12月の「今日 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
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■禁門の政変by中川宮 【京】文久3年11月7日、前越前藩主松平春嶽は京都守護職(会津藩主)松平容保とともに中川宮を訪ねました。 ●政変始末 中川宮は、春嶽の求めに応じて政変当日の状況を語りました。
●越前藩挙藩上京計画 また、中川宮は、この夏に広まった春嶽上京の風聞の真偽について本人に問いました。
↑ 二条右大臣といい、中川宮といい、春嶽との最初の会見で越前藩の挙藩上京計画について確認しています。いかに関心が高かったかわかると思います。で、春嶽は、またまたごまかしています^^;(ほんとのところは⇒テーマ別「越前藩の挙藩上京計画」)。それにしても、会津藩が命を賭けて遮りに出動する予定だったとは・・・・・・。 ●春嶽への期待 その他のやりとりの大意は以下の通り。
<ヒロ> 同席した容保の発言が記録されていませんが・・・何も発言しなかったのでしょうか?(それとも、記録するほどの発言ではなかったのでしょうか??) 関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3「参与会議へ」■徳川慶喜日誌文久3 参考:『続再夢紀事』ニp224-229 (2004.12.18) ■長州&七卿処分 【京】文久3年11月7日、長州&七卿処分に関する諸侯の協議は一橋慶喜の着京を待つことになりました。 この日、肥後藩長谷川仁右衛門が、越前藩邸を訪ねました。長谷川が応対の酒井十之丞に語ったところによれば、黒田家(=筑前藩)では、<脱走の七卿を只今のままに棄て置かれては浮浪の輩がいよいよ過激となり、この上いかなる騒擾を惹起すべきやもわからぬ故、七卿には帰京を命じられるべきであり、もし帰京を命じるのが難しければ大坂に呼び迎えるべきである>と、その後も主張していたそうです。この件についてはは、同月6日の春嶽と猪太郎との協議で、政体の基本が決定した上で相当の処分をすべきであること、その旨をまず猪太郎が黒田山城に説破することが決まっていました(こちら)。しかし、その後、高崎と長谷川との会談で<これほどに議論のある一件を関東を差し置いて諸侯だけの協議で抑えておくべきではない。一橋公の御着京を待って委曲の事情を申し上げ、一橋公より一件を朝廷に言上し、その上で相当の詮議をすべきだ>との結論になったそうです。酒井が長谷川の意見を春嶽に諮ったところ、春嶽にも異論はなく、慶喜の着京を待つことになりました。 関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3「参与会議へ」「長州処分&家老の入京歎願」 参考:『続再夢紀事』ニp229-230(2004.12.15) ■中根雪江 文久3年11月7日、越前藩は中根雪江の蟄居を解除し、上京を命じました。 中根は、挙藩上京計画に関わる藩主の参府延期問題をめぐって6月14日に蟄居に処されていました(こちら)ので、約5ヶ月ぶりの政局復帰となります。 ■テーマ別文久3「越前藩の挙藩上京計画」 参考:『続再夢紀事』ニp230-2311(2004.12.16) |
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