12月の「今日  幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年11月5日(1863年12月15日)
【京】土佐藩下許武兵衛、春嶽訪問
【江】幕府、将軍家茂上洛の勅書奉承

■参豫会議へ
【京】文久3年11月5日、土佐藩下許武兵衛が前越前藩主松平春嶽を訪問しました。

下許は、先日来、尹宮(=中川宮)・近衛前関白等から容堂へ一日も早く上京する様にと催促がるのに、今もって出発に至らないことから、近々に国許に出発する予定だと告げました。春嶽は<一橋公始め賢諸侯が追々この地に参集にはなったが、「此方の知己中、互いに赤心を吐露して相談すべきは独り容堂殿あるのみ」なので、この一日も早い御出発を望み、日夜その報を待っている>と述べました。

■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3「参与会議へ」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニp218-219(2004.12.15)

■将軍再上洛
【江?京?】文久3年11月5日、幕府は将軍家茂上洛の勅命の奉答書を朝廷に提出しました

「大樹上洛の義、御沙汰候の處、当今横浜鎖港談判中不安心に付、上京致し難き趣尤もには聞こし召され候えども、何分公武御一和、天下の大策を立てられたき厚き叡慮の御次第も在らせられ候間、精々勘弁を加え、強て早々上洛之有候様遊ばされたき旨更に仰せ出され候厚き叡慮の御旨、深く御敬承成され候。御用意次第、早々上洛成さるべく候。此段然るべき御執奏之有り候様致したく存じ候。以上」

<おさらい>
慶喜は、東帰後の5月14日、横浜鎖港の勅旨を貫徹できないことを理由に後見職辞表を朝廷に提出し(こちら)、却下されると、6月13日には即時攘夷ができないことを理由に二度目の辞表を提出しました(こちら)。さらに、生麦事件賠償問題や下関外国船砲撃事件での薩長処分に関して、幕府が自分の意見を採用せず、後見職は名のみで実がないと、6月24日には3度目の後見職辞表を朝廷に提出しました(こちら)。今度も、朝廷から強く慰留されたため、「上京の上委細天意を伺ひ、御沙汰次第、如何やうにも捨身の微忠を尽し奉るべし」との決意を朝廷奏したそうです(こちら)。前後して、京都では将軍譴責の勅諚が下され(こちら)、勅諚伝達の使者として、 7月15日、禁裏附武士小栗正寧が江戸に到着しました。善後策を協議した幕府は、慶喜に関東の状況を説明させるために上京させようと決め、7月18日に、慶喜に上京の台命が出されました。しかし、幕府は鎖港交渉開始を決定したため(老中以下有司と在府諸侯に不実の交渉開始を通達こちらこちら)、8月13日、慶喜の上京は延期されていました。

8月18日の政変で、攘夷親征を主唱していた尊攘急進派七卿や長州藩は京都は追放されましたが、孝明天皇の攘夷の意思は変わらず、19日に、朝廷は、攘夷督促の令を出しました(こちら)。政変後、幕府には、将軍が再上洛し、その上で開国・鎖国の利害を奏上すべきだとの意見も起こりましたが、23日、慶喜と老中板倉勝静の主張で、鎖港の上での将軍上洛を決定しました(こちら)。一方、9月1日、朝廷は攘夷別勅使有栖川宮・副使大原重徳の東下を決定し、守護職・松平容保に攘夷別勅使に随行を命じるとともに、後見職一橋慶喜に鎖港督促の沙汰を下しました(こちら)。また、14日には、政変後の騒然とした情勢下の天機を伺い、攘夷(横浜鎖港)遅延が止むを得ない事情を説明するために上京・参内した在京老中酒井忠積に対し、改めて攘夷を督促しました(こちら)。同日、江戸では老中が米蘭公使と会見し、横浜鎖港交渉が開始され、27日、朝廷に、鎖港交渉開始に関する慶喜・老中の上奏書が、容保より奏上されました(こちら)。また、6日には前尾張藩主徳川慶勝が別勅使東下中止の上書を提出しました(こちら)。7日、朝廷は別勅使東下猶予を決定するとともに、横浜鎖港交渉について聞くためとして、慶喜の上京を命じると(こちら)、さらに、10日、将軍の上洛も命じていました(こちら)。幕府は、17日、将軍上洛を辞退し、慶喜に上京を命じました(こちら)。しかし、朝廷は将軍上洛を再度命じていました(こちら)

なお、慶喜は26日に、海路上京の途に着きましたが、陸路をとった兵士らと同時に入京するために航海を急がず、入京したのは26日になりました。

参考:『七年史』ニ(2001.12.15)
関連:■テーマ別文久3年:「将軍・後見職の再上洛」

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