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文久3年11月7日(1863.12.17):
【京】春嶽・容保、中川宮訪問。
【京】肥後藩長谷川仁右衛門、越前藩訪問。
長州&七卿処分に関する諸侯の協議は
後見職一橋慶喜の着京を待つことになる

【越前】中根雪江の蟄居を解除し、上京を命ず

■禁門の政変by中川宮
【京】文久3年11月7日、前越前藩主松平春嶽は京都守護職(会津藩主)松平容保とともに中川宮を訪ねました。

●政変始末
中川宮は、春嶽の求めに応じて政変当日の状況を語りました。
先日(8月18日こちら)は、容易ならぬ次第で、一時はどのような大事に至るかと心痛した程だったが、意外と速やかに鎮定に至り、その上今般春嶽殿も上京されたのは大慶の至りである。これは全く肥後殿(=容保)の尽力、そして此方(=自分)共にも配慮した結果である。会津は「奸賊」、此方は「陰謀」、越前は「朝敵」と言われたものだが、この三人が今日同席するのは真に寄寓というべきである(と笑う)
八月十八日の事は、国許にあってその風説を承るのみですので、その実のところを伺いたい。
最初、三条始め「激徒等」は御親征として大和国へ行幸を主張し、既に八月二十七日の御出発が内決していたが、実は、三条は、先発として十八日に京都を出発し、また中山(忠光)は大和にて予め挙兵して五条の陣屋を攻め、代官鈴木源内を殺戮して三条を迎え、それより勢いに乗じ、畿内五国を取って御料地となし、そこへ行幸されれば、さらに鳳輦を長州に奉ずるという手筈であった。

さて、その頃、此方には、西国鎮撫を名目に、実は豊前小倉を征討せよとの内命があった。もし、内命を請けねば当邸に放火するとの脅しがあり、武田相模守(=中川家諸大夫)は、いよいよそうなれば、此方を背負って難を避けようなど密かに計画いたしていた程である。

このように「激徒等の粗暴愈増長して何分捨置かたかりし故」、会藩へ申し談じ、予め策を定めて、八月十六日早朝参内した。主上はお目覚め前であったので、特にお目覚めを願ったが、「兼て御痔痛在らせられ、御用場にて殊の外時刻を移らされられ」たため、はからずも辰の刻近くになり、国事掛などが参内し始めたので、この日はその「定策」を奏上せぬうちに退出した。

さて、退朝後、二条右府・近衛左大将・徳大寺内府へ相談したところ、「早朝にてハ御目覚の御都合にて指支」えがあるだろうから、「十七日夜より十八日暁の間に決行」するのがよい、とのことであった。

そこで会津藩と打ち合わせ、十七日夜、急に参内し、三条以下の参内を止められ、長州の堺町御門警護を免ぜられるよう奏上したところ、やがてこの二件を命じられた。また、打ち合わせ通り、会・薩より藩兵を出動させた。このとき、近衛・二条も遅れて参内し、肥後守も参内されたが、「最危殆なりと」思うのは、因州・阿州も参内したのに、三条らが関白殿の邸に参集し、今一度参内を許されたいと懇願したときである。此方及び二条・徳大寺などは最早一度たりとも参内を許してはならぬとの意見で、肥後殿に相談していたが、それを因・阿が何か立ち聞きして、三条らの願い通り今一度参内をお許しになり、篤と説得されるべきである、万一その願いを許可され難いのであれば、禁闕に発砲に及びかねぬので、主上には予めお立ち退きになるべきである、と申し立てたのである。此方らはこの一事に頗る当惑したが、折から薩摩藩より、三条らの激徒がどこかへ脱走したとの報告があった。いよいよ脱走と定まれば、生涯参内は許されぬという掟もあり、また、因阿より頻りに参内を許されるようにとの申し立てもあるので、此輩の心を鎮撫するためにもよいだろうと思考し、速やかに呼び戻せと申し付けたが、行き届かず、ついに長州まで落ちて行った。この日の心痛は、此方も会津も実に譬えるものがない程だったが、格別の大事に至らずに鎮定したのは、全く内侍所の御威霊によるものである。

●越前藩挙藩上京計画
また、中川宮は、この夏に広まった春嶽上京の風聞の真偽について本人に問いました。

弊国は帝都に程近く、祖先以来、万一畿内に騒擾あれば速やかに馳せ登り、鳳輦(=天皇)の守護に力を尽くす心得でした。攘夷鎖港の期限を仰せ出され、いつ摂海に夷船が迫り来るやも測りがたく、また時節柄輦下にどのような変事が起こるとも限らないので、改めて覚悟を申し渡しました。実は家老共の中に、これを名として上京して激徒を排除すべきと申し、その陣列を示した事がありました。この事を聞いた激徒が尾に花を咲かすように種々言いふらし、遂には朝敵とまで申すようになったのだと存じます(と、同月1日の二条斉敬右大臣との会見(こちら)の際と同様の説明をしました)。

当時、もし上京されれば如何なる危難があるともしれなかった故、肥後殿へは越前がいよいよ上京すれば途中で遮り、帰国させるようにとの内命があり、肥後殿も、帰国勧告が万一聞き入れられねば、懇親の間柄ながら、死を以て朝命を支える覚悟であった


二条右大臣といい、中川宮といい、春嶽との最初の会見で越前藩の挙藩上京計画について確認しています。いかに関心が高かったかわかると思います。で、春嶽は、またまたごまかしています^^;(ほんとのところは⇒テーマ別「越前藩の挙藩上京計画」)。それにしても、会津藩が命を賭けて遮りに出動する予定だったとは・・・・・・。

●春嶽への期待
その他のやりとりの大意は以下の通り。
春嶽殿が今般上京の上は、皇国の基本を立て、公武の御合体に尽力あるべきはずと存ずる。
御尤も至極に存じます。春以来の不束(=総裁職の無断辞職・帰国)をも勅免の上、登京の命を下されたからには、どのような事でも遵奉・尽力するつもりです。しかし、時宜不適当の命があれば、どこまでも愚衷を申し上げるつもりです。

素よりそうあるべきである。さて、一橋も上京の筈だが、この人は「気質偏頗」でこれを改めねばならない。しかし、肥後殿は職掌ある身分で十分忠告しがたい内情がある。春嶽殿はそのような内情もなく、当春まで同勤された間柄でもあれば、ご尽力あるように。
一橋の気質は兼て承知の事ですので、精々尽力いたしましょう。
しかし、春嶽殿も追って何か職掌を託されるやもしれない。
職掌があれば十分には意見できぬこともありますし、ことに当春(京都では)関東びいきなど味噌を付けられた事もありますので、どこまでも職掌はお断り申し上げ、やはり隠居のままで尽力を命ぜられるように願いたいものです。

<ヒロ>
同席した容保の発言が記録されていませんが・・・何も発言しなかったのでしょうか?(それとも、記録するほどの発言ではなかったのでしょうか??)

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3「参与会議へ」■徳川慶喜日誌文久3
参考:『続再夢紀事』ニp224-229 (2004.12.18)

■長州&七卿処分
【京】文久3年11月7日、長州&七卿処分に関する諸侯の協議は一橋慶喜の着京を待つことになりました。

この日、肥後藩長谷川仁右衛門が、越前藩邸を訪ねました。長谷川が応対の酒井十之丞に語ったところによれば、黒田家(=筑前藩)では、<脱走の七卿を只今のままに棄て置かれては浮浪の輩がいよいよ過激となり、この上いかなる騒擾を惹起すべきやもわからぬ故、七卿には帰京を命じられるべきであり、もし帰京を命じるのが難しければ大坂に呼び迎えるべきである>と、その後も主張していたそうです。この件についてはは、同月6日の春嶽と猪太郎との協議で、政体の基本が決定した上で相当の処分をすべきであること、その旨をまず猪太郎が黒田山城に説破することが決まっていました(こちら)。しかし、その後、高崎と長谷川との会談で<これほどに議論のある一件を関東を差し置いて諸侯だけの協議で抑えておくべきではない。一橋公の御着京を待って委曲の事情を申し上げ、一橋公より一件を朝廷に言上し、その上で相当の詮議をすべきだ>との結論になったそうです。酒井が長谷川の意見を春嶽に諮ったところ、春嶽にも異論はなく、慶喜の着京を待つことになりました。

関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3「参与会議へ」「長州処分&家老の入京歎願
参考:『続再夢紀事』ニp229-230(2004.12.15)
■中根雪江
文久3年11月7日、越前藩は中根雪江の蟄居を解除し、上京を命じました。

中根は、挙藩上京計画に関わる藩主の参府延期問題をめぐって6月14日に蟄居に処されていました(こちら)ので、約5ヶ月ぶりの政局復帰となります。

■テーマ別文久3「越前藩の挙藩上京計画
参考:『続再夢紀事』ニp230-2311(2004.12.16)

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