1月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年12月21日(1864.1.29)
【伏見】嘆願(23)勧修寺経理、藤森神社で井原主計の陳情を聴取/571
有栖川宮、井原に使者を遣わし、下坂して朝命を待つことを諭させる/
【京】中川宮邸会議:慶喜・春嶽・宗城、慶喜らの朝議参加、久光の叙任等を協議/

■長州藩家老井原主計の入京・嘆願
【伏見】文久3年12月21日、朝廷は勧修寺経理及び伝奏の雑掌2名を伏見の藤森神社に派遣し、長州藩家老井原主計の聴取をさせました。571

この日の会見で、井原は、ただ<八月十八日の一件について毛利讃岐・吉川監物に御不審の筋があるので藩主が吟味せよとの御沙汰がありましたので、篤と吟味に及びましたが、別段申し上げるほどの事実はありませんでした。この上は「御憐の程」をお願いいたします>というのみだったそうです。あまりに簡単なので勧修寺が驚き、伝奏の雑掌を退けて京都留守居を呼び出し、<ただ今の井原の申し立ては至って簡単である。雑掌同席なので遠慮したのではないか>と尋ねたところ、留守居は<別段遠慮したのではなく、先刻申し上げたほかには申し上げるべき廉はありません>と答えて、退散したそうです。

朝廷内では、先日来憂慮していたが案外であったと一笑する者もあったそうです。

同日、有栖川師宮・烏丸侍従は家臣を遣わして井原を慰撫させ、下坂して朝命を待つよう諭しました。(井原が入京をあきらめて下坂したのは翌文久4年1月21日)。

<ヒロ>
●おさらい
○根来の入京・嘆願

文久3年8月18日の政変の報が長州藩に届いたのは8月23日でした。これより先、8月20日に、大和行幸の詔と長州藩主父子上京の沙汰を伝達するために家老根来上総が帰国し、22日に世子定広の上京が決まったばかりでした(こちら)。敬親は根来上京して嘆願書を朝廷に提出するよう命じ、根来は29日に山口を出立しました(こちら)。根来は9月13日に大坂に到着しましたが(こちら)、朝廷は彼の入京・嘆願を許さず、京都留守居役乃美織江に嘆願の趣旨を聴取し、さらに政変当日の毛利元純らの挙動を取り調べるよう命じました(こちら)。在坂藩士の中には押して上京すべきとの意見もありましたが、結局、朝命に従うことになり、根来は嘆願書を乃美に託しました(こちら)。乃美は、同月23日、勧修寺家を通して嘆願書を提出しました。

○井原の入京・嘆願
その一方で、長州藩は、9月16日に世子定広の上京を決定し(こちら)、10月1日には「朝政回復」のために「君側の姦」を除くことを藩士に達し(こちら)、同月10日には、藩士に世子随従を予め命じ、決意を固めさせていました(こちら)。(とはいえ、藩庁の大勢は即時の率兵上京は視野に入れておらず、真木和泉が諸卿に率兵上京三策を献ずる(こちら)など六卿の周辺では進発論が高まるのをみて、彼らが暴発せぬように六卿を三田尻から山口に移すなど、慰撫に努めていました(こちら)

このような状況下、根来は所期の目的である入京して直接朝廷に訴えることを果たせぬままに10月23日に山口に帰り着きました。長州藩は、世子上京に先立って藩主父子の「赤誠」を朝廷に達するために、今度は家老井原主計に「奉勅始末」と毛利元純(支藩清末藩主)等の挙動取調書とを授けて上京させることを決めました。

11月3日、井原は山口を出立しました(こちら)。京都留守居の乃美は、15日、西上してくる井原の入京許可を勧修寺家を通して朝廷に願い出ていましたが、何の沙汰もなかったため、19日、再願しました。これに対し、同日、勧修寺家からは井原持参の毛利元純取調書は京都留守居の乃美が下坂して持ち帰るようにとの達しがありました。つまり、井原の入京は不許可ということでした。27日、伏見に入った井原は、勧修寺経理を通じ、供方を減らしてでもよいので入京を許可するよう朝廷に嘆願しました。

井原の入京には会津藩(秋月悌次郎)が強硬に反対し、28日、慶喜・春嶽・宗城は、秋月の意見を容れて、入京不可を決めた(こちら)。秋月は伏見に伝奏を派遣するという代替案にも反対したため、翌29日、春嶽が、それでは会津藩が応接しては提案すると、会津藩と長州藩は互いを仇敵視しており、穏やかな応接は無理であるとを断り、政変に関与しておらず、かつ上京途中に長州で嘆願を受け付けた筑前藩世子黒田慶賛に依頼してはどうかとの私見を述べた(こちら)。12月2日、慶喜・春嶽・宗城・久光及び慶賛が集まって評議した結果、朝廷執次に所司代の家臣を添えて伏見に派遣することに決まった(春嶽の提案)。11日、朝使として歓修寺家の雑掌と所司代の公用人2名が伏見に赴き、井原から書面(奉勅始末と取調書)を受取った(こちら)。14日、慶喜ら在京諸候は、井原提出の書面を検討した結果、井原に帰国して指図を待つよう命ずることに決めた。16日、井原に帰国の朝命が伝えられたが、井原は服せず、19日、書面だけでは不十分なので、入京して言上させてほしいと嘆願した。朝廷は、慶喜・容保に諮問した結果、歓修寺経理を伏見(藤森神社)に遣わし、井原の口上を聴取することを決定していました(こちら)
の日の会合に参加しているのは秋月の言によると想像されますこちら

関連:■テーマ別文久3年「長州処分」「長州進発&家老の上京・嘆願」■長州藩日誌文久3
参考:『続再夢紀事』二、『徳川慶喜公伝』2(2005.2.3)

■参豫会議&久光叙任
【京】文久3年12月21日、中川宮邸に、一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城が集まり、慶喜らの朝議参加、久光の叙任等について内談しました。

内談の概容は以下の通り。
△「朝議御席」へいよいよ「罷出候様可相成」、「参謀とも何とも」名称を付けるよう、「念五迄」に考えること
△中川宮は「二条城参集」も促されたこと。
△三郎に従四位下少将を仰せ付けられるべきであること。
△一橋公が「御後見御免の陳情」を言上。中川宮からも「真之御合体」の「不抜」の「基本」が定まれば、「御免被願度御内話」があったが、これには不同意であると申し上げ置いた。
(出典:『伊達宗城在京日記』p278)

関連■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3年「参豫会議へ」「久光叙任」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」薩摩藩日誌文久3 ■徳川慶喜日誌文久3
参考:『続再夢紀事』二p301-302、『伊達宗城在京日記』p278(2005.2.3, 2010.4.3)

【京】同日、将軍後見職一橋慶喜は御池通神泉苑町酒井若狭守屋敷に移りました。

参考:『維新史料綱要』二(2005.2.2)

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