12月の「今日  幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年11月6日(1863年12月16日)
【京】薩藩高崎猪太郎、春嶽に長州・七卿処分の意見をきく 
【京】伝奏、激派藩士・浪士取締の回達書を諸藩に/
所司代、浪士取締の方法を諸藩に示す
幕府、長州藩に潜伏藩士取締を命ず

■長州処分
【京】文久3年11月6日、前越前藩主松平春嶽は薩摩藩士高崎猪太郎(五六)に対し、国是を決定した上で長州・七卿処分あるべきとの島津久光の意見に同意する旨を告げました。

この日、春嶽を訪ねた高崎は、筑前藩士黒田山城が島津久光を訪ね、薩長の間や七卿と中川宮の間の和解を図ることを提案した一件(こちら)について述べました。
春嶽 そのことは肥後藩長谷川仁右衛問から聞いたが、三郎殿(=島津久光)はどのように思召されるのか?
高崎
(猪)
皇国の政体を確定した上で七卿の事も長州の事も処置あってしかるべきだと申しております。
春嶽 この方の存意も其の通りである。目下の形勢では七卿なり長州人なりが畿内に入れば再び混乱を惹起するだろう。ところで、山城へ勘考すると申した上はいずれ何か返答する心積りだろう。どのように返答する積りなのか。
高崎 当節、尊公(=春嶽)始め、肥後両公子、会津候、及び三郎が集まり、追々国家の基本を確定する事に尽力されるので、基本確定の上で長州が謝罪を申し出るならともかくも、現在は何とも為し様がないと答える積りです。
春嶽 実際はその通りだが、高崎がそのように答えれば、長州はいよいよ薩摩を疑うだろう。であれば、三郎殿及び会津・肥後両公子・伊達(=前宇和島藩主伊達宗城)・拙者らが会同して、その席へ下野守(福岡藩主)を迎え、只今高崎が申した趣を説いてはどうだろう。
高崎 それも然るべき事ですが、あまりに廉が立ちますので、一応は猪太郎が列席して説破し、万一説破に服さねば六候を煩わすことに願いたく思います。
であれば拙者は別に存じよりはない。今日の議に拙者が同意した事を高崎より伊達へ伝えてほしい。

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3「参与会議へ」「長州処分&家老の入京歎願」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニp215-216(2004.12.15)

■政変後の浪士対策
【京】文久3年11月6日、朝廷(伝奏)は、激派藩士・浪士取締の回達書を諸藩に出し、それを受けて所司代は浪士取締の方法を達しました。この件につき、幕府は長州藩に対して特に別命を下しました

同月4日には朝廷は、諸藩に浪士の捕縛を許可していました(こちら)。

この日、朝廷の出した指示は<春以来、公卿が叡慮を矯めるようになったのは、藩士や浮浪の者が公家に立ち入り、悪しき入説をしたからであり、これらの者を各藩においてきっと取り調べるように>というものでした。

所司代は諸藩に対し、<各藩の家来の出京在留の行き違いがあってはいけないので、屋敷・本陣はいうまでもなく寺院・町屋にいる者の人員姓名を月番町奉行所に届出ること>と指示をしました。

幕府が長州藩に出した命令は<留守居役と添役の一両人以外は滞京ないようにという先だっての御沙汰の通り心得、その姓名従僕にいたるまで届出るように。もし出京潜伏者がいれば取り締まるよう、御固め(=守護職・所司代・奉行所のこと?)の面々に達してあるので、心得違いのないよう申し聞かせておくこと>というものでした。

関連:■テーマ別文久3「政変後の浪士対策
参考:『七年史』ニ(2001.12.16)

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