■参豫会議へ
【京】 文久3年12月22日、前越前藩主(前政事総裁職)松平春嶽は将軍後見職一橋慶喜を訪問し、時勢に適合した政体の必要性を説き、それには幕習を脱した創業を方針べきだとの言質を引き出しました。慶喜は、また、「創業」の基本は在京諸侯との衆議の上確定すべきだとの春嶽の意見にも同意しました。
かねてから、春嶽はこのように考えていました。
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叡慮は既に公武合体を望んでおられ、中川宮始め要路の方々もすべて同様のご意見である上、在京諸侯も専ら公武合体に奔走している。これで将軍の上洛があれば、現在、公武の間に横たわる雲霧は即座に消散するだろうが、更に「時勢に適する政体」を確立せねば、「国家永遠の治安」を期すことはできない。「時勢に適する政体」を確立するには、「第一に従来の幕習を脱却」すべきである。ところが、幕習を脱却することは老中以下幕府役人の最も嫌忌するところなので実際の成否は一橋殿の方針次第である |
それで、さしあたりこのことを協議しようと、この日、慶喜を訪問したそうです。
両者のやりとりは次の通り
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「今の時勢に処せらるべき御方針は創業の御著眼なりや中興の御著眼なりや」 |
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「成否は測り難けれど創業の方なり |
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「創業は誰と共に基を立らるる御胸算なりや。鄙見は、目下出京の諸侯と共に議し、衆議一定の上確定さられ然るべしと存ずるなり」 |
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「拙者もしか思ふなり」 |
慶喜が諸侯会議に同意したので、相談の結果、二条城を諸侯の集会所とし、同月24日から会議を開くことに決めました。(実際は初回の二条城会議は25日に開催されました)。
<ヒロ>
松浦玲氏は、「このやりとりは、慶喜の方から積極的に意思表明したわけではなく、全体として、慶永の熱っぽい思い込みに反対はしなかった、という感じが強い」(『徳川慶喜 増補版』)と指摘していますが、その通りだと思います。
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参考:『続再夢紀事』二p302-303、『徳川慶喜 増補版』、『徳川慶喜公伝』2(2001.1.30、2005.2.3) |