は攘夷三策を建議しました。その内容は以下に要約する通り。
  1. 無断調印関係者の処罰と将軍の即時上洛:勅許を得ずに開港したことが、天皇の宸襟を悩まし、万民の憤怨を呼んだ。関係した大小諸有司の事跡を調べて処罰した上で、将軍は速やかに上洛し、誠意をもって朝廷に尊崇の念を示し、その上で「断然攘夷の御処置」(=現行条約の破棄)にとりかかること
  2. 外国への信義(現行条約破棄と後日の開国):各国公使を江戸城に招き、勅使・将軍以下諸侯同席の上、条約破棄の理由を説明し、勅許のない諸港を引払うよう求める。そのことを本国に伝達させ、後日、使節を各国に派遣し、改めて開国の旨を通達すること
  3. 摂海防禦体制の整備:京都守衛のため、大坂港はじめ近畿の沿岸に砲台・砦等を築造し、海防の備えを整えること
<ヒロ>
小楠の攘夷三策は、越前藩の藩論ともなっている必戦破約論(現行の条約は不正なので必戦覚悟で破棄する。その後、諸侯会同して国是を決定し、改めて自主開国をする)こちら)と、持論である「国是七条」(1.将軍上洛と失政の陳謝、2.参勤交代廃止(術職へ)、3.諸大名の妻子の帰国、4.外様譜代に拘らない人材登用、5.言路洞開と「公共」の政治、6.海軍振興と強兵、7.相対交易から官交易へ)(こちら)に沿ったものになっています。

参考:『続再夢紀事』一『横井小楠の新政治社会像』(2004.1.22)
関連■テーマ別文久2「横井小楠」

■幕政改革
【江】文久2年12月3日、幕府は軍制を改革し、翌文久3年1月中旬を期限として歩兵組を編制することにしました

万石以下の百俵までの旗本・御家人に、以下のような軍役を課し、17歳から45歳の人員を差出させて銃隊を編制するもので、これを「歩兵組」と名づけました。

兵賦の割合は、知行取500石1人、1000石5人、3000石10人で、知行取500石以下・蔵米取・足高は歩兵を差出す代わりに金納としました。

ただし、「上下疲弊の折柄」であるので、当分の間、500〜3000石までは兵賦を半減し、差支えがあれば金納を許しました。また、500石以下には追って沙汰あるまで金納を免除しました。

歩兵の差出しは翌文久3年1月中旬が期限とされました。

<ヒロ>
文久3年2月には将軍が上洛する予定になっていますので、これにあわせての歩兵組の上洛(名目は摂海防禦)が念頭にあったのではと想像しています。激派による親兵設置要求へのけん制ともなるでしょうし。結局のところ、旗本・御家人の反発により、この構想は実現しなかったのですが・・・。

参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2(2004.1.22)
関連:■テーマ別文久2「幕政改革問題

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